Ending
will be announced when it's ready.
Take care. Live healthily.
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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)や「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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on a day in April
少し前に漫画家が栃木のダムに身を投げたけれども、そこは確かそれ以前にも発達障害の診断を受け絶望ながら自転車で日本一周した人が飛んだ場所でもあった気がする。水に溺れるのは苦しい気がするし、私はダムは考えなかった。勿論、私の方法でも苦痛なくきれいに終われることなんかないんだけれどもね。
報道直後は盛り上がっていた人々も、もうあっという間に、原作改変の問題なんてきれいさっぱり忘れている。大衆なんて所詮そんなもんだ。
それでも、宝塚の件は死亡から一年以上経ってから動きがあったり志望者が減ったりと、形に現れることが出てきたりしてもいる。
どうせ終わるなら、少しでもポジティブな可能性へ繋がったほうがいいよね。
on a day in June
ギターを失ってから運動量が極端に減り、外へ出る時間のための調整も無くなったので完全に時の感覚が崩れた。相変わらず不眠は不眠で朝の5時頃から1時間おきに気を失っては起きを数度、後は書こうと思いながらも気分が悪くなるをひたすら繰り返す日々(今は日が長い時期なので4時過ぎには明るくなってくる。明るくなってくると流石に眠らなければと血糖値スパイク利用態勢に入る。ひとしきり食べると少しだけ気を失える。)
おかげで書き残すものも全く進まずこんな時期になってしまった。これでは山も気温が上がり過ぎて当初の場所や方法は適さなくなったから調整が必要である。
なかなか思う通りに事が運ばないのが常だが、全く何もしていなかったわけではなく、最終的にはここを周知する必要があるので4月以降は少しずつTwitterを始動させている(やはり拡散力はTwitterが強い。良くも悪くもだけど)。しっかり「自己責任」させていただくわけだからね。無駄にはしない。私は無駄が大嫌いだ。
うっかり誤削除してしまったのだが、学校の感染対策に関する投稿がゆるプチバズし一週間程でじわじわ確か7万views位はいっていた(いいねリツイートも常にじゃんじゃん通知が来ていて訳がわからない状態だった、消すつもりがなかったので数をきちんと見ておらず思い出せないのも残念)ので、学校や教師のノーガードぶりに不安を感じている親子がそれだけ多いということだろう。実に痛ましい。
私は「パワハラ追い出し」の結果、5類の後も推定未感染でいることができている。もしあのノーガードの中にいたら、これまでに3、4回は感染させられていたことだろう。
感染3回で長期障害4割。パンデミック初期の感染抑え込みに比較的成功していた日本も4月からの波で(それなりの感染対策をしていた者含め)3回を超えた層が大半だろう(長時間同空間で他人と滞在せざるを得ない学校職場がノーガード化したら無理なのだ。空気感染するのだから)。そろそろ欧米と同じように長期障害(→就業や学業が困難になる等)の問題が顕在化してくる。ノーガードには「個人の判断」の結果なので当然のことだが、必死に対策をしていたのにノーガードに感染させられた方々が本当に居た堪れない。理不尽や暴力が罷り通る社会は美しすぎるので私は"new day"を選択する。まさしく「自己責任」で、しっかりとね。
"I believe in karma, what you give is what you get returned."
ひたすら食べては蹲ってを繰り返すのみなので腹回りに着々と肉がつき、流石に見苦しいから運動でもと久しぶりに自転車で遠出をした。目的地はかつて通っていたところとは別だったんだけど、慣れない地で道に迷い、仕方ないから遠回りになっても知っている道から帰ろうと馴染みの道へ出た。
ああ、そうだこの踏切の音。JRより音が低くて少しくすんだ感じだったな。とか、この下り坂の中にある信号が赤になるとイラッとしてたな。とか、ひたすら通りを走るから交差点名(?)の標識であとどれ位ってカウントして気合い入れてたな。とか、思い出した。
思い出したというのはそれらが全て今とは切り離された過去だったということの証で、思えばもう1年以上も経ったのかと、ぼんやり思った。
左小指を失いかけた踏切は通らなかったけど(近くは通ったんだけど、そこまでは行かなかった。だいたいの方角を見て適当に走っていたんだけど、謎感覚が回避したのかもしれない)、途中で失神しかけたり傷口を洗ったりした駅とか、脇に見ながら走り、この1年が錯綜し、全ては無駄だったと再認識。
『山月記』の李徴は、「どうして自分は虎になったんだろう」が「どうして自分は人間だったんだろう」に変わったと言及していたはずだけれど(もはや原文を参照する気も起きない)、同じように、もう勤労していた日々もSanctuaryがあった日々も遥か彼方、思い出せない。私はお気持ちで動くのではなく冷めた現実主義者なので、あくまで現実に適応し、淡々とすべきことを済ませて去ろうと気を新たにした。
そして、最後まで積極的周知はしないものの、法人名(国際基督大学法人)の解禁&文字打ち込みを開始し、なんらかの理由により情報を求め検索して訪問した方には現状が届く形をとることにした(積極的加害者である元所属(国際基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)については、そここそまず公開すべきなのだろうが、名称を打ち込みで目にするだけでも吐き気がするので極力見たくなく、必要最小限の形になっている)。
パワハラや人権にしろ日本語問題その他にしろ、特に志望者には必要な情報であろうから。素材は置いておいて判断はその方にしていただければいい。批判的思考をもとに、きちんと検証の上でね。私はきちんと検証されることを望んでいたし望んでいる。残念ながら、法人は向き合わず揉み消し「無かったことにして解決」とした。しかしそれでは全く解決になっていない。私が私である限り、法人は取り合わないのだから、私を滅する。そして死後に、今後を生きる人々が、その人々の生のためにここにある様々素材を活用してくだされば、私がここまで生きてきてしまったことにも、死ぬことにも、意味が生まれる。
しかし特に今は国語科の公募が出ているから、この件について急ぎ記載しなければと思っている。被害者を増やさないために。
都内は本当に和菓子の生菓子を買える場所が少ない。京都であれば食べたいと思えばすぐ水無月を買えるのに。
だけどもう葵祭も見送ったし祇園祭にも行かない。
京都も過去。全ては過ぎ去ったもの。手放して解放されよう。
私は多分幸せだったんだと思う。自分で選べるし、その術もある。
生きたいのに生きられないより、心身や認知が蝕まれて終わるより、勿論随分年はとったけど、充分に独りで自分を保てている状態で納得の上、責任を持って閉じられる。
子どもやパートナーがいたらこうはいかない。独りだからこそ可能なことだから、ずっと独り生きてきたこともやっぱり私には最適解だったなと改めて思っている。
ロマンス避けしまくって無事(?)だったけど、万が一パートナーができていたりしたら、パンデミックの中を絶対一緒になんか過ごせなかっただろうし、それは私にとってもつらいことだったろうから(相手もたくさん傷つけただろうしそうすることで自分も深く傷ついたはず)。そうせずに済んだのも謎感覚とロマンス避けのおかげ。
もう仕事をせずとも終うまでには充分な備えがあったのも謎感覚に感謝かな。とにかく法人内の収入は可能な限り積立貯金に回していたから(人事部のご担当にはきっと謎の貯金の人だと思われていただろう)。生きるためには足りずとも終えるには足る。実にちょうど良い。
一般的な幸せが当人の幸せであるとは限らないし、一般的な不幸が当人にとっても不幸であるとは言い切れない。道が無いのなら、それに合わせて歩むのみ。
穏やかに旅立てるよう、少しずつでもできる範囲の準備を続けよう。
桜桃忌に合わせて買ったさくらんぼ。
いつも通りケーキに乗せて焼いた。火を通すなんて、と言われそうだけど私にはこれが美味しいからこれでいい(乗せきれなかった分は生で食べた)。割れているのは種を取ってから乗せたから。うっかりガリっとやって歯を割るといけないからね。私は自分を信頼していないので先手を打つ。
焼くと色も抜け何だったかわからなくなる(から、焼く前も撮っておいた↑)。そう言えば小さい頃、駅前のパン屋のダークチェリーのパイが好きで、何故か「大きいぶどうのパン」と呼んでいた、のを思い出した。
「そう言えば」繋がり。ラジオでFiona Appleのものらしき歌(この曲が何だったのかはもう忘れた)が流れてきて「昔、嫌いだったよな」と"Fast as you can"を見直してみた。結果、「嫌い」なんじゃなくて引き摺られるから心底怖かったんだ、防衛でストッパーがかかっていたから「嫌い」で遮断していたんだと気付いた(アギレラ様を見事に避けたようにね)。
謎感覚の回避力、流石だな。当時まともに聴いていたら危険だった。調べたら彼女にも(親族によるものではないけど)暴力の履歴があった。いくつか他の曲も聴いてみたらなかなか良くて、すごい才能だなと思った。けど、彼女の世界は私からは遠くて、ダレンのようには馴染まない。
最近はダレンの曲ばかりを聴いている。
In the end of June
夏至も過ぎ、この先は冬至まで闇の時間が長くなっていく。4月から着々と感染数を増やしているコロナはGW後に火が入り(ICUでもGW後にコロナで入院者が出ていたよね)6月になると激しく燃焼を始めた。現場クリニックからは最近なんと「1ヶ月半」、特に「学生(おそらく児童生徒含む、というかそちらが主体だろう)」の再感染例が相次いでいると報告があった。
5月(GW後)の5類化ではじめのうちはマスクも含め様子見も多かった去年とは異なり、その後1年をどっぷりノーガードに浸かり染まり尽くした集団が全力でノーガードGWし、感染を日常へ持ち込み連鎖させてきたわけだから、盛夏(学校は9月の秋学期以降)に燃えた昨年より早い急増期を迎えているのだ。学校では早くも学級閉鎖が出始めているし、連鎖を止められる夏休みまであと一ヶ月弱もある。おそらくこの期間こそが今回の波の学校のピークに近い部分と重なるはずなので、この間に刈られる(ノーガードは当然のこととして)「きちんと対策しているのに巻き込まれる」子ども達・先生方が無数に出るだろう。居た堪れない。
クリニックで目視されている1ヶ月半ペースでの再感染は「地域のかかりつけ医的医療機関を受診している層」の感染歴行動歴聞き取りを踏まえた上での医師による判断なので信憑性が高いだろう。私は持続感染中の長期障害やキメラ株発症等の可能性もあるのではとは思っているけれども、いずれにせよ、一ヶ月半ペースで感染を繰り返していたら、「3回感染で4割」と言われる長期障害を負う人がみるみる増えてしまう。特にこの短期間再感染は「学生」に多い現象だということだから、先の長い子ども若者が、その長い期間を苦痛や絶望の中過ごさなくてはいけなくなるのだ。痛ましい。(なお、「自分は感染していないから大丈夫!」と、ノーガードこそが胸を張る傾向があるが、ノーガード達は「ウイルスは存在しない」とか「コロナはただの風邪」だとか「5類でコロナは終わった」「検査をしなければ感染しない」の考え方なので、現実に関係なく「かかっていない【ことにした】」だけである。ここまで重症でなくとも、「コロナ禍が去って〜」「夏風邪〜」で症状が出ても検査しない人間も多いし、最近の株は「発熱」「咳」等の従来マーカーとされていた部分を外してくる免疫回避型になってきているという分析もある。つまり、「自分が罹っていない」が「事実と異なる願望、思い込み、お気持ち」である可能性が、特にノーガードにこそ多いので大いに懸念される。)
とにかく、この夏はデルタ並みの心づもりで備えをしておいたほうがいいだろう。"NO HELP. NO TREATMENTS. NO CURE."の絶望を味わいたくないのなら。勧めないよ、絶望なんて。
感染、重症化、長期障害リスクを下げるのに最も合理的な方策はマスク。導入コストが安く電気代もかからずリスクも無い。重要なのは感染リスクを0にすることはできなくても、(感染してしまったとしても)ウイルス曝露量を少しでも下げておくこと。曝露量が多ければ多いほど、体内での増殖がそこからさらに盛んに起こるので重症化しやすくなるから。
(感染か感染していないか、対策するかノーガードかの)「ゼロイチ思考」でなく、感染を防げるのが一番ではあるけど、たとえ防げなかった場合にも曝露量を下げておくことのメリットをふまえた上で、マスクを基本として、その他のリスク(人物、場)回避、換気、空気清浄、手洗い等を組み合わせてウイルスに突破されてしまう穴の数を可能な限り減らしていきましょうという「スイスチーズ」モデルの考え方が重要。
何度も書いているように「マスクをすると熱中症になる」は非科学。日本救急医学会も明確に否定している。マスクをして上がるのは表面温度だけ。深部体温に影響はないので熱中症の直接要因にはなり得ない。
「マスクをして苦しい」は製品や付け方の問題も大きい。立体型で口鼻周りに空間ができるマスクを選択すれば、息苦しさは大幅に緩和されるはず(マスクは縁の部分がきっちり顔と密着していれば、その中に空間があることに全く問題はない)。
加えて自分で手軽にすぐできる効果の高い方策は「鼻うがい」。Covid-19は鼻の奥に取りつき増殖することがわかっている(だから自分を守る意味でのマスク着用で大事なのは、口だけでなく鼻もしっかり覆うこと。なぜか「自分のためだけ」にマスクする、咳やくしゃみをするときにわざわざマスクを外すような層こそが鼻出しなんだけど。非常に興味深いよね)。この部分のウイルスを洗い流すことで、感染予防または感染後のウイルス増殖抑止となるのだ。
その他、特にオフィス勤務等でノーガードによる空気感染リスクが高い場合には簡易空気清浄機の使用によっても、多少はリスクを下げられる。ただし、どんなに空気を清浄にしたところでノーマスクのフレッシュ飛沫を浴びればあっという間に感染するので、あくまで「空気感染リスクを多少下げるもの」でしかなく、最も重要なのはユニバーサルマスクであることは念押ししておく。
通勤電車、バス、学校、オフィスなど、飛沫に加え(特に長時間の)空気感染リスクが高い環境下で、せめて曝露ウイルス量を多少下げる程度の効用でしか無かったとしても、個人ですぐ、比較的安価で手軽にできることなので、興味のある方は是非。
どうして今これを書いているかというと、一昨日くるりのライブハウスツアーの公演当日中止発表があり、昨日岸田氏のコロナ感染が公表されたから。
ギターの日々の中で度々取り上げたくるりは、私が大学時代にライブジャンキーになったきっかけを作ったバンドで、そう言えばこのアカウントの前に使っていたサイトはくるりライブをきっかけに作ったものだった。
28日の「(出演予定メンバーの)体調不良」(で28日&30日の公演を中止という発表時点)でほぼコロナだろう、感染は岸田氏ではないかと思っていた(しそうツイートしていた)んだけど、昨日案の定の追加発表があった。27日に症状が出始め、ライブ当日に受診→PCR陽性→28&30日の中止を発表の流れなので、特に当日の対応は的確だったと思う。
チケット払い戻しにしろ公演振り替えにしろ、運営アーティスト側には莫大な赤を生む。「なんか調子悪いけどまあいっか気にしない気にしない(自分の感染はもとより【自分が他人に感染を広げることを】)」が標準化してしまった社会の中で、きちんと検査受け、即座に苦渋の決断をし、本人の口で経緯を説明するという良識的対応をくるりが選択してくれて心底安心した。人の親となり教壇にも立っていた岸田氏、きちんと責任ある大人になっていたね。横には社長もいるし。
どうか急性症状が落ち着いた後にも無理はせず、長期障害無く音を奏でられるようにしっかり静養してほしいと思っている。
5日の新潟公演が目下一番気になるところである。発症後10日以内だから、ウイルス排出可能性が高い厚労省的にもマスク着用を推奨している期間で、狭いライブハウス、よりによってボーカルで2時間程度歌い続けることになるわけだし。
コロナを「無かったことにしたい」為政者の恣意的判断で「5日」に縮められてしまった療養期間だけど、お上の「お気持ち」にウイルスは忖度しない。私は特に5類化後の感染連鎖は急性症状緩和後の(既に自分はかかったから無敵!認識になっている)ノーガード達のウイルス排出による部分が多いのではないかと推測している。
療養「5日」にするならその後のマスク着用は徹底させなければいけなかったのに、とにかく「今ここ自分だけ」の為政者も巷のノーガード達も「他人のために自分が配慮する」ことを嫌うので、「経済」ではなく「感染」のみが激しく回り続ける不毛な状態が変わることはない。
ここ最近、東大値上げ問題にかかる「総長対話」と大学構内への武装警官投入、京大熊野寮ガサ入れと学生負傷(→搬送)等、高等教育や大学の自治と学生運動(?)を巡る状況が大きく動いている。
学費を値上げするのは東大だけではなく、私学文系で元々高額だと言われてきたICUも少なくとも今後3年間で10万円程上げることが発表されており、興味深いことに慶應塾長が主張していた「150万円」を超える。(この「国公立学費150万」は名門私学経営の立場から発せられた、そこにこそメリットが多い額であった。)
加えて、ICUはパレスチナやガザの平和を願う学生達の活動を警戒し、ロシアによるウクライナ侵攻の際には即出されたような学長による公開声明(私はこの声明にはやや違和感があった)を求められても拒絶し(学内ポータルのみでその旨回答したらしい)、その後、学内有志による要望書が提出されたにもかかわらず、期限(本日)までに回答することすらしなかったようである。この「徹底無視」の姿勢は、高校行政部及び法人執行部のものとまさしく同一である。
おそらく構成員の変遷や行政体制・方針で、大学はもう私が知っている環境とは乖離しているのだろう。そして高校と同じように、実態を伴わない、上辺だけ御大層な広報を行う組織に堕ちてしまっているのだろう。そんなことは決してあってほしくはなかったけれど、違うと判断できる根拠が、残念だが、どこにも無い。私は冷めた現実主義者なので、あくまで現実に適応して、なすべき事を行い、去る。
昨今の高等教育を巡る動きは、現時点では東大、慶應、ICUと別々の次元で起きているものとして捉えられていることが多いかと思われるが、私の斜め謎感覚は連関を捉えていて、それは「日本型新自由主義」の(ほぼ生まれながらの)既得権益者
「強者の強者による強者のため」の制度改革・再構成の加速である。
例のごとく苦痛でなかなか筆が進まないのだが、近々書いておかなければと思っている。
On a day in July
最近また悪夢が続いている。よりによって国語科の科会(実際に無い場面)が多い。やめてくれ。昨日は何故か英語でぶぶ漬け論法して皮肉を言っていた。余程腹に据えかねたのだろう(ちなみに私は授業内で必然性がある時に海外在住歴が長い生徒に対して使うことはあったものの「積極的に人前で英語を話すことはほぼ無い」)。息が止まって飛び起きることが多い。夏至を過ぎだいぶ経ったので、夜明けも遅くなってきた。4時頃ではまだ暗い。
おそらく5年ぶりに、上洛無しの七月を迎えた。報道もあまり目にしなかったが、宵山も巡行もものすごい混雑だったろう。疫病退散祈念の祇園祭で疫病が撒き散らされることが無ければいいのだが、、当然志村さんのお誕生日チャイムの富士吉田にも行けていない。
案の定、感染爆発しているコロナだが、官房長官が流行について言及した後、堰を切ったように大手メディアも感染爆発や医療逼迫について報じ始めた。非常にわかりやすい。日本で「アンダーコントロール」されているのは情報でありメディアである。
最近多いのは短期間での再感染と軽症/急性症状緩和後の急変重症化、特に肺炎。複数回感染の影響が確実に国内で顕在化し始めている。Studentsや現役労働者にも、そろそろ身近なレベルで重症化/長期障害の事例が出ていることだろう。それでもノーガードを貫くのだから、余程破滅願望があるのだろうね。末法思想というか「ええじゃないか」的というか。
「責任能力のある大人」が自身に限ってのこと、自滅を選択するであれば、それは「個人の判断」だろうけれども、他人を巻き込むのは「加害」だし、責任能力のない状態の方、法的に保護されるべき「子ども」を特に親や教師その他がそそのかしてノーガードの代償(特に長期障害)を負わせるのは許しがたい。まさしくマルトリートメントである。
都知事選後、二位の人間の言動や最近は兵庫県知事の横暴(と元県職員の方の自死)についての報道が続いている。いずれの理不尽ぶり、対話不成立の様、その背後にある権威主義構造も非常に馴染みのある「である」の世界そのもので吐き気がする。最近の悪夢の原因はまずここだろう。気分が悪過ぎてますます筆が進まない状態が続いているのだが、工事中だらけだが、Twitterから少しずつこのnoteへのリンクをつけ始めている。
Twitterのインプレッション数とnoteのアクセス数を見ていると、Twitterユーザーが自身のホーム画面から投稿を見ている場合が多いこと(謎タイミングと順番でイイネRTが入るのでそう推測される)、投稿内容から添付のリンク先へ飛び中身を確認するのは稀だということわかる。(私もタイムラインが時系列で機能していた時期にはホームを使っていたが、今は恣意的に選択された投稿を、時系列もバラバラに表示されるようになってしまったので、投稿を確認したい方のアカウントへ直接飛んで行き時系列順に読む形にしている)。
自動的に流れてきた投稿を条件反射的にRTいいねをすることはあっても、そこからさらに読み書きしたり、特に外部サイト、中でもここのように全く分かりやすさを売りにしていない(というか捨てている)長文がいくつも並んでいるようなカオスの中を読み解いていこうなんて方はまずいない。一方、それでも読もうとなさる方がいらしたなら、その場合は、その方にはなんらかの必然性があるからということだろう。今はそこにだけ届けばいいのだ。どうせ死が無ければ何も動かないし、死があったところで一時的に盛り上がり消費されるだけ。
それでも、マイナスよりはゼロで少なくとも私は救われることになるし、ゼロがイチにでもなり、今後の子ども達、感染させられたくない方、非正規雇用等都合よく搾取されポイ捨てされている方等、あらゆるマルトリートメント、理不尽暴力に苦しめられている方々の生活を変えるきっかけになればと思っている。
話を戻すと、やはり社会全体で(特に長文を)「読む/読める」層はかなり限られるのだと改めて実感している。そしてこれが、中身がなかったり不正確/むしろ誤りだったりするものでも、それっぽい雰囲気ややってる/やってくれそう感を、増幅し効果的に演出して伝える動画コンテンツと、そこに親和性の高いコスパタイパ分かりやすさフィーリングを重視する層(特に若者と低リテラシー層)が見事に「喚起され」支持する人物なりノーガードなりその結果の社会の状態だったりの元凶なのだろうと痛感している。
この点において、政治が公教育を破壊してきたことは、非常に不適切ではあるがその独裁確立維持のためには極めて有効であったし、だからこそ、現在は急速に、高等教育への触手を伸ばそうとしているのだろうと危惧している。早く書かなければとは思っているのだが、どうなることやら、、
そう言えば最近、元明石市長泉房穂氏の子ども時代についての記事を読んだ。わりと重度な機能不全家庭ご出身でいらしたようで、だからなのかと納得するところも多かった。
貧困地域の漁師の家で障害を持つ弟さんと共に育ったそうで、特に6歳の時に母親が弟と無理心中をはかった挙句「お前のせいで死ねなかった」「あんたが弟の分まで能力を取ったんだ。あんたがかけっこで一番にならなくていいから、弟を歩かせてよ。あんたはテストで100点を取らんでもええから、弟に漢字を書かせてよ」等と罵られた経験を読んでいて息が止まりそうになった。
このウルトラ斜めの八つ当たり、理不尽さ、できることさえもなじられる呪い、、やはり虐待をする人間や機能不全家庭のあるあるなんだな、と。本当、心拍数が上がる。
そして思った。母親や祖母が私にのみを抑圧し強制を課しいたぶり続けたのは、私が、「女のくせに」、能力をとってしまったから、そのせいで、「男の」弟が平凡な力しか得られなかったからと認識していた可能性があったのでは、と。
同様に上の能力が高く下が凡庸な従兄弟の上に対しては刃は向けられなかった。それは、彼(ら)に喘息という「女の私にはないにもかかわらず」抱えてしまった、保護すべき点があったことに加え、やはり性差も効いていたのではないかと推測している。とにかく、封建社会、閉鎖された中世的村社会の中では今でも家父長制的価値観が強い。
その影響もあるのか、思えば私は自分の「女性性」をあまり肯定的に受容していないところがある。ダレンとは違って、おそらく性自認的な揺らぎは無いんだけれども、ジェンダー的な側面からの嫌悪にも近い感覚があって、多分10歳頃から、ピアノの発表会や制服、結婚式やパーティーを除く場面でスカートを履いたことがほぼ無い。
中学の制服でスカートなのは仕方ないと思っていた。基本的に足は出したくないなと思うけれども、別に履こうと思えばスカートも普通に履けるしその際に大きな苦痛は無い(この辺が性同一性障害との違いだろう)。ただ、履きたいと思うことはないし避けている、のだ。
こういうこと、多いな。あんまり意識していないけど、きっかけがあると色々気付く。
京都へ行けなかった鬱憤を晴らそうと、限られた選択肢の中で揃えられるあんころを集めて回った。やはり餅(米)はすぐに水分を溜め込むし即腹につく。そして大量生産品よりお菓子屋さんのもののほうがおいしい。特に餡に品がある。そういえば最近まったくあんこを炊いていないと突然思い出した。鳥頭なので習慣が切れると見事に忘却されてしまう、、(こういう風にきっかけがあると戻ってきはするんだけど)。
忘れていたと言えば、地味に大きく響いていること。なんとパスポートを切らしていた。
パンデミック前はだいたい夏休みと春休みに2週間ほど海外へ出るのが習慣?だった。
2020年3月に出発直前にニュージーランドから鎖国をくらいキャンセルになって以降、非常に高リスクな飛行機も海外渡航も全く考えることがなくてすっかり忘れていたんだけど、上洛できなかったなんて何年ぶりだろうと考えていた時に、去年までの定番になっていた夏の上洛は海外へ行けない代替の要素も大きかったんだよなとふと思い出し、そういえば、少なくとももう4年は外へ出ていないしその前に更新したのもだいぶ昔だった気がすると嫌な予感を抱えつつパスポートを引っ張り出してみたら、見事に、今年の3月に、切れていた。
10代で取得して以降、一度も切らしたことが無かったものだった。特に大学入学以降、パスポートの無い生活なんて考えたことすらなかった。ずっと当たり前に更新して、当たり前に色んなところへ飛んでいく日々が続くと思っていた。
終わったんだと思った。
タイミング的にも2024年3月。見事に、このサイトの期限と一緒。
私はもうパスポートを取ることも海外へ行くことも無い。京都すら、消えた。
今は完全にロスタイム。書き残すことがあるから延びているだけで、現実が変わることはないのだから、「終わり」が変わることもない。
延びてしまっている間にも色々考えるべき関連事象が出てくるのは興味深いのだが、それをまとめようとするとやはり気分が悪くなる→一向に記録が進まないのが困りものである。
しかし、兵庫県や小林製薬等、独裁体制が引き起こした被害や隠蔽に冷めやすい大衆の意識が向いているうちに、動いておいたほうがいいのだろう、急がねばならないとは思っている。
そしてやはり、腐敗した組織も世間も、死人が出なければ隠蔽し放置するだけなんだよな、とも、改めて。
丑の日でも私は鰻を食べない。絶滅しそうな鰻をわざわざスーパーの弁当レベルでまで大量に置いて結果余らせる食い潰し系消費スタイルは受容できない。
食べたい人が専門店等でそれなりのお金を払って食べるとか、丑の日でもそれなりの金額と質のものを完全受注生産で用意するとか、それ位であれば、ある程度持続可能性は維持できるはずなのに、何の考慮もせず策も講じず他を犠牲にすることが当然視される国。
ノーマスクをはじめとするノーガードも、理不尽や暴力をエンドレスループさせる「である」の世界も、根っこは全て同じ。
「今ここ自分だけ」
最近はもうラジオを聞くことも減り、ただダレンの曲ばかり聴いている。
そして最近のお気に入りは豪雨散歩。日没&帰宅ラッシュ後の豪雨は最高で、住宅街だと人通りもほぼ無くなるので手ぶらで出かけ、おもいきり雨打たれつつ危険な人間のいない空間で歌ったり水たまりを踏んだりして楽しんでいる。
本当に熱帯のような激しい雨が当たり前になった。雷も非常に激しい。
(※激しく雷が鳴っている際の外出は、今後も生きる前提であれば絶対避けるべきであることは念押ししておく。私は前提が異なるので出ているだけである。)
これが通勤の中でのことであれば気分も下がろうが、今はただのロスタイムである。帰宅後にはすぐシャワーを浴びるし服は洗えばいいし何の問題も無い(靴だけちょっと、乾くのに時間がかかるけど、物が多い私は当然靴もたくさん持っているので問題ない)。
真っ暗な空間に時折閃光が走り雷鳴が轟く様は、もう何年も、身体の芯まで響くような音を体感することがなくなった今は、なんだかライブのようにも感じられて楽しい。
音的にはCDJなどの屋内大規模フェスでステージをハシゴしながら既に開演済みの会場へ向かっている時のような感じ。ステージ内で聴く音ではないんだよね。やっぱり距離も遠いし空間も広いから。
そして稲光は照明みたいだと感じる。
落雷で終われることがあったなら、ちょっと間抜けだけれども、確実に短時間で自分の手も汚さずに達成できる形なので、それもあって、積乱雲があった日は急に吹き始める風をサインに、わくわくしながらずぶ濡れになりに出かけているのかもしれないなと、ふと思った。
On the memorial day for the end of WW2 (in Japan)
終戦記念日って英語で何て言うんだろう?と思ったんだけど、stableな表現は無さそうかな。というのも、そもそもいつが「終戦」なのかが立ち位置によって変わるから、というのもあるだろう。
昔、家庭教師をしていた大学の英語の先生のお子さん(元々はお父様の日本語を担当していたんだけど、気付いたらお子さんにシフトしていた)と話をしていて非常に興味深い体験をした。
その子はお母様(+お婆様)の東京の家にずっと住んでブリティッシュスクールに通っていたから、学習言語は英語なんだけど日本語の母語感覚もあり、かつ日本での生活体験を長く積み重ねていた、けれども8月に入ったくらいの時期に「もうすぐ終戦記念日だよね」なんて、話をしたらポカンとしていた。一瞬こちらも「???」となったんだけど、「あれ?」と思って、「8月15日って何の日か知ってる?(もしかしたら「終戦記念日って知ってる?」の形だったかもしれない)」と聞いてみたら、「知らない」と。
その子はイギリスのカリキュラムで学んでいるから、そこで日本側の終戦記念日が扱われないのもまあ当然だよなと思って、「8月15日は日本でWW2が終わった日として記念になっているんだけど、イギリスにそういう日はあるの?」と聞いてみたら、「戦争が終わった日」としては全然私が認識していない日付けを教えてくれた(んだけどもう具体的なdateは忘れてしまった、、鳥頭でごめん)。
このお宅でのTutoringはいつもとても楽しく良い経験になったんだけど、中でもこの件は、些細なものでありながら強烈に残っている。
日本のおそらく30代以上の感覚だと「8月15日」と「終戦記念日」は疑う余地もなく固くセットで存在しているものだろうけど、そんな当たり前の常識というか「事実」だと思っていたものですら、社会的に構築された価値だったんだな、と。血とか国籍とかの面だけでなく、やはり後天的なインプット、特に周りの環境や教育が人の知識や価値観に与える影響は強大だな、と、痛感した。そしてだからこそ、複数の文化背景を持つ相手と接する時には、特に自分が知らない空白部分への想定と想像が大切だな、と。
話を戻すと、私が「終戦記念日」として概念を獲得した日は、いつの間にか「終戦の日」と「記念」を落とした呼び方をされるようになっていた。
子どもの頃には8月が近づくと当たり前に増え始めていた「戦争」や「平和」を扱う特集、映画等の放送は、今はもう風前の灯ではなかろうか。TVの無い生活をしているので実際の雰囲気を直接確認することはできないが、流れるニュースやSNSの話題からしても全体量が相当に減っているのではないかと予想される。
つくづく今は「羅生門」の世界に近いと感じる。芥川がベースにした今昔物語集で描かれていた平安京がすっかり荒廃していたような時代という意味でも、芥川自身が生きた戦争続きの時代(そして彼だけでなく多くの文豪が生まれ自死した、感染症が身近だった、日本が焦土と化したWW2の「戦前」)という意味でも。
私は血や国籍的には「日本人」だけれども、「日本人」だからといって「日本政府」が推し進めるものに無条件で従わなければならないわけではないし(特にそれが何の根拠も合理性も有さない場合にはなおさら)、「日本人」だからといって生魚や米を好んで食べなければいけないわけでもない。
めんどくさくて変わった人間だと思われることも多いだろうし、何より自分に自分が一番面倒くさいんだけど、それでもそれなりに面白がって仲良くしてくれた友達や大切にしてくださった先生方がいらしたから、こういう厄介な部分も含めて自分なんだとある程度の"Affirmation"を得られることができた。日本と海外の言語や文化や視点を行き来しながら、完全に「日本人」としても「外の人」としても落ち着くことはできなかったけど、「変な日本人」として、帰国生やインターへ通う子や所謂「外国人児童生徒」や留学生、非日本語母語話者の先生方と関われたのは、その「変」さを活かせる場としても恵まれていたのかなと、全てを終えた後に振り返ってみて感じる。
高校のことも大学のことも、書かなければと思いつつ、全然筆が進まない。
(大学については、当初「専門性」について書こうと置いていたスペースを流用することにした。やっぱり混沌としているところなのでキツい。)
相変わらず毎日のように魘され息ができなくなって飛び起きる。
日の出はもうだいぶ遅くなり、5時ごろまで暗くなった。
まだまだ猛暑が途切れることはないが、寒さを感じる時が来れば、また自動的にスイッチが入るのだろう。
焦っても仕方ないし焦る必要もない。「時」は自分で選べるのだから。
それまでになるべく物とお金を減らして、記録を残す。とにかくできることをできる範囲で続けるしかない。
雨と風が出てきた。そろそろ食べて、少し眠ろう。
(台風はあまり影響なく過ぎ去った。ただの不安定な風雨の日という感じだったけれども、人が少ないだろうと見込んで買い物へ行き、やはり道中の人影がまばらだったことから荷物を置いて風雨散歩に出た。そして人がいない&自然音がうるさいのでまたこっそり歩きながら歌ってみた。)
台風が気になり久しぶりにつけたラジオでかかっていた竹内まりやさんの曲。あんまり長く歌うのもあれなので少し省略したりしている。現実と違い過ぎることは歌いにくいというのもあるのでサビ最後を一部変えた(本来の曲の意図を真逆にしてしまって申し訳ないけど、、)。
こういうオーソドックスな曲は好きだし本来は音運び的にも歌いやすいはずなんだけど、やはりいきなりではダメだね(鳥頭のくせにすぐ記憶はできたんだけど物理は使わなければ衰える一方だから、、)。特に動きが大きいブリッジの部分が、、声量を上げられないから抑えて歌ったらかなりずさんな感じになってしまった、、本来は歌いやすい音域に向かうのにお腹使えないから上がり切れてなくて低いし、傘さして風に煽られながら歩いているので拍子も適当だし。まあ仕方ない。例によって残念の記録。
(低い音域に気を遣ったくせに歌いやすいところで雑になるのは「虎」のデジャヴだよな、、)
On a day in August
先月末のテレ朝モーニングショーへの平畑先生ご出演を皮切りに国内TVでもコロナや後遺症が扱われることが増えた。8月上旬の報道空白期間はオリンピックの国威発揚や盆休みのレジャー移動に水をささないようにという通達もしくは忖度のためだと推測しているが、盆休み後はなんとNHK&フジテレビ(2番組)と体制と一体/体制&非常に近いメディアまでもが平畑先生ゲスト出演の後遺症特集を報じ、追ってTBSでもご出演が続いた。大手でご出演が無いのは流石の読売グループ、日テレのみである。しかし、その読売グループですら、新聞では後遺症を扱う記事を出すようになった。
つまり、政財界&メディアの中枢ではそれだけ、コロナ感染や後遺症による経済損失の大きさが共有されるようになり、もはや隠しきれないところまで来ているので申し訳程度に「注意喚起はした」という形を作ろうとしているのではないかと思われる。とっくに、「そんなことはわかってたのに」ね。
Twitterでの平畑先生への揶揄には目に余るものがある。反ワクチン反マスク「ウイルスは存在しない」の頭がQな人間だけでなく、同業者、医師による無理解や見下しが相次ぐのは本当に意味がわからない。それらは特別に求められ注目される者へのやっかみ、妬み嫉み僻みでしかない。そしてコロナについても後遺症についてもまともに向き合わない立場の者から、というのがなおさら理不尽である。
法人関係の書き残しが、もうほぼ2ヶ月も遅滞するばかりだったのだが、差し当たりこの件について、元々専門性について扱おうかと作成していたページで書き始めることにした。そして気付いた。
平畑先生も、やっぱり引っかかるべくして引っかかっていた方だったんだ。私の謎感覚はやっぱり当人が認識できていない段階次元で、「理由がある」ものをしっかり捉え引き寄せている。
平畑先生はずっと、「見えにくい疾患や困難」に向き合ってきた方だった。そしてそのことによりご本人も周りに理解されず、理不尽に遭っていた。さらに、西洋医学の資格を持ちながらもその枠に囚われず、専門外のことー漢方、鍼灸、薬膳など東洋医学にも積極的に知見を求めに行き、精神医学にも向き合おうとなさる、「リベラルアーツ」的な方だった。
謎感覚すごいね。謎だらけなのが残念。先に教えてくれればいいのに。
コンゴで激増しているMpoxのクレード1b(重症化致死率感染力が上がり失明リスクも高い)は既にスウェーデン(13日)、タイ(14日)に入国済みだ。
日本と往来の多いヨーロッパ、アジアに輸出されているので、国内に入ってこない保証は無い。奇しくも確定2例の発生時期は盆休みで、国内から両エリアへの旅行移動が多かった、上に「観光立国!」の円安インバウンド祭りなので海外からの入国も多い。Mpoxの潜伏期間は長いと21日程度なので、今後、過去の移動による感染持ち込み例が各国で相次ぐだろう。急いで検疫体制を強化する国も多い中、日本は安定のノーガードなので、思う存分、気付かれることもなく侵入可能だ。おまけに医療体制も脆弱&大衆の公衆衛生も崩壊している現状なので、発症していても放置する感染者、受診時の見逃しが相次ぐだろうね、麻疹みたいに。そして発疹が出ていても「どうせ手足口病!休む必要無し!」で元気に出勤出席する人間の群れ。
コロナとは違って、Mpoxクレード1bは「直ちに影響がある」ものなんだけどね。コロナ感染は免疫を壊すので、免疫不全状態でMpoxに感染することによるリスクも大きい。それでもこの国はノーガードで踊り続けるんだろう。
ひどいぶつぶつ、治らない傷が残るMpoxは、「映え」文化にどっぷりで見た目や見られ方を気にする若い子に与える影響が極めて大きいはず。ただでさえ若年層の自殺やメンタルヘルスの問題が増えているのに、追い討ちかける形になる。
それなのに、教育機関の教職員こそが無関心無配慮&積極的ノーガードを貫くんだろう。
そういえば最近米不足?らしいね。私は普段米を食べないので全く影響が無いんだけど、先週位までは騒がれてはいたもののデパートや高価格帯スーパーでは在庫があって、消えているのは割引ありきの安い米だけなのでは?と思っていたのが今週は高価格帯のものも空になっていた。
考えてみたら私は知らずのうちにパンデミック耐性の強い適応をしていたな。人間嫌いだから人と会わないことに全く不便も苦痛も感じないし、元々抑圧が強い中にいたから欲求が死んでいて自分の思い通りにならないことがデフォルト、条件的に可能であればライブも旅行も外食も思う存分満喫するけど、脅かされる中でまでそれらを行おうとは思わないから、本来なら好きでしたいことをできないことがストレスになることも無い、今の気晴らしは食だけだけど、時々嗜好品なり京都なりを補給できれば、普段は備蓄の限られた材料で似たようなものを回していてもある程度平気(スパイスや調味料で調整できるからってのあると思うけど)。
まあ、まとめるとNegative capabilityがあり過ぎる?んだろう。虐待、抑圧、諦め、ままならないことが常だったから。それが良いことなのか、悪いことなのかはこれまた謎なんだけど。
ライブといえば、最近ダリルホールがライブ中、3曲歌い終わったところで異変が起き、その後の演目をキャンセルしてステージから下りた、その後コロナ陽性の発表があったというのをTwitterで見て「事前に検査していなかったのかな、対策の体制はどうだったんだろう」位の気でいたんだけど、その後、当時の動画が流れてきて、その光景に何故かものすごくショックを受けてしまった(海外はライブ中に客がガンガン歌い動画撮るからその一つ流れてきた)。
ピアノに向かって腰掛けていて、次の曲へ入ろうとするんだけど「ダメだ」となり首を横に振る、少し時間を置いてまた試そうとするんだけどやはり無理、諦め、涙ながらにそのままステージ袖へ引いていった。
明らかに内的な非常事態だった。咳は出ておらず、その前のパフォーマンスの状態不明ではあるものの3曲は歌えていた、けれども、次は無かったのだ。どうしても、始められなかった。
あの感じからすると脳や神経の異常だろう。おそらく曲を思い出せないとか指が動かないとかで、真っ白になりスタンした感じではないか。
ミュージシャンにとって奏でるのは呼吸のような当たり前のこと。そしてそれが「生」と直結している。これまで何度も何度も繰り返してきた、何も考えなくても息をしているような、何の疑いようもなくあるはずのことが、突然崩れ去ったんだ。ダリルホールの無念、あの様子は、全く無関係な私をも圧倒した。
たまたま私は洋楽好きで彼のことは知っていたけど、"Private eyes"とかの80sサウンドのイメージの人という感じで特別な思い入れは無い。それでもどうにも気が塞いで、口直し?に、彼も参加しているUSA for Africaの"We are the world"動画を何度も流し、しばらく聴いていた。
良い曲だよね。そしてものすごいメンバー。レコーディングの様子とかもすごく良い。あんなに有名なアーティストばかりが集まって、アフリカの子どもやAIDS対策のために、各人のキャラ個性をそのままに歌っている。
それぞれがオンリーワンの存在なんだけど、互いへの尊敬や尊重もあって、何より良い曲、良い音、良い仲間に満たされてとても楽しそうだし、平和ってこういうポジティブな気持ちや行動で作っていくんだろうなと、ぼんやり思いながら、何故かだらだら泣いていた。
あんなに幸せな場が確かにあったのに、マイケルをはじめもう死んでしまった人もいるし、ダリルホールのように突然歌えなくなってしまった人もいる。彼は一時的なもので復活するかもしれないけれども、例えばジョンボンジョビが思うように歌えなくなったり、ポールサイモンが難聴になったりと、コロナ感染(特に複数回感染)はミュージシャンから音楽を奪っていく。その喪失が如何程か。私はミュージシャンなんかじゃないけど、ダリルホールのあの姿を見て、ひたすら恐怖だった。
"We are the world"でしばらく泣いた後、ふと、私が洋楽を聴いていた時期にヒットしていたチャリティーソング、All star tributeの"What's going on"(U2のボノが企画しやはり当時の売れっ子が一堂に会し歌ったMarvin Gayeのカバー)も聞いて、みて驚愕した。
なんとダレンもこの曲に参加していた(のに当時の私はそれを認識していなかった)!!
アギレラ様やブリちゃんの曲もギターで歌ったな、Back Street Boysは(
歌わなかったけど)ファンクラブ入っていたよな、なんて色々思い出しながら聴いていたら、
ん?
ダレンの声がする??気のせい空耳??
いや、これは絶対ダレンの声と節回しでしょ???となり、
クレジットを確認したら、やはり確かにそこにダレンの名前はあった。
そうだよね、あれはダレン以外にありえない、と安堵?し、あの場にダレンも参加してたんだ!(嬉しい)と、なったもの、の、拭い去れない違和感。。
何故、知らなかったんだ私?
確かに当時は諸々の状況が悪すぎて記憶も飛んだりしているような時期ではあるけど、節穴過ぎる。確かにPVの大半はアーティストが目隠し状態で、こうして今ダレンの存在を確認した今でも、映像の中では「これはダレン、だよね、、?」状態なんだけど、、(この曲のPVは人間を盲目にしている様々なBarriersや縛り拘束するもの、勝手に貼られるラベル等が記載されたリボン?をアーティスト達が歌いながら解いていく構成になっていてとてもよいです。)
クレジットはSavage Gardenではなくダレンの個人参加の形だった。解散と近い("Hold me"のPVもダニエルの姿はなくダレンのみだった)時期だし、アルバム"Affirmation"発売やその中での最大ヒット"I knew I loved you"がシングルカットされてからも少し時間が経っているし、曲紹介やニュースで取り上げられていたのは他の参加アーティストが主だった(参加者としてダレンの名前を聞くことは無かった)のだろう。
それにしても、曲は何度も聴いて見ていたのになあ、と、未だに釈然としない気分でいる。しかしまあ、当時は謎感覚が"Affirmation"購入を阻害していた時期でもあるので、謎規制がダレンの存在気付くことを回避させていたのかもしれない。あとは当時私の中の「ダレン=黒髪」イメージから外れる金髪期だ("Hold me"のPVも見ておらず、金髪のダレンを知らなかった)から、顔のアップで目が隠れている(輪郭と髪の毛位しか見えない)中では識別できなかったのだろうなとは思う。それからダレンが歌う(2回目の"Don't punish me with brutality.")直前が'N SYNCのジャスティンで、歌い方の傾向としては似ているところがあるからってのもあるかもしれない。
やっぱり謎感覚は謎。でも何故かまた謎きっかけ&タイミングでダレンに気付けたのは良かった。昔はスルーしてしまったけど今は立ち止まれる位、ダレンへの愛着は形成され、かつ声や歌い方への感度も高まったってことだよね。
In the end of August
台風はもう低気圧状態だけど定期的に激しく雨が降る、ので、恒例の豪雨散歩に出かけた、ところ、途中で小降りになったから歌った(例の如く人気を気にしつつ歩きながらこっそり)。
相変わらずピッチも不安定だけど仕方ない。All star tributeは何人もの売れっ子が入れ替わり立ち替わり歌い継いでいくスタイルなんだけど、思い出しながら歌っていたら途中で接続に失敗した。一人はきつい。
アギレラ様のところは声量を上げられないしだいぶ中途半端な感じ。でも本気で歌ったとしても私は彼女のようにはとても歌えない。あんな風に高らかに歌い上げられたら気持ちいいんだろうな。
そしてなんとよりによって2番でダレンが歌う部分の歌詞を間違えて歌っていた("Don't punish me with brutality."の"with"を"through"にしてた、、何故?)。。
ま、急に歌うと諸々こんなもんだ。
ちなみに"What's going on"のパート振りは今になって見るとなかなか面白くて、1番の"Oh my father, father"の部分はMarvin Gayeの娘さんが歌っているし、その後はBack Steet Boys、アギレラ様、ブリちゃんにDestiny's Child(ビヨンセのいたグループ)と、当時のティーンに絶大な人気を誇っていたスターをこれでもかとぶつけている。
ラップやNelly Furtadoの味のある繋ぎで2番に入った後しばらくするとN' Sync(Back Street Boysが売れた後にデビューしたboys group)が登場するんだけど、そうかN' Syncは1番のあの並びには入れなかったのか、でもそのわりにはソロでの取り上げ大きくない?(Back Street BoysはBrianがソロでも歌っているんだけど基本的にコーラスをグループでする形で、映し方も「グループで」だった。一方'N SyncはJCとジャスティンがそれぞれソロで歌っていて映像も各人を別々に撮っているしその後のコーラスでもジャスティンは目立つ形で使われていた)、思えばソロで成功したのはジャスティンなんだよな、、なんて、思ったりした。
ダレンはその扱いが大きいジャスティンに挟まれて"Don't punish me with brutality."を歌った後は、コーラスで非常に重宝されている(ティーンの頃曲を聴き映像を見ながらダレンの存在に全く気付いていなかった私が20年越しで曲を思い出し聴き直した時に気付いたのはこのコーラスで伸びやかに歌う声がどう考えてもダレンだったから)。
タイトルである"What's going on"を振られているところ(2番の中だけでなく曲の最後もダレンなはず)からしても、Bonoはダレンを評価してくれていたんだなと今更気付いて嬉しかった。
"What's going on"も"We are the world"と同様、AIDSで苦しむ人々、アフリカへのチャリティーなんだけど、AIDSってダレンにとってもとても大きな問題だったんだよ。
当時はまだカミングアウト前だしBonoが知っていたのかはわからないけど、活動休止後の復帰アルバム"Homosexual"リリース時のインタビューで、ダレンは「自分は男の子が好きなんだ」って気付いたのがちょうど80年代のAIDS急増の時期で、まだまだ幼かった彼は感染のメカニズムも把握できないまま「ゲイ」と「AIDS」と「死」がリンクして「自分はAIDSで死ぬんだ」と思い込んで怯えていたといった内容を涙ながらに語っていた。
この曲に参加できて、そしてタイトルフレーズでまで取り上げてもらえて、ダレンはすごく嬉しかったんじゃないかな。そして、こういう背景を知ってか知らずか、ダレンを選んだBonoも流石だなって、改めて思った。
やっぱりずっとマジョリティー、強者の側だけで生きてきた人間はマイノリティーや弱者の心も状況も、「他人事」で当事者性をもって寄り添い手を差し伸べていくなんてことはできない(たとえ本人はしている「つもり」で広報や演出をしていたとしても)。
一方、ダレンもCoccoも、ロブもアギレラ様も、Bono(アイルランド出身ー今は随分経済成長したけど、貧困と被差別の歴史がある)も、眼差しが圧倒的に深く優しいし、弱者の側に自然と寄り添って行ってしまうんだよ。気持ちだけでなく行動も、自然にね。
面白いね、本当に。また一つ、「総括」の中で再会と気付きが得られた。
平畑先生の件から少しずつ書き始めたページもなかなか進まない。ので景気づけ?に先生がお勧めしていた薬膳スープを作った。これは優秀。具材を変えれば延々と回せる感じ。
https://m.youtube.com/watch?v=iF0nVTTEl-k
この配信もとても良い。26:33くらいから薬膳について。その後しばらくしてから例の件についてもコメントなさっている。
だいたいは普段使っているものでできるんだけど、キクラゲだけ無かったから買った。暑い時期は成功率が下がるし記録にまだ時間がかかるから大容量。
クコの実は1日20粒までって知らなかった。ケーキ作りでフルーツ感覚でじゃぶじゃぶ入れていて食べ過ぎていたな、、
野菜は葉物の在庫が全く無かったので人参、ニンニク、生姜の他は豆にした。
塩気は米を食べないのでなかなか減らない梅干しを入れてつけた。
初回から随分攻めた具材だったな(はじめはもっと菜っぱとかでオーソドックスなスープにすれあよかったかな)とは思いつつ、思い立ったが吉日だし色々巡り合わせなので、これはこれでまあいっか、と。二食目はスパイスで味変してカレーにした。先生は効用がぶれるからスパイスはターメリック、ウコン、コリアンダーだけがいいとおっしゃっていたけど、カレースパイスを入れてしまった(梅干しやキクラゲと合うのかな?と思ったけど、案外良かった)。
私はハーブやスパイス使いだけど、薬膳(漢方)の素養が全く無い。だから組み合わせ(相性が悪いもの)などの知識がなく、今回気になったのは緑豆(身体を冷やすー中医学はとにかく冷えを嫌うイメージがある。身体を温める生姜も入ってはいるけど)と梅干し(クエン酸は身体に良いと言われるけど薬膳で使うイメージが無い)とニンニク(薬膳であまり使っているイメージが無い、薬膳料理ってスパイス料理と違って丸く柔らかな味が多い気がする)。豆を具材にしたのは味変でカレーにする気満々だったからだし(私はダールが好き)、やっぱり私の発想はハーブスパイス料理ベースなんだな(味にパンチが効いている)と思ったりもした。
野菜と鶏肉以外は日持ちするもので作れるし、私は効用を求めているわけではないから(まあ不眠は治った方が楽だろうけど)鶏肉をツナで代用、しいたけは無し(今回はたまたまあったけどいつも使っているわけではない)でもいいかな、そうしたら買い物に出なくても回せるし、、などとも考えている。
そして(接続がおかしい)、「大学・高等教育とは?」のページで書くべき内容がもう一つ加わった。羽藤由美先生による筑波大学へのコンプライアンス通報の棄却についてである。これは外部から構成員への通報を跳ね除けた形だが、おそらく法人特に執行部内の動き方や判断基準は国際基督教大学法人の対応にかなり近いのではないかと見ている。
羽藤先生は「理と知は死んだ」と書かれていたが、私も全く同じことを思ってきた。そして「終わり」が決まった。気温が下がり適期になるまでに、諸々書き遺しておかなければならない。間に合うだろうか。
横浜で女子高生が飛び降り→通行人を巻き込み両人とも死亡とのこと。
私は飛び降りも飛び込みもしない。突発的衝動的なものではないから。加害者でない人をなるべく巻き込まないように、そして確実に終えられるように、方法を考え準備し時期を待っている。
ベストなんてないからせめてベターをね。
On a day in September
一人暮らし歴は長いしそれ以前のPC歴ネット歴も長いんだけど、私は一人暮らしの自宅にネットを引いたことが一度も無い。大学があった時は調べ物やネットは図書館のPCでしていたし卒業後はネットが無いなら無いなりの生活をすればいいかと適応してしまい、音楽関係も常に隈なく情報を追い続けているわけではなかった/ない。
ガラケーが使えるうちはガラケーで見られる範囲で、ガラケーのサービス終了で渋々スマホにしてからは契約プランの容量内でが基本なので、何かきっかけがあった時にそれ+周辺位しか見られないんだけど、月末にギガが余っていると気になっていたものを探したり観たりしている。
ここ一年はだいたいダレンのライブ動画なんだけど、活動休止から復帰後のダレンは本当に自分がしたいことをしたいようにしているんだな、ダレンがしたかったのはこういうことだったんだなとしみじみ思っている。
やっぱりダレンのルーツやコアはマイケルジャクソンやマドンナ等、ポップスターのショーなんだよな。Savage Gardenをダニエルの方からもう続けられないと言われ解散したのも、ダレン/ダニエルそれぞれの嗜好を思えば納得。ダニエルは「ショー」ではなく「(ロックの)ライブや演奏」がしたい裏方職人気質のミュージシャンだったから、所謂「方向性の違い」が絶対的にあった(ダニエルって本当に不思議な人で、ライブ映像を見ても彼が何を弾いているのか、姿から音が見えてこないんだよ。目立つところこそ弾いていない。そして周りを引き立てる力を持っている)。
ダレンのソロキャリアも色んな変遷があるけど、やっぱりプロデュースする側からしたらダレンの声、歌をギターサウンドとか叙情的バラードに乗せたくなるんだろうね(その気持ちは私もよく理解できる、というか同感)。ダレンは勿論それにも充分応えるんだけど(アダルトチルドレンだし相手の要求するものを必要以上に読んで必要以上に応える)、本当にしたかったことはずっと別だった。
活動休止で一度全てリセットしてセルフプロデュースでリリースした"Homosexual"は、もうそれは見事なポップ一色。PVも薔薇とかピンクの衣装とかダンス、ライブもひたすらキラキラ。男性とか女性とかの枠、年齢や時代をも超越した次元で「ダレンの」prettyやcuteを思う存分楽しんでいるように見える(ダレンの原風景は80sにあるんだなとサウンドや映像からよく思う。それは私がミレニアム周辺のサウンドに愛着を持っているのと似ているかもしれない)。
そう言えば前にダレンには多分絶対音感は無いのではって書いたんだけど、やっぱり無いっぽいよなって最近再感したのは、"Sydney Gay and Lesbian Mardi Gras 2022"で"Affirmation"を歌っているのを観て。
この時は何故かキーを半音下げてGで歌っているんだけど(普段はA♭)、おそらく身体に馴染んでいる声の出し方とその日のキーの間に不調和が生じていて謎音程になっていることが複数回起きている。イヤモニを気にしている感じもあるから、もしかしたらこの時はうまく演奏が聞こえていなかったのかもしれない(リズムは入るけど音はだいたいの感じしか聞き取れないで歌っているのかなと思った)。こういう時、絶対音感がある場合は「今日はGで歌う」って思うし、何より音程は絶対的なものだから認知面からの影響でいつものA♭のほうに高くぶれるということは起こらない(私みたいに物理技術面で外すことはありえるけど、この時のダレンのずれ方は物理由来ではなく認知由来)。
(推定)アクシデントによる謎音程はさておき、"Homosexual"以降のダレンは「ライブ」、というか「ショー」を思う存分満喫している。本当に生き生きとして伸びやかに歌っている。
正直私にはサウンドの部分は好みと違うし、「ショー」よりも「ライブ」が好きだしっていうのはあるんだけど、今の自由で楽しそうなダレンを見られるのはとても嬉しい(そしてダレンかわいい)。
長い時間をかけてダレンはちゃんとダレンになれたんだ。良かったね、ダレン。私は今のダレンも好きだよ
なんてことを暢気に書こうとしていたら、突如東大の学費値上げが発表された。
総長対話の日の警察動員ゴタゴタや学生教員外部による反対の声などによって保留になっていたはずなのに、夏休み中にしれっと学内サイトで学生達に通知があったらしい。これまでの経緯は全て無視して、対話も譲歩もなく、はじめから存在していた執行部の絶対的決定を一方的に押し付け強制強行の形である。実に国際基督教大学高等学校行政部及び国際基督教大学法人のやり口に近い。国政も話題の兵庫県知事もだが、権威主義構造下の独裁体制そのものである。
大学のページ更新を早く進めなければと思ってはいるものの、ますます混沌としてきてだいぶあやしい。素材ばかりが増えていく。
On the moon day in September
私は闇の住人なので月が好きだ。中秋の名月。去年はどんな気持ちで見つめていたのだろう。もう思い出せない。
春に出ていた事象の結果が面白いほどに重なる。
「優れた教師人材の確保に向けた奨学金返還支援の在り方についての議論のまとめ」(https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/002/houkoku/1360150_00002.htm)で、教職に就いた(正規採用された)「人材」の「修士分」のJASSO奨学金返済免除と共にしれっと書かれていて引っかかった「企業等の退職者をはじめ広く臨時講師のなり手を募集」について(Tweetもしている)、案の定、オリパラ経験者を「特別免許」で教員にしようという文科省方針が数日前に報じられた。
東大の学費値上げについては、「総長対話(という名の一方通告発表会)」の日のキャンパス敷地内への警察動員関係のゴタゴタや学生教員外部からの反対もあって「見送り」になり一安心だったはずのところへ突如(1週間ほど前に)、夏休み中の学生達へ執行部から次年度以降の値上げ詳細が通告され、明日「安田講堂前 学費値上げ阻止集会」が行われる。独裁体制の中数々のパワハラ恐喝の横暴を極め職員2名を自死に追いやった兵庫県知事へは明後日、不信任決議が行われる予定である。
全て新自由主義の既得権益、権威の上に胡座をかく独裁者が「強者の強者による強者のための」仕組みと組織構成を固め、不合理を暴力で強行できてしまう理不尽が日常化した結果起きてきた/いることであり、教育界の汚染をさらに加速度的に押し広げようと画策し動いているのが政財界中教審と結託した各法人組織(大学の場合は教員ではなく理事執行部事務方行政側)である(※国際基督教大学高等学校の場合は行政部に加え専任教員も理不尽暴力不合理を強行できる強者独裁者である)。
国際基督教大学高等学校及び国際基督教大学法人についての記述も急がねばならない。適期も近い。きちんと遺していかなければならない。
平畑先生のツイートからYale大学、岩崎先生の発表を聞いていたら、Long Covid罹患者はコルチゾールが低いとおっしゃっていたので「コルチゾールとは?」と調べてみて「これは、、」となった。
コルチゾールは副腎皮質ホルモンの一種で、ストレスによって分泌が亢進されるらしい。ヒトはコルチゾールレベルで概日レベル(体内時計)が一定になっているようなんだけれども、私はこれが10代から一貫して狂っている。さらに、過剰なストレスでコルチゾールが多量に分泌されると海馬を萎縮させる、、ということがPTSD患者の脳MRI観察からわかっているらしい。。
海馬は以前から私の記憶や空間認識の特性から謎感覚がとらえていたところだし、PTSDと脳損傷の話も聞いてはいたんだけど、いまいち繋がっていなかったのがひょんなところからリンクしてしまった。
そして「起きる」時には色々重なるようで。
国際基督教大学高等学校の情報科が専任を再募集し始めた。25年度4月着任予定の専任は5月頃から募集をかけて既に決定していたはず。なのにまた公募をかけているということは十中八九「逃げられた」形である。
元々教職に就こうと考えて動いていた方であれば、内定を得た後、この時期により良い案件が出てきたからそちらを受けるために等ということは通常まず起こらない。次年度着任の専任をこの時期から探し始める学校は「お察し」状態の環境であろうし、同校は【対外的には】良好なイメージを保っているであろうから、わざわざ不穏な選択をするメリットが無い。だいいち、その場合は「本命の選考が終了してから」蹴るだろう。可能性としては、同時進行で選考が進んでいた本命で内定を得たために逃げられたか、コロナ複数回感染後遺症などで就業自体が困難になったか、それ以外(例えば同校の本質が垣間見える何かがあった)かだろう。私は後ろ側へいくほど可能性が高いと見ている。
兵庫県知事の横暴が明るみに出てから兵庫県職員採用試験辞退が相次いだ。
あれだけ大人気の宝塚ですら、志願者倍率が下がった。
国際基督教大学および国際基督教大学高等学校はどうなることでしょうね。「最終的には受験生や在校生が評価していくもの」である。
"I believe in karma, what you give is what you get returned."
On a day in the end of September
ここのところ急激に涼しくなった。日の出も遅くなり、5時半過ぎでも暗いくらいだ。プランターの草を見に外へ出た時に「寒い」と感じた(部屋の中の薄着のまま出たのでね)し、"You can still be free"が脳内に降ってきた。
記録は相変わらず遅滞していて、論文を全然書けなかったの全く同じだなと苦笑している。私は高等教育は好きで、適性があればその中に身を置きたかったけれども、やっぱりどうしても無理だったよな、と。謎感覚が本人の意識を越えて当人の苦痛に根底で繋がるテーマを選択してしまう一方で、そこに関わることによる危機状態や反応を回避させているのだから、引き裂かれる。
と、そんな謎感覚・謎認知にも関連する発見をまた得てしまった。
3年前にイギリスで行われ話題になっていた、コロナウイルスを協力者の鼻に直接植え付け感染させるという治験?(実質人体実験)の追跡調査で、感染一年後にも認知的な機能不全が発現していたという内容なのだが(この結果もまた話題を呼んでいる)、その中で心理や認知系測定評価の専門性を持つ先生がなさっていた論文内で行われていた調査やその解釈への検証。
やっぱり専門家は違うと思った。知識や経験は貴重。見る姿勢も。通しで読んだ方がよいので一連のツイートをそのまま貼っておく。
私に効いてきたのは8、12、21、22、23。
まだコルチゾール関係のことも調べられていないんだけれども、おそらく私は虐待起因の高コルチゾール状態でPTSD患者に見られる後天的脳損傷と同じようなものが起きている可能性が高い。
加えて、コロナ感染が引き起こす後天的脳損傷でも短期記憶かかる空間認識に大きな機能不全が生じている。そしてそれはいわゆるIQの低下ともまた分けてとらえるべきものである。
暴力やPTSD、コルチゾール由来の脳損傷懸念が強い私はコロナによる脳損傷が進行しているわけではないので症状が違う。19&21のような症状は概ね出ていないし、おそらくさほどIQの低下も起きていない。ただ、22にあるように、特定の活動に必要となる空間認識でおかしいところがあって、それが私の場合は3Dの空間認識ということになるのだと思う。
スーファミまでの二次元の画面なら長時間ゲームをし続けられても特にPS2程度レベルでも3D要素が入ってくるとプレイ画面で気持ち悪くなる、水平垂直方向での認知動きが主なピアノでは(+完全に非日常の箏ですら)問題が無かったのに身体もフレットも指も角度がつくギターになると色々わけがわからなくなり半年位適性が低いなりに練習してみたものの(角度が関わる部分が増える)コード弾きはほぼできず、要素を絞った短音弾きならそれなりに楽しめた(けれどピアノもと比べると開いた口が塞がらないほど上達が遅い)等の、「終わり」に向けての整理と振り返りの中で気付いた違和感の連続にもおそらく理由がつけられそうだというのが、それが迫りくる中でまたわかってきたというのもさらに興味深い。
加えて21の中にある計算に関わる部分も若干気になっている。私は計算が苦手なんだよ。ただ、↑で挙げられている「6か9か」「+か×か」といった点では「私は混乱しない」。なぜならそこは2Dの認知で私に異変があるのは3Dの部分だから。
そして23にあるように、「私のものとは形が違うものの」後遺症の方々に表れている空間認識に関わる問題は、私の謎感覚があやしんでいた「海馬」のDG-mediated mossy fibers in the CA3 region(これが何なのかはこれから調べなければわからない)等の変化に起因していそう、とのことなのだ。
やっぱり海馬なんだよ。海馬は耳にある。私の謎感覚は海馬と聴覚聴力の相乗効果で起きているのではないか。いったい私の海馬はどうなっているんだろう?
そして「近いから気付く、けど違いにも気付く、でもオーバーラップするところがある現象」は虐待やアダルトチルドレン内の形態差とか、心理精神神経症状でも発達障害など先天的なものとの違いとか、広範な暴力の被害者やマイノリティーの困難苦痛とか、そういうところへの関わり方にも似ているしおそらく「斜めの発想や捉え方」にも連関しているんだよな。
さて、重なる時には重なるようで、なんと今度は国語科が非常勤の募集を始めた。
国際基督教大学高等学校は5月から、次年度新設となる情報科と、おそらく「今年度に入ってから」の退職が決まった専任の補充のための国語科で専任教諭の公募をかけていた。
それが、上にもあるように先週、情報科の再公募が始まった。のに加えて、今度は「国語科」の非常勤、しかも9月末に11月1日着任予定(募集締め切りは10月21日)の非常勤を募集し始める始末である。実に「お察し」状態である。
詳細はまた国語科のページに追記予定だが、国際基督教大学高等学校国語科は今年度
・おそらく今年度の科主任による年度末退職意向からの補充専任公募
・おそらく10月末退職意向を9月末に伝えた非常勤講師の補充公募
を行なっている。
つまり、今年度内に、突然科から出ていかざるを得ないことになった教員が少なくとも2名いるということである。
時期やタイミング的に例えば産休など幸せな方向性のものではないことは明らかである。(専任であれば産休育休を取得可能なので、それが理由であれば代用教員で繋いでの復帰が前提となるため公募は派生しない。国語科に関しては人員構成的に定年にも該当しないので、別に理由があった人物が退職の意志をもって出て行く以外に専任の公募は起こらない。)
今回の非常勤公募は採用までの時間の迫り方からして、まさしく緊急事態である可能性が高い。産休の場合には、当人がそのことを事前に周囲に公表するかはともかく、少なくとも職場との良好な関係が保てている場合に「入れ替え1ヶ月前に」辞意通知なんてことにはならない。
【非常勤の先生方に関しては】、ノーガード環境の中で複数回感染を重ねた結果の体調不良でないようにと思っている。もうお会いすることも連絡をとることもないけれども。
やはり記録を残しておくことには価値がある。私がいなくなっても、事実が語るから。
是非本サイトに遺っているものを、国際基督教大学高等学校及び国際基督教大学法人内で、現行起き今後起きていく、理不尽暴力ありとあらゆるマルトリートメントの検証材料にしてほしい。
特に感染症、非正規雇用者に対する「人権にも多様性にも対話にもあまりにも遠い」組織のまなざしが現れているから。
そして変えて戻していってほしい。広報通りに、人権や多様性を尊重し対話を実践する、理と知と優しい人々のまなざしによって虐げられた者であっても守られ(ある程度)修復していけるサンクチュアリーを。
消えてしまったし、私にはできなかった。
もう機会が無いのでまたこっそり歩きながら歌って来た。相変わらずの不安定ピッチ(開き直り)。
Green Dayはあんまり聴かなかったんだけど、ボーカルの人がなんとなくダレンに似てる?と思ったりすることもあった。わざわざ黒髪に染めてお化粧する時もあったりとか。ごりごりマジョリティーと違ったところにアイデンティティーを見出しているんだよね。そういえば、一時練習していた"Minority"のギターは結局歌を乗せられなかったな。
On a day in November
気付けばとっくに立冬を過ぎてしまった。案の定気温の低下と共にスイッチが入り、明け方頃にやっと入眠しかけても1時間程度で魘されて飛び起きる(明確な悪夢が残っている)ことが続いている。その反動なのか過食期にも入ったようで、食べたもの記録にも出ていると思うけど特に10月頃から色々おかしい(載せているものの他に量産品チョコ等も大量に食べている)。最近は身体が重く腰痛が出てきた。やはり肉がつくと不調だな。
ハロウィンを過ぎれば街はクリスマスへ鞍替えモードで、既にツリーや電飾が出ていたりBGMもクリスマスソングだったりですこぶる削られている。明確に年末も意識されてきたので、早く記録をと思ってはいるのだが、絶対に論文が書けなかった頃のように、全く筆が進まない。先月末に公民の公募が出た時にそれについてだけはザッと更新したんだけど、なんというか、適当な科目のレポートは(あまり興味のない分野のものでも割り切って)問題なく書けるのに自分の論文になると石のように固まってしまった現象の再現で、やっぱり人は変わらないなと苦笑している。それでも当時は全く見えていなかったことがこの整理の時間でだいぶ掴めたのは旅立ちの準備として良かったのかなと思っている。
Twitterを乗っ取った暴君の横暴でブロック機能が無効化されたので鍵をかけた。noteの新規更新をしなくなってから半年程、タイムスタンプ付きの記録を兼ねて運用してきたのだが、川上先生や牧田先生、たまに平畑先生やYale大学の岩崎先生等ともお話ができ、楽しかったし嬉しかった。鍵をかけてしまうとこのような機会は失われてしまうのだけれども、理性のない暴力的な魑魅魍魎と接さざるを得ないことによるリスクが致命的過ぎるので、残念だが仕方ない。
鍵をかけたのでTwitter振り返り。
終わりによる解決が決まっていたので、愛着を生まないよう、私はいいねをほぼ使わずに整理の時間の記録媒体を運用してきた。noteではブックマーク代わりにその方を認識できる記事一つのみ、"_23"後のロスタイムに記録をつけ始めたtwitterではまったくの0。応援している先生方からいいねを頂けたりコメントを頂けたりすると心の中では飛び上がって喜んでいるし、心の中では先生方の投稿や特にレスに特大いいねをつけまくっているんだけど、いなくなるのがわかっている人間をそうするのがわかっていて記憶に残すような酷なことは、せめてしないようにと思ってきた。やっぱり自分の投稿にいいね下さる方って印象に残るもん。顔も声も知らなくても、そうやって関係が感じられる相手がって考えたら、キツいもんね。現実が変わらない限り結論は変わらないし、現実は変わらなかったから、せめて。
出発の前には鍵を開けて行く。修正不可のタイムスタンプ付き記録だからね。検証の材料にしてほしい。参考になる論文の情報もある。もはやどう考えてもノーガードインパールを続けると社会が崩壊する、というかそれ以前に個々人が突然死したり後遺症で勤労はおろか生活ができなくなる、かつては予兆だったものが現実として起き始めている段階に来ている。
見えなかったのでは無い、見なかっただけ。見ていた者の声を否定し、拒絶し、潰しただけ。
国際基督教大学法人と全く同じ。
私が2020年度から国際基督教大学高等学校や国際基督教大学法人に伝えてきたこと、拒絶され続けたこと、解雇やその過程、事後の手続き、隠蔽の形は、国際基督教大学法人内で起きた/る感染症にかかる被害、あるいは弱者への無理解、無配慮、人権侵害の事案、あるいはより広く社会の感染症や合理的配慮に関する検証に使えることと思う。
私はどうにもならなかったが、私の件がきっかけになり、その他の人の状況改善に繋がることがあれば、それで充分。
私はもう充分に絶望は味わったし、これ以上の絶望はいらない。絶望を終わらせることは救いで現状唯一の解決策。
終わりは国際基督教大学法人による絶望で決まり、それ以降のこれまでの日々は、全て終わらせるための準備。遺してきた記録もその後の検証のため。全ては覆らない。
写真は京都の亀末廣さんの栗蒸し羊羹、竹裡の想い出。栗の時期に栗菓子巡りをしたこともあったな。
今年は時代祭直前に河原町二条のあたりで飛び降りがあったらしい。あんな市役所やオークラの近くで観光客はともかく街の人が普通に暮らし歩いている場所で…(河原町通りはバスもびゅんびゅん走っている)。巻き込みが無かったらしいのは本当によかった。
私は電車も飛び降りも選択しない。無関係の他人を巻き込まない。
ベストなんてないから、せめてベターでね。
少し前にQuincy Jonesが亡くなったので思い出して歌ってきた。男性の(私にとっては)低い部分が多いので前半がきつかった、もののマイケルやダイアナロスの歌いやすい音域で油断して投げやりになるのもいつもの通り。最後も微妙に低くて気持ち悪い。
でも練習もせずに歩きながら適当に歌ったらこんなもの。私は歌手ではなくただの野鳥。
最後に歌う曲は決めてある。