ロベール・クートラスとヘンリー・ダーガーから絵描きの人生を想う話
画家の人生を想う際に、モーリス・ブランショやエマニュエル・レヴィナスが言うように、異なる二者間の(終わりなき)対話の敷衍としてのアートを考えるならば、私自身はむしろ、今まではスタンスとしてはネイサン・ラーナー(=非画家)に近かったのだと思う。裕福で自身も美術に精通していた彼は、管理していたアパートの片付けで訪れたヘンリー・ダーガーの部屋で膨大な量の文章とその挿絵を見つけることになるのだが、彼はそのままダーガーの作品を「作品」にした。
つまり、それまでは誰の目にも触れることなくひそやかに、箱庭のように育てられてきたダーガーの作品を「外」に渡すきっかけを与えたのがネイサン・ラーナーだった。
モリッシーでいうところのジョニー・マー。マーは、モリッシーの眠るドアを叩いて彼を連れ出すー余談はさておき、私は今までの制作や原稿執筆などの活動に於いて必死に、形の見えない「アート」の輪郭についてを考えていたという意味で。
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ダミアン・ハーストの「buy to define art」とは概ね、そういうことだったのではないだろうかーバスキアやキース・ヘリングといったストリート・アーティストたちが壁に描いた「グラフィティ(落書き)」に価値が見出されたのが80年代だったが、そうしたセカイに於いて作品に対する「外部」性はどこにあるのかと言うと、多分、マイクロポップなど細分化されつつある昨今のアートは「外部」持たないで、自意識をスポイルされるかたちで価値が与えられているのではないかと私は感じる。
だから、つまり、「外」は「(自我を認める主体としての)私」の中にははじめから存在しない、そうしたものが許されているセカイがポストモダンとしての「現代」であるのではないかということなのだが、それは「(対話の可能性としての)アート」にとってどういうことなのだろう、とそんなことを考えながら私は、ロベール・クートラスの関連書籍に目を通していた。
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前提として、画家として生きていくということについてはだから、あらゆる意味で今はより、茫漠とした解釈になっていると私は考えている。定義として、「画家」とは本質的には作品収入で経済的に自立できるもののことを指すのだとして、画家に対する作品を考える時、つまり画家の作り出すものを作品とするのならば。
そして、前述した通りアートを「アート」たらしめるものが「外部」性なのだとしたら、画家は常に作品と鑑賞者(および購入する顧客)とのコミュニケーションのパイプでもあると私は考えている。だからそう、ある意味では私自身のスタンスは正しかったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
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殆どホームレスのようだったクートラスの人生は破綻していたかもしれないが、反面、彼は画家としての人生を全うしていたように私は感じた。そして、彼は「画家」であることと最期まで闘っていたのではないかと思われる。
画家として生きていくことについて考察する際に、画家であることを半分放棄してしまったクートラスの人生を引用することは間違っているかもしれない。ただし、私自身、彼の作品の得体の知れない魅力には感動してしまったことは事実であり、あらゆるものを捨ててまで制作に向かうことを大切にした彼の姿勢は間違っているかもしれないが、どこか私の心を掴んで離さなかったのは事実だ。
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作品と画家(作り手)の関係はバランスで成り立っていると私は思うし、作品と鑑賞者の関係も概ねそのような感じなのではないだろうかとも考えている。画家はその中心で、いまも昔も精緻に「セカイ」を構成する役割を担っているのではないだろうか。
抽象的思考と身体的所作の間を縫って、作者自身の欲求(エゴイズム)と、第三者(=他者、鑑賞者、外部)との(終わりなき対話的な)関係性のバランスを取ることが今の私には必要なことであり、今後の課題である気がする。いろいろなことを体験し、活動して行きたいと思っている。
(メモより抜粋 / June 26, 2016)