マガジンのカバー画像

考察・メモ・ポエジー

21
抽象性の高い文章、何らかの考察、あるいは展覧会用のキャプションなどを載せています。
運営しているクリエイター

#エッセイ

対岸、超越、外部(フリードリヒ・ニーチェについて)

対岸、超越、外部(フリードリヒ・ニーチェについて)

フリードリヒ・ニーチェは1844 年のドイツはライプツィヒのリュッケンにある、比較的裕福なポーランド系の家庭で生まれた思想家である。1900年に亡くなるまでに記された彼の著書は過激な社会風刺を含み、出版時にセンセーションを巻き起こしたが後世に至るまでに多大な影響を及ぼした。

ナチス・ドイツ時代にナチスによる彼の思想の引用があって以来少し影を潜めていたが、近現代になって彼の思想は再び評価され、社会

もっとみる

ツールに操作されるアイデンティティ(メモ)

①「自分の思っていること」を表現するのは難しく、ある程度の技術があればその程度に依ってその意識的なものを敷衍して表現することはできても、頭の中で思っていることとは違う、っていうのはよくあると思う。

②そこで言うところの「考えたこと」的なものを表現する程度にも難しいものがあり、作業の過程である種の脱線が起こっていく的な、インプロビゼーションのようなものが実際の作品的なものの面白さになったりするので

もっとみる
ロベール・クートラスとヘンリー・ダーガーから絵描きの人生を想う話

ロベール・クートラスとヘンリー・ダーガーから絵描きの人生を想う話

画家の人生を想う際に、モーリス・ブランショやエマニュエル・レヴィナスが言うように、異なる二者間の(終わりなき)対話の敷衍としてのアートを考えるならば、私自身はむしろ、今まではスタンスとしてはネイサン・ラーナー(=非画家)に近かったのだと思う。裕福で自身も美術に精通していた彼は、管理していたアパートの片付けで訪れたヘンリー・ダーガーの部屋で膨大な量の文章とその挿絵を見つけることになるのだが、彼はその

もっとみる
ビジネスモデルとしてのアートとアイデンティティの喪失、およびアートの市場原理主義的志向から見る批評の可能性について

ビジネスモデルとしてのアートとアイデンティティの喪失、およびアートの市場原理主義的志向から見る批評の可能性について

マイケル・フィンドレーは自著『アートの価値』にて、アーティストはマーケットに意図的に参画することにより自己同一性を失いつつあり、それにより作品そのものの「意味」は喪失し、しばしば他の商品と代替可能であるという「抽象性」を持つとした。

ただしそれはアガンベン的な「なんであれかまわないもの」としての個物ではなく、そのものの個々の独立性を失ったものとしての「商品」としての作品であり、そこに存在するもの

もっとみる
ヘロインとヒロインの漸近線、アガンベンとワイルドの知見(片鱗をいつも掴み損ねるものとしての「愛」について)

ヘロインとヒロインの漸近線、アガンベンとワイルドの知見(片鱗をいつも掴み損ねるものとしての「愛」について)

「愛」とは何だろうか?オスカー・ワイルドに質問をしてみると、だいたいこんな内容が返ってくるだろうー

本当に魅力的な人間には、2種類しかない。何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。

"There are only two kinds of people who are really fascinating – people who know absolutel

もっとみる

喪失と情動と死について(オブセッシブなカテゴリをゆるくモリッシーと巡る)

成長の過程や文化の発展の程度に於いて語彙力の差異はあれど、思考する内容について差異はない、とファイヤアーベントは考古学者を批判する。文明が存在していた「石器時代の精神的能力」が現代の人間より劣る、未熟なものである証拠はないし、人間そのものは変わらず同じ営みを続けているからだ。

文明の発達により人間の思考が抽象的になればなるほど、それは「自然」なるものから乖離する・・つまり、ラカンの言う所の<現実

もっとみる
なんかそろそろのアレなのでというお話(2019年の展覧会、良かった本など)

なんかそろそろのアレなのでというお話(2019年の展覧会、良かった本など)

さて年の瀬になりましたが、なんだか色々と間に合いそうに無いので、今の時点でできることを書いておきます。今これを読まれているあなたにとって、2019年はどんな年でしたでしょうか。

私は、そうだなあ、色々なセレンディピティに出会って自分自身を取り戻せたと言うか・・めっちゃ平たいこと言ってしまった。

駆け足になりそうですけど、今年よかったものなどを振り返ろうと思います。

今年よかったなあと思った展

もっとみる
孤独のバイアス、アイデンティティのパラドックス

孤独のバイアス、アイデンティティのパラドックス

「孤独感とは本来的な意味で「孤独」な人間には訪れず、人は誰かと接触をすることにより、孤独感を味わうものである」というようなことが、高校生の頃に読んだ医療系エッセイの中に書かれていたことを時々、思い出す。

それを誰が書いた文章だったか覚えておらず、また、原文が英語だったのでニュアンスが違うかも知れない。・・そもそも孤独というものは「我々が一人である」と感じる時に自覚するものではないのだろうか?

もっとみる