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心の形(心的構造論)に決着をつける

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フロイトはイド・自我・超自我という三つのものから心の構造ができているという説明をしました。好き勝手に自分のやりたいことをやろうとするイドと、社会的に大丈夫なことをしないといけない、と制御をしようとする超自我。そして、自我がその両者を調停し、なんだかんだやっていくという感じの理論です。

これは、一種の物語です。心を言い表そうにも、実際に触って確認することのできない心を正確にうつしだすなんてことはできません。なので、どうしても想像の域を出ない。

ただ、これを、誰もそれは違うんじゃない?と言わなくて済むくらいの心的構造論に繋げられたら面白いと思いました。誰もが自分の心のことを、他者の心のことを上手に想像できるように。


本編


【左:意識(見ているわたし)  /  右:無意識(記憶と遺伝子)】
左上の景色は、「(わたしに)見られているせかい」
(外)見られている世界⇢体【見ているわたし】心⇠記憶⇠遺伝子(内)

まず、人が外界と関わるときに、だいたい心は生じています。

見られているせかいがあって、そしてそれを見ているわたしがいる。
その間にあるのは、わたしの「からだ」であり、「こころ」でもあります。

意識が生まれるのは、この外界と内界のあいだの部分です。

具体的には、眼の感覚器官を通して外界の情報を得て、それが神経伝達を通じて脳まで伝わります。その際に、脳からのトップダウン(もともと持っている知識や記憶を活用し、見たものを理解する認知機能)での判断もすることで、わたしたちが見ているもの、考えていることが成り立っています。

皮膚や耳、鼻でも同様にして外界を感じ取っています。

ところで、この外界を感じ取るためのボトムアップの「知覚」の機能と、それを高次の機能で判断しようとする「認知」の過程では、膨大な数の神経細胞が超高速で処理を行なっているので、上から下に、下から上に、あっちに行ったと思ったらまたこっちとも連携して、みたいな感じで記憶にもアクセスしながら情報処理をこなせています。

記憶は脳に貯蔵されているわけなんですけれども、短期記憶が海馬で処理され、それが大脳に送られています。今まで学習(記憶に蓄える)をしてきた経験やエピソード、繰り返し勉強して覚えた単語などは、長期記憶になるときには海馬から大脳へ移動しています。

身体的な動きの記憶について、運動技能などは海馬を介さず小脳の表面で短期記憶となり、小脳の中心に送られて長期記憶となります。

このようにして、記憶は脳にあるんですね。

そして、今この瞬間「見ているわたし」と「見られているせかい」が、五感(からだ)という接続点を介して繋がっていて、

その外部から受け取った情報と、もともと内側にあった情報とを参照しながら、今この瞬間の意識の体験やわたしたちの目の前に現れている表象ができあがっているわけです。

この外界と内界のあいだに、「見ているわたし」の意識の体験があるということです。


それでは、もう少しわたしたちの内側にもぐって、どんな内的世界が広がっているのか見てみたいと思います。

まず、さきほど言ったように記憶がわたしを形作っています。

フロイトは、「超自我」に親からしつけられてきた習慣や学校・職場で人と交流しながら身に着けてきた社会性が備わると言いました。

ある意味、わたしたちの中に内在化している、過去の記憶というのはこれと似たようなものです。長い間かけて備わってきた無意識の記憶は、今この瞬間のわたしの行動に関わっています。今この瞬間起こっていることを受けてわたしがどんなふうに感じるのかということにも、無意識の記憶が関わっています。

ただ、フロイトは頑張ったら思い出せる記憶は、前意識というところにあると言いました。無意識からスーッと引っ張り出してこれそうなものは、少し手前側にしまわれているんですね。

「見ているわたし」が「見られているせかい」を理解しようとして、脳からのトップダウンで記憶と照合しようとするときには、この引っ張り出せそうなところにある記憶が利用されています。また、すぐにアクセスできないような深いふかーいところにある記憶は、当然思い出せなくなっているんですが、フロイトはここを引き出そうと頑張った人です。

今まで見てきた「記憶」は、わたしたちが後天的に備えてきた情報でした。

次に、わたしたちが先天的に生まれ持った「遺伝子」について考えてみたいと思います。これは、わたしたちのからだやこころがどのようにできているのか分かる、設計図のようなものです。

生まれつき持っている、わたしたちの個人個人の特徴です。わたしという人が、どんな人であるのかというのが、生まれつきある程度決まっているのがこの「遺伝子」からの情報です。

たいてい、どんなものが好きなのか、何を美しいと思うのか、どんなものに対してやる気(内発的動機)を感じるのかというのはこの「生まれつきの素質」に依存する部分が大きいです。そこに、今までしてきた経験が積み重なって、今の自分の価値観ができあがっています。

ほとんど生まれてから変わらないものとして、自分のおおまかな好みであるとか、「これとは相入れないな」というものがあると思います。

この生まれつき持っているこころの性質のようなものについて、ユングはそこに法則性がありそうだと考え、人間に共通している無意識ってなんなんだろうね、ということを研究していました。

この、生まれつきのわたしたちの心の特性のようなところから、普段生活するためのエネルギーが生まれています。

なので、「心のおもむく方へ」、生まれもった自分の好き嫌いの肌感覚を信じて進もうと私は考えています。

わたしたちが気持ちよく何かを行なっていくためのエネルギー源なので、この自分自身の感覚というものは最重要です。

フロイトの言うイドがここにあたるかもしれません。フロイトは、これが過度に超自我に抑圧された状態を、病的な状態だと考えました。あのときこうしたかった、本当はこうしたい、だけどできないという奥底にある「心の葛藤」をほどかないといけないと考えたんですね。


ここまで、「見られているせかい」「見ているわたし」「記憶」「遺伝子」について考えてきました。見られているせかいと見ているわたしのあいだに「意識の体験」が生まれています。ここで、記憶を利用して情報処理を行なうことで、わたしたちは何かを感じたり、何かを判断したりすることができています(「知覚」と「認知」)。

そして、記憶は今までの経験・学習が積み重なってきたものであり、頑張れば思い出せるものとなかなか思い出せないものに分かれます。様々なエピソードがインプットされていて、それが集まったものが「わたしという人」なんだと言うこともできます。記憶は、前意識や無意識の層に蓄積されています。

また、わたしたちのこころには生まれつき決まっている部分があります。遺伝子の情報がからだやこころの設計図であり、それが経験を重ねていく根底に敷かれています。わたしたちがどんなふうに物事を感じるのか、どんな性格特性を持っているのか、どんなことが得意になりやすいのか、やる気(内発的動機)をどんなものに対して持てるのか。そんな重要な要素が生まれつき備わっています。


アドラーは、フロイト・ユングと合わせた三人に数えられる偉大な心理学者ですが、

その主張として、人間には大きな力が備わっていると言います。それは、主体的に自己決定をする力です。

人のこころには「知・情・意」がありますが、それぞれ

知=知覚をもととして、それを認識までつくりあげる機能
情=喜怒哀楽や好悪など情的過程を通して物事を感じる機能
意=理性による選択で、決心して実行する能力

とされています。アドラーが言うのは、このうちの「意」です。

「見ているわたし」と言ってきましたが、同時に「せかいに働きかけるわたし」でもあり得るわけです。

このとき、五感で外界を知覚する「ボトムアップ」の動きと合わせて、脳から「トップダウン」で意思決定の信号が送られます。このトップダウンの力、認知の機能が強くはたらくことになります。

理性的というのは、外界を「見ているわたし」がそのまま受け取った情報から、反射的に反応を返すのではなく、脳からのトップダウンを通して自分の意志判断をはさむことを言います。ここでは、フロイトの言う自我・超自我・イドのうちの「自我」が十分に機能を果たす必要があります。現実判断を下す力を、歳を重ねるにしたがって増強していくことが必要です。

また、同様に自身のホンネの気持ち、つまり押さえつけられがちな「やりたいこと」の湧いてくる気持ちを適宜解放することも重要になります。

そのようにして、社会と自分のやりたいこととの折り合いをつけられるようになるのが人間の成長だと言えます。


(外)世界⇢体【見ているわたし】心⇠記憶⇠遺伝子(内)

結論

心的構造論に決着をつけるというタイトルで、ここまで妥当だと思える「こころ」への捉え方について考えてきましたが、

最後に結論を書きたいと思います。

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