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ヘロインとヒロインの漸近線、アガンベンとワイルドの知見(片鱗をいつも掴み損ねるものとしての「愛」について)

「愛」とは何だろうか?オスカー・ワイルドに質問をしてみると、だいたいこんな内容が返ってくるだろうー

本当に魅力的な人間には、2種類しかない。何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。

"There are only two kinds of people who are really fascinating – people who know absolutely everything, and people who know absolutely nothing."

私自身、「愛」と言われてもよくわからない。まだ、「孤独」というタームの方が理解できる。孤独は、異なる他者間における鏡像段階以降のコミュニーケーションが産む断絶であり、つまりは「あなたと私が違う」ことと、「人間は自分自身の言葉を完璧に相手に伝えることができない」という齟齬が産み出すものだ。

冒頭の質問については、たぶん、モリッシーはこう言うだろうー「恋愛が起こす心の痛みなんかもう二度とこりごりだ(I'd hate the strain of the pain again)

人間の感情としての愛というものは、精神医学的にはコンプレックスに帰属するというのがフロイト的解釈(厳密にはもっと根底にあるリビドー、性的欲求)だが、

フロイトがドメスティックな出自のリビドーを説いたのに対し、ジョルジョ・アガンベンは、もう少し形而上学的な物言いで存在、愛、個物について語っている。曰く、まず前提として、個物とは「なんであれかまわないもの」である。

彼の定義する「なんであれかまわない」とは否定的なアティチュードを持つものではなく、むしろファイヤアーベント的な「Anything Goes」に近い。

絶えず揺れ動く連続として、アトラクターのように複雑な軌道を束ねる共通の形態として現れる個物の述語や名指するための名称、そのものが「そのもの」であることを指すものだ。

主体としての私にとってあなた(=他者)という個物は言語活動において捉えられる存在ではないけれど、「あなた」という連続性があなたを「あなた」足らしめる、その時に、主体は「あなた」と名指すことによりその片鱗を掴み取る。

我々は我々が無力であることを自覚し、眼前のあらゆるものをそのように存在しているままに受け取ることでしか、「愛」を可能にすることができない。つまり、存在しない、であるが故に存在する個物の(言語的)パラドックスを受け止めることで、愛は成立する。

だが、愛とは記号的な言語的活動に隣接する「外部」のものであるが故に、主体としての私の心を掴んで離さない、であるが故に愛する価値のあるものとして認識されるのだ。これはラカンのアイデンティティと、鏡像段階以降の人間の感じる孤独感ともリンクする。

結局のところ、定義してしまうことにより取り溢してしまうが、その片鱗に近づき、接近すると言う形で立ち上ってくるもの、それが愛というものなのだとしたら、「愛」について明言を避けるオスカー・ワイルドやモリッシーはだから、実のところその本質について的確に表現していると言える。

ラーズの「There She Goes」がドラッグの歌であることはもはや周知のことだと思うが、「ヘロイン(Heroin)」を「ヒロイン(Heroine)」に置換して「叶わぬ恋、的な何か」を謳うことはロックンロールのクリシェとしても、

揺らぐ自己同一性としての「彼女」を掴めない主体という意味では、このクリシェはニンゲンの生(性)にも敷衍可能であって、わからないという表現はだから、本質的には正しいのかもしれない。

世界があるがままの状態、きみがあるがままの状態を主体としての私は認識する。それが直ぐに消えてしまうものだとしても、特異な存在としてのきみ(=他者)は恐らく、アトラクターのようにまた一つに回帰するだろう。

代替不可能かつ表象可能な「きみ」という存在を、主体としての私は決して正しく認識することができないが、愛とは、そのものがそのものであることを欲する、「外部」への憧憬であるー失ってしまうことにより得るもの、あるいはそのような存在から目が離せなくなる、何かそのようなアンチノミーが愛であるような気もする。

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D▲/Ogri
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