ダークネスバナナ

人生について思ったことを勝手に述べるアカウントです。 高校に通っています。 たまに旅行…

ダークネスバナナ

人生について思ったことを勝手に述べるアカウントです。 高校に通っています。 たまに旅行記を書きます。

最近の記事

偶有性と本体性

ほとんどの不幸が他人と比べることから生まれるらしい。 そのため絶対的に自分に自信を持つためには、自己の他者と比べられない部分について自信を持つ必要があると思う。 まず自分の、他人と比較できる要素の性質について考えてみる。これらは、性別、職業といった要素。これの特徴は、これらはある人を分解して出てくる要素だが、これらだけを使って組み立ててもその人にはならないということだ。例えば田中さんという人がいて、21歳、男性、石川県在住だとする。この年齢性別住所といった要素からどうやっ

    • 人生はゲームだった...?

      最近ソシャゲは罪深いゲームだと言うことがわかった。ソシャゲは基本無料で課金してアイテムを購入するタイプのネットゲームだ。ソシャゲは買い切りのスイッチのゲームと違っていくらでも課金できるので、お金が溶ける。 ソシャゲに課金するのはなんのため? →ゲーム内で強くなるため このようにソシャゲに課金する理由は破綻している。もともとは暇潰しでやってるものに暇を潰すレベルをあげるためにお金を費やすという謎。そしてお金をかけて得られたものといえば、強力なキャラクター?あまりにも虚無い。

      • 理想の政治家像

        政治のイメージが悪い理由 一般的な政治家のイメージと言えば、裏金、売国みたいに悪いものだと思う。そして今回の総裁選でも石破さんが当選して怒っている人が散見される。 政治論争には攻撃的な非生産的なイメージがあるが、それは論争の究極的な目標が権力だからだ。人間の権力に対する欲求は強く、今権力を持っている人をなんとかして引きずりおろそうとして野党や国民は必死になる。 やたらと政治家を批判する有象無象、例えば#○○やめろという人、というのは権力者に嫉妬していて、自分の力で権力者

        • 子供の声は騒音ではある

          「子供の声は騒音ではない」というのは某政治家の言葉であり、多くの人から正論とされているものである。しかしこれは根拠のない綺麗事のように思われる。自分は電車の中でお子様が騒いでいたら嫌な気分になるしうるさいと思う。赤ちゃんが泣く声も聞くと、いたたまれない気持ちになる。 そのため、「子供の声がうるさい!」というクレームに対して「子供の声は騒音ではない!」と批判するのは会話になっていないと思う。だって実際うるさいのだから。 したがってそのようなクレームの対処法はこのようになる。

          賢さについて

          賢い人は素晴らしい事とされているがそれは本当なのだろうか?私たちは当たり前の用に人の価値の尺度として賢さや愚かさを使うが、実際のところ使い方は曖昧だと思う。 まず人によって何が賢いのかが変わってくる。暗記力が優れているとか発想が天才とか東大に受かったとか。そのため、ある人が賢いのか判断しようとしたら、その場に居合わせた人によってその人は愚か者から賢者まで変わっていってしまう。したがって普遍的かつ正統に賢い人を決めるためには、神みたいな人間を超えた存在に決めてもらう必要がある

          「他人を認められない自分」を認められない病

          世の中には偉大な人物として尊敬されている人がいる。でも、その人たちの凄さが理解できないときはないだろうか? 「何歳であっても目標に向かって努力する人は美しい」だなんてよく言われるけど個人的には「あっそうですか、勝手に頑張ってください」としか思わない。偉大な人を褒めないといけない空気感と、それを構成している「他人を認められる自分は偉いんだぞ」と主張している、偉大ではない人は嫌いだ。 このように嫌いって言える場合はまだマシだが、他人を認められない自分と褒めている周りの人達を比

          「他人を認められない自分」を認められない病

          真理は存在するのか?

          何かについて考えている時、そもそもそれが絶対に正しいと言える根拠は存在するのかつくづく疑問に感じる。 例えば、どう生きるべきか書いてある本は自説をさも真理であるかの様に書いているが、もしそれが本当に真理だったらみんなとっくにそのように生きて幸せになっているはずだ。これは胡散臭い自己啓発本から信頼されている哲学書(哲学の定義は曖昧)にまで当てはまることだ。 では真理は存在しないと仮定してみよう。そうすると「真理は存在しない」という命題は真理ではないから、そもそもそんな命題は

          真理は存在するのか?

          大衆にならない方法

          大衆というのはマイナスのイメージで使われることが多く、自己啓発系の本やYouTube動画では「凡人」や「大衆」にならない方法を発信しているものが多いと思う。 だが、僕は自分含めてすべての人が同様に大衆であると思う。というのも例えば街中で歩いている時、有名人だろうが無名のサラリーマンだろうがあの街の雑踏の中では全員がいてもいなくても同じのような状態になっている。 また、私たち人間にある個性や差はどれだけ大きいだろうか。世の中は広いと言っても同じ言語同じ文化で暮らしているうち

          大衆にならない方法

          有能サラリーマン nor オタクの極み

          何者かにならないといけないという強迫観念は、恐ろしいものではあるが私たちをレベルアップさせてくれるものだと思う。 「何者か」になろうとしたとき私たちが歩むことができる方面は主に2つあり、一つは仕事、もう一つは趣味だ。仕事がめちゃくちゃできる有能サラリーマンまたは経営者、もしくはある趣味に特化したオタク(ここでは敬称)の極みになるしかなさそうだ。 だけれど、僕はどちらの道もなんか胡散臭いと思う。偉そうにふんぞり返っている経営者も、圧倒的な知識量を有するオタクも何か大事なこと

          有能サラリーマン nor オタクの極み

          勉強が全てじゃないさ

          じゃあ何が全てなんだよ。 人が落ち込んでいる時に励ます言葉の中に「〇〇がすべてじゃないさ」というものがあるが、これは実は励ましているようで何も意味がない言葉だと思う。 成績が悪いんだよね → 勉強が全てじゃないさ このような会話の流れを見てみると、その人は勉強で悩んでいるのに悩んでいること自体を否定するのは、解決策を与えずに放っておくのと同じな気がする。 たしかに勉強で悩んでいる人にそれは大したものじゃないよ、と励ますのは悪い事だとは思わないが、なんかぱっとしない。

          勉強が全てじゃないさ

          友だちが少ない理由

          世の中には友達があまりいない人がいる。自分もそうだ。 自分は友達が少ないことで少し悩んできたので、少ない理由を考察することで解決しようと思う。また、僕の自分自身の洞察が誰かの役に立つかもしれないので、ここに書いてみる。 前提:友達が不要な人はいない いつも一人でいる人がいたら、きっと彼は友達がいなくても生きていける強い人なのだろうと思うかもしれないが、実際にそんな人はいない。誰しもが生きている中で寂しさを感じているし、友達や家族がいないと生きていけない。だから前提として

          友だちが少ない理由

          MBTIの罠?

          mbtiは今は有名で若い人ならだれもが知っていると思う。 2^4通りある性格診断で外向型とか内向型とかがわかるそうだ。 自己分析や人間関係の構築に使えたりするらしい。 ちなみに自分はINFPという社会不適合者だった。 ここ1週間少しはまってYouTubeでmbtiの動画を見ていたのだが、mbtiには少し落とし穴があるような気がしてきたので浅学ながら書いていきたいと思う。 mbti系の解説をする動画と言えば、 ・このタイプの特徴 ・このタイプの適職 ・このタイプの得意なこ

          「哲学」を死語にしたい

          「哲学」という言葉から何が連想されるだろうか? 物事の本質を考えること?有名な哲学者の名前?なんか教養くさそうなイメージ? みんな「哲学的」とかよく使うけれど本当に意味を知って使っているのだろうか。 ここでは「哲学」という言葉について考えていこうと思う。 哲学のもともとの定義 哲学という語はギリシア語の「philosophia」という「知を愛す」という意味の単語を翻訳したものであるというのはよく知られていると思う。だったら愛知学にすればよかったのにと思うが、翻訳する時に

          「哲学」を死語にしたい

          逆張りの逆張り

          「逆張りキッズ」というのはあまり肯定的に捉えられないものだと思う。 「逆張りキッズ」とは普通の行動から逸脱することが行動の動機となっている人のことを指すと思うのだが、彼ら(自分も含む)はよく、 「逆張りキッズはつまらない。俺は普通が嫌だって感じが嫌い。」 と批判され疎まれる。 ところがこの逆張り批判と逆張りは本質的に性質が同じであると思う。というのも、どちらもあるものに対して、相対的に自分の言動を決めていからだ。 逆張りは普通に対して、逆張り批判は逆張りに対して、それ

          学歴主義の再生産

          日本は学歴主義だとよく言われる。でも本当にそうなのだろうか。 こういうのは根拠のない思い込みかもしれない。 「今の日本では学歴が重視されていて、いい大学、いい企業に入って高収入であることが成功であるとされている。」 と言っている人がいたが、よく考えてみてほしい。 そんなこと誰が決めたのだろうか。法律に書いてあるのだろうか。 ルールにはないけど社会の慣習的にそうだろという意見はごもっともだが、ではその社会を構成しているのは誰なのだろうか。それはおそらく学歴重視社会に異を唱え

          学歴主義の再生産

          趣味のすゝめ

          多趣味な人は肯定的に思われがちだが、僕は必ずしもそうであるとは思わない。良い趣味を持つ人の条件は其の種類ではなく其の趣味への態度だと思う。 趣味の善悪の判断基準 そもそも趣味の善悪は何で判断せらるかと言うと、自分に精神的な豊かさをもたらしてくれるかどうかである。豊かさとは余裕のことである。 したがって良い趣味を持つ人は趣味を通じて心の余裕を得る。 悪い趣味の例 趣味というのはそれが専門的で特殊であればあるほど、人間に自信と仲間を与えてくれる。初対面の人からは称賛を受