沈黙のグラス

バーの扉を開けると、冷たい夜の空気が背後から押し込まれるように店内に流れ込んだ。窓の外では木々が冬の装いを整え、街灯の光が濡れた歩道に映り込んでいた。僕は軽く肩をすぼめ、いつものカウンターの席に腰を下ろした。

カウンターの向こうで沢田さんがグラスを磨いていた。彼女がこの店に入って半年になる。細身で、背は高くない。髪は後ろで一つに束ねている。余計な会話をせず、客が注文を待っているときだけ静かに話すタイプだった。時折、グラスの並ぶ棚を見つめながら、まるで誰かの代わりに言葉を探すような仕草を見せる。

彼女は僕の名前を覚えているようだった。でも、お互いそれを口にすることはない。この店ではそれが暗黙の了解だった。僕は週に三、四回立ち寄る程度の客だ。仕事が終わり、ふらりと来て、グラスの中身が空になったら帰る。そういう客の一人に過ぎない。

僕はコートを脱ぎ、椅子の背に掛けた。沢田さんは僕の動作を見ながら、すでにグラスを取り出していた。外の喧騒が徐々に遠ざかり、夜が深まっていく。この時間になると、誰もが本当の言葉を探し始める。

「バーボン」 「氷、少なめで」

彼女は微かに眉を上げたが、何も言わずにボトルを取り出した。普段より少ない氷をグラスに落とし、バーボンを静かに注ぐ。店の照明が液体を照らし、琥珀色の光がグラスの中で揺れた。その光は、どこか儚い思い出のように揺らめいていた。

昨日の夜勤が終わったばかりだった。
病院の待合室で、年老いた男性が一人で座っていた。検査結果を待っているという。
僕は通り過ぎようとしたが、男性が声をかけてきた。息子が来るはずだったが、まだ来ない。
そう言って寂しそうに笑った。
僕はその男性の話を十分ほど話を聞いた。

「患者さんの痛みに寄り添いすぎると、医師として冷静な判断ができなくなる」 そう教えられた研修医時代の記憶が、ふと蘇った。人との適度な距離。それは誰かを守るためなのか、それとも自分を守るためなのか。

「お仕事、大変でした?」 沢田さんが言った。彼女は時々、客の表情を見て声をかける。でも決して深入りはしない。その距離感は、まるで僕自身を映す鏡のようだった。

「まあ、いつも通り」 僕は答えた。グラスを傾け、アルコールの温かさを感じる。ジャズのテンポが少しずつ遅くなり、影が長く伸びていく。

バーの奥のテーブルでは、二人組の客が話していた。男と女だ。男はネクタイを緩め、長い一日を終えたような顔をしていた。女は細身のワンピースを着て、グラスの中の氷をストローでかき混ぜていた。その仕草に、何か言いたげな思いが滲んでいた。

店内には低いジャズが流れていた。ビル・エヴァンスのピアノ。「ワルツ・フォー・デビイ」だ。柔らかな旋律が空間を包み、ベースがそれを支えるように重なっている。音楽の流れに合わせて、グラスの中の氷が小さく揺れた。

「今日は静かですね」 沢田さんが言った。彼女は何気なく奥のテーブルに視線を向けた。その目には、誰かの物語を読み解こうとする優しさが宿っていた。

「そうですね」 僕はグラスを傾け、もう一口飲んだ。

僕は少し考えた。この店には、言葉にならない何かが漂っている。誰もが何かを抱えている。でも、それを必死に隠そうとはしない。ただ、そこにあることを認めている。まるで、この場所自体が誰かの心の中のようだった。

「この店、好きですか?」 彼女が尋ねた。その声には、いつもより少し真剣さが混じっていた。

僕は少し考えた。 「嫌いじゃないよ」

彼女はそれを聞いて、小さく微笑んだ。その表情には、何か懐かしいものを見るような柔らかさがあった。

店のドアが開いた。 冷たい風が再び店内に入り込んだ。 岡本だった。

彼は乱暴にコートを脱ぎ、カウンターの端に腰を下ろした。そして、当然のように煙草を取り出し、無造作に火を点けた。十年来の付き合いだが、最近はたまにこのバーで会うだけだ。岡本のグラスが荒々しくカウンターに置かれる音が、僕の中の何かを揺さぶった。

煙草の煙がゆっくりと立ち上る。その匂いが、かすかに僕の方へ流れてきた。窓の外では、夜の闇が深まりつつあった。

「お前ってさ、本当に器用だよな」 岡本はグラスを片手に、ぼそりと言った。その声には、いつもの皮肉めいた調子が混じっていた。

「何が?」 「人間関係さ」

僕は肩をすくめた。 「そんなことはないよ」

「いや、大したもんだよ。お前は誰とでも上手くやる。適当に相手に合わせて、場を取り繕って、無難に収める。そういうの、俺にはできねえよ」

岡本の言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。彼は先月、また部下と衝突したらしい。いつもの調子で言い合いになり、結局は上司に仲裁されたという。その話を聞きながら、僕は自分の中にある壁の存在を感じていた。

「昔から変わってねえよ、お前は」 岡本は煙を吐きながら続けた。 「大学の時もそうだった。みんなが言い争ってる時も、お前だけは黙って聞いてた。で、最後に『まあ、そういう考え方もあるよね』って」

僕は黙ってグラスを見つめた。氷が少しずつ溶けている。その様子は、どこか人との距離が溶けていくようでもあり、また新たな壁が作られていくようでもあった。

「お前、誰かと本気でぶつかったこと、あるのか?」

その言葉が、静かに響いた。 バーの中では誰もが何かを抱えていた。

僕はいつも、誰かの話を聞く側だった。誰かが仕事の愚痴をこぼし、誰かが恋愛の話をし、誰かが過去のことを語る。そのすべてに、僕は適度な相槌を打ち、適度なリアクションをする。まるで、誰かの人生の脇役を演じるように。

それで、何も問題はなかった。 波風を立てず、ただそこにいるだけでよかった。 でも、本当にそれでよかったのか。その疑問が、溶けかけた氷のように、僕の中で形を変えていった。

カウンターの向こうで、沢田さんが黙々とグラスを拭いている。彼女は時々、客の表情を見ながら、それぞれの物語を想像しているのかもしれない。でも、決して踏み込まない。それが、このバーのルールだった。そのルールは、僕の生き方そのものでもあった。

そんなことを考えながら、もう一度グラスを持ち上げる。 氷が溶け、バーボンが少し薄くなっている。その味は、どこか僕自身の存在のようにも感じられた。

「最近さ」 岡本が言った。 「妻と離婚することになった」

僕は少し体を固くした。 「そうか」

「ま、俺が悪いんだけどな」 岡本は煙草の灰を落とした。 「いつも通り、言い合いになって。でも今回は『もう疲れた』って。そう言われて、俺も『そうだな』って」

僕は何も言えなかった。 ただ、氷の溶ける音を聞いていた。

「お前に相談しても、どうせいつもの返事だろ?」 岡本は自嘲気味に笑った。 「『そういう時もあるよ』とか『気持ちは分かる』とか。でも、それが欲しかったわけじゃない」

沢田さんが新しいグラスを岡本の前に置いた。 岡本はそれを一気に飲み干した。救いを求めるように。

「本当は、誰かに怒ってほしかったのかもな」 彼は低い声で言った。 「お前にでも、誰にでも」

「悪い、今日は」そう言って、岡本は店を出た。

店の奥では、男と女がまだ話していた。 女がなにかを言い、男が軽く頷いた。 ジャズは静かに流れ続けていた。その音色は、誰かの心の揺れを優しく包み込むようだった。

その時、店のドアが開いた。 黒いワンピースの女性が入ってきた。 夜の冷気が、彼女と共に店内に流れ込んだ。

彼女は僕の隣の席に座り、赤ワインを注文した。 「こんな遅くに一人で?」と、僕は声をかけた。

「ええ」 彼女は少し疲れた様子で微笑んだ。 「仕事が長引いて。でも、まっすぐ家に帰るのも寂しくて」

僕は軽く頷いた。 「そういう日もありますよね」 その言葉を口にしながら、僕は自分の声の中に、どこか虚ろな響きを感じていた。相手を安心させるための言葉。それは同時に、自分を守るための盾でもあった。

彼女は僕をじっと見た。グラスに映る僕の横顔を、少し切なそうな目で見つめている。その瞳には、何か見透かすような光があった。

「あなたって、優しい人なんですね」 その言葉には、かすかな皮肉が滲んでいた。

「そうでしょうか」 僕は曖昧に微笑んだ。いつものように。でも、その笑顔の下で、何かが僕の中で軋んでいた。

「ええ」 彼女はワインをゆっくりと口に運んだ。 「でも、その優しさは誰のものなんでしょうね」

僕は黙ってグラスを見つめた。その中で、最後の氷が静かに形を失っていった。

「誰にでも同じように接する優しさって」 彼女は続けた。 「時々、すごく冷たく感じるんです」

その言葉が、重たい空気の中に溶けていく。

カウンターの向こうで、沢田さんがグラスを磨いている。 彼女の手が一瞬止まり、そしてまた動き出す。 何も言わない。でも、すべてを見ている。この夜に漂う、誰のものでもない優しさを。

僕は薄くなったバーボンを一口に飲んだ。
グラスの底に映る顔が、最後の氷のように歪んで見えた。

カウンターに岡本のグラスが空っぽで残されている。

僕は自分のグラスを見た。 まだ、少しだけバーボンが残っていた。


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