「哲学」を死語にしたい
「哲学」という言葉から何が連想されるだろうか?
物事の本質を考えること?有名な哲学者の名前?なんか教養くさそうなイメージ?
みんな「哲学的」とかよく使うけれど本当に意味を知って使っているのだろうか。
ここでは「哲学」という言葉について考えていこうと思う。
哲学のもともとの定義
哲学という語はギリシア語の「philosophia」という「知を愛す」という意味の単語を翻訳したものであるというのはよく知られていると思う。だったら愛知学にすればよかったのにと思うが、翻訳する時に希哲学(哲、すなわち知識を希求する学問)から哲学になったのだそうだ。
したがって、原義通りだと
「この世界がなにであるか説明しようとすること」
というのが哲学の定義である。
現在の定義
ところが、現在の「哲学」という単語の意味は先述した第一の定義に加えて、人生観とか態度という意味が加えられている。人生哲学という単語があるようにどのように生きるべきか、ということも指すようになったようだ。
また、哲学的という言葉のように本質を考えるみたいな意味も添加されて冒頭で述べたように「哲学」という単語の正確な意味がわからなくなってしまった。
単語の意味が明確にされていないと、会話の妨げになるのでこのような状態は好ましくない、そのため僕は「哲学」の単語の意味は第一の定義に戻すか、別の単語を作る必要があると思う。
哲学と思想の分離
人生哲学とはおよそ「どう生きるべきか」という人生に対する態度という意味であると思うが、この意味だと僕は「思想」を使うべきだと思う。
「この世界は何であるか」を哲学
「この世界でどう生きるべきか」を思想
にするとわかりやすくなると思わないだろうか。
哲学と思想の混同が生じた理由
哲学という言葉が思想の範囲も含んでしまっているのはなぜなのだろうか。それはおそらく二つが密接にかかわっているからだ。というのも思想というのは「どう生きるべきか」を示すものだが、そのためには、「この世界は何であるか」を示さないといけない。そのため思想には哲学がセットでついてくる。
例えば老子だと、道はこの世の根本原理だから道に従って生きようねということが書かれていると思う。
人生哲学に関しても、「人生はこういうものだ、だからこそこう生きるべきだ」というように思想もおまけでついてくる。
哲学者と哲学学者の違い
また、哲学に関連して「哲学者」という言葉についても考えてみよう。哲学者というのは「知を愛する者」という意味なので、この世界は何であるか知りたい人ということになる。
ところが、ただ誰かの哲学を勉強しているだけで自分の考えを持たない人を哲学者と言うきらいがあると僕は思う。この手のタイプの人は哲学学者であり、フィロソフィーとソフィストをあわせてフィロソフィストと言うべきだと思う。
とはいえ哲学書の翻訳をする学者の方々たちは哲学学者ではあるが、ほとんどの人が自分の考えを持っていて、単純に考えるのが好きそうな人なので哲学者でもあり、実際にはそういう人は少ないかもしれない。
哲学とか難しい話を理解している人はすごいという風潮も嫌いだ。哲学者というのは知りたいから考えているだけであってすごいすごくないは関係ない。
哲学を何か飾りだと思っている人は哲学学者でありフィロソフィストなのだ。
まとめ
このように哲学という言葉は意味が混同されているので、わかりやすくするために愛知のような何か新しい言葉でも作ったほうがいいと思う。
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