見出し画像

愛する人の声は、目に見えない。

「お母さんの声、どこにあるの?」

そう、弟に尋ねたのは16年前。


母は47歳で突然この世を去った。
心筋梗塞だった。


遺品整理をして
声だけがどこにもないと気づいた。

もし母の声が残っていたらーー。
何度そう思っただろう。



あれから16年の月日が流れ、
母の声を直接聞くことはもう叶わない。


けれど、その「声」は
今もわたしの心に響きつづけている。


今日は、そんな母の「声」が
わたしをどう支えてきたのか。
よかったら、きいてもらえたらと思う。



愛の声

2008年8月13日

母はその日も、家族のために
キッチンでカレーを作っていた。


統合失調症をかかえた母。
料理をすること自体がとても大変で…
それでも、ルーを入れるだけで精いっぱいのカレーを作り、家族を想っていた。



けれど、作り終えることなく
突然、弟の目の前で倒れる。



弟が必死に心臓マッサージをするも、
母はそのまま息を引き取ってしまった。


……


冷たくなった母を病院に残し
わたしたち姉弟3人は、
真っ暗な空の下
家に帰った。 


キッチンに入ると、弟が嗚咽して言う。

「あれみて、おかあさんのつくったカレーがある!」

それをきいた瞬間、
わたしは膝から崩れ落ちた。



母はもういない。
なのに、母が作ったカレーだけがそこにある。

この矛盾が、どうしようもなく胸をしめつけた。


鍋に触れると温かさはない。
冷たい現実が心を刺す。

……

わたしは、母のカレーを食べると
いつも「おいしい」と言った。

そのたびに母は、照れくさそうに
「ルーを入れただけやけどね」と言う。


鍋の中をみた瞬間、
その声が聞こえた気がした。

そこには、
母の愛が残っていた。



倒れる寸前まで
ごはんを作る手を止めなかった母。


その愛は
今も体の隅々にまで染みわたる。



赦しの声

母を失った日、もう一つ忘れられない出来事があった。

それは、父の謝罪である。


かつて父は不倫をし、その相手が妊娠したことで母と離婚した。
それから長い間、二人は交わることがなかった。
けれど、母が亡くなったと聞いたとき、父はすぐ病院へ駆けつけた。
そして、母の亡骸を前に、泣き崩れる。


「俺が悪かった。ごめん、ごめん……」


震える声で何度も謝った。


その姿を見たとき、

もう、父を許すとか許さないとか
そんな次元で考えられなかった。

その声が、真実だと感じたから。


わたしは、過去の父ではなく
今の父の思いを、
そのまま受けとめようと思った。

そのとき、ふと
『人間はみな赦されたい存在なのかもしれない』
そう思った。


父の声は、「不貞行為」の謝罪をこえて
人間そのものの弱さと、その赦しを
求めているように感じたからである。

わたしは、
「お父さんの声
そのままお母さんに届いてると思うよ」 
そういって、父の背中をそっと撫でた。

父の身体に触れたのは、
小学生以来だったかもしれない。

その瞬間、
なんとも言えない感情が胸に生じた。
それは言葉にできないものだったが、
たしかに温かさを伴っていた。

あのとき、わたしは
母が残した愛をとおして、
父の謝罪を受けとめられたように思う。



導きの声

母が遺した愛と赦し。
その声は、迷うわたしを今も支えている。

……

今年8月、わたしは適応障害で休職となった。
仕事を続けるべきか辞めるべきか。
夫の病気や家計の重さが、心を押しつぶす。

ある夜、空に向かって母に問いかけた。

「お母さん、どうしたらいい?」 

そのとき、幼いころの記憶がよみがえった。

……

中2のころ
「ごめん、もう頑張れない」
そう言って、母は精神病院へ入院した……。



退院後、母は
「働くことは難しい体だけれど、
子どもたちには好きなことをさせてあげたい」

そう言って、家計簿を片手に
役所で職員と話し合ったり、
大学資金のことで国の制度を調べてくれた。


わずかな希望をつかむために、
家族を支える道を必死に探してくれた母。

「無理しなくてもいいよ」
母は病気になってから、こう言うようになった。

母のその言葉。
どれほどの覚悟と優しさから出たものだろう。

あのときの母の姿が、今の自分と重なる。
悩み苦しみながら、家族のために道を探そうとする姿が。

……

「無理しなくてもいいよ」
母の声が、ふいに響いた。


その瞬間、気づいた。
母の声は、ずっと押し込めていた自分自身の声だったのだと。


「わたし、無理したくない」
その声を、ようやく自分の心に許した気がする。


胸の奥に強ばっていた何かが
静かにゆるむ。

気づけば、心に平穏が広がっていた。



管となる声

母の声は、目に見えない。

けれど、その声は
今もわたしの心に響き続けている。

それは、不安な朝や夜に
心を包み込むような
ぬくもりのある声だ。

今度は、わたしがーーまだ回復途中の身だけれどーー

母から受けとったこの声を
文章にのせて
小さくとも、誰かに届けられたらと思う。


天から流れる母の愛を、
そっと運ぶ「管」となれたら――



この文章が
あなたの心にそっと届きますように。

そして、

ほんの少しでも
灯りをともすものとなりますように。