偶有性と本体性

ほとんどの不幸が他人と比べることから生まれるらしい。

そのため絶対的に自分に自信を持つためには、自己の他者と比べられない部分について自信を持つ必要があると思う。

まず自分の、他人と比較できる要素の性質について考えてみる。これらは、性別、職業といった要素。これの特徴は、これらはある人を分解して出てくる要素だが、これらだけを使って組み立ててもその人にはならないということだ。例えば田中さんという人がいて、21歳、男性、石川県在住だとする。この年齢性別住所といった要素からどうやっても田中さんは現れない。

そのため、他人と比べられる要素(以後偶有性と呼ぶ)は、ある人とは切り離せないものだけど服やアクセサリーみたいにその人と直接関係していないものであるとわかる。

そうすると、他人と比べられない要素と言うのは先の例のように田中さんを田中さんたらしめている何か、すなわち本体と言えないだろうか。

本体というのは、魂や観念のこと。例えば大好物を食べたら「美味しい」という観念を抱く。このように感じたり考えたりすることは本体的なものだ。

しかし「好き」という心象について考えてみると、確かにそれは観念であるが、趣味になるとそれは偶有性になる。例えば戦闘機の趣味を持っている人がいたとしよう。戦闘機を好きだと思うことは紛れもなく本体的なものであるが、同じ戦闘機趣味の人達の間で自分の知識の多さでマウントを取るのは、知識量つまり「好き」の度合いを比べている。また、戦闘機の趣味や知識を誇って趣味の世界の外の人たちに対して自慢するのも、「戦闘機が好きである自分」というが好きだということになる。

本体性と偶有性の関係についてはよくわからないが、他人と比較して得られる満足は、本体的な満足すなわち「美味しい」という感覚による満足とは違って何か充たされない感じがする。

というのも、もし死んでも永遠に魂が残るなら、これらの物質的なことはいつか滅びるものであるから永遠に満足することはできない。また、他人からすごいと思われることも他人の観念であり、自分で知ることができないあいまいなものである。

だから、具体的にはわからないが本体的な満足を知れば、それよりも劣った他人と比べる満足がしょうもないものだと思うことができて、結果として他人と比較することをやめられるのではないだろうか。






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