賢さについて
賢い人は素晴らしい事とされているがそれは本当なのだろうか?私たちは当たり前の用に人の価値の尺度として賢さや愚かさを使うが、実際のところ使い方は曖昧だと思う。
まず人によって何が賢いのかが変わってくる。暗記力が優れているとか発想が天才とか東大に受かったとか。そのため、ある人が賢いのか判断しようとしたら、その場に居合わせた人によってその人は愚か者から賢者まで変わっていってしまう。したがって普遍的かつ正統に賢い人を決めるためには、神みたいな人間を超えた存在に決めてもらう必要があると思う。
また、客観的な尺度としてIQテストがあるがこれも微妙だ。賢さの多くある面のうちの一つの面しか反映されてない。
賢さの定義
曖昧でない方法で賢さを定義すると、
「自分にとって良い結果を導くもの」になると思う。
このように定義すると「賢さ」は個人や集団や国家の自己都合の中で完結し、自分が賢いかどうかは自分がその行動によって得られた結果によって決まるため曖昧さが回避されると思う。
また、賢さは「自分にとって」善いことであるため、何を賢さとするかは人によって変わる。そのためある人が賢いかどうかが、人によって変わるというのも納得できる。
他人の愚かさについて
もし、賢さが自己完結するものなら他人が賢いかどうか判断することは無駄なことに思われるが、その人の愚かさによって自分が被害を受けないためにある程度判断する必要はあると思う。
自分の愚かさについて
他人の愚かさについて判断するときに、自分の愚かさを考慮しない人は多いと思う。例えばある人が愚かな間違いをしたときに、馬鹿にして笑う人達。インターネット上の言説を見てみると、なるほど賢そうな人はたくさんいらっしゃるが、みんながみんなそんなもんだったら現実社会はもっと良くなっているはずなのに。
他人の愚かさを見て愉悦に浸ってもその感情は長くは続かない。だって自分も愚かなのだから。
自分が愚かさから免れていると信じ込むことこそ愚かなことだ。だから自分も周りと同じくらい愚かなものだと思って生きるのが賢明だと思う。慢心は破滅への第一歩。