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日本人は原爆投下をどの様に振り返るべきか

「広島・長崎両市長、トランプ氏に被爆地訪問要請 原爆投下から80年」
(AFPBB News)


 我々日本人は反省をしなければならない。
 とは言っても、日本がまるでアジア各国に迷惑をかけたかの様な話だとか、日本が南京その他で民間人を大量虐殺したかの様な話だとか、全米でベストセラーになった「アンブロークン」に出てくる様な話だとか、「Bataan Life march」を「Bataan Death march」と呼称するのが間違いでは無いかの様な話だとか、まるで朝鮮半島から女性を拉致して性奴隷にでもしたかの様な話だとか、戦前に日本企業により強制連行され強制労働に従事させられたと主張する朝鮮人への賠償責任があるかの様な話だとか、天皇にも戦争責任があるかの様な話だとかでは無い。

 では、何を?
 一つずつ、つらつらと書いてみよう。


1.敗戦

 先ずは何よりも、大東亜戦争に負けてしまった事を反省しなければならない。
 戦争とは先ず第一に勝たねばならず、その為にはありとあらゆる手段を講じねばならない。米国や英国の保守は、今でも原爆投下や東京大空襲、ドレスデン大空襲といった殺戮を謝罪しておらず、今後も一切頭を下げる必要は無いと言い切っている。我々日本人もその様な認識を持たねばならない。
 戦争において、非戦闘員(子供、女性、老人を含む、全ての戦闘員では無い者)が死ぬ事は往々にして有り得る。悲劇ではあるが、これは戦争の一側面である。
 戦争において何よりも重要なのは、勝つ事である。そして次に重要なのは、自国の被害を最小限に止める事である。その為に必要なのは、例え敵国の非戦闘員を大量虐殺してでも目的を遂げるという確固たる意思である。
 「例え敵国の非戦闘員を大量虐殺してでも」
 これは、「何をしても良い」という事を意味しない。例えば日中戦争開戦直後、支那人が通州事件において行った日本居留人に対する暴挙を肯定するものではない。勝つ上で自国の被害をより少なくする方法があるならば、その手段を取る事に躊躇してはならないという事である。
 我々日本人は敗戦によって多くのものを失った。先ずは負けた事を反省しなければならない。

2.戦争責任

 日本は戦争責任を自覚しなければならない。
 即ち、支那や東南アジア各国の共産化を阻止出来なかったという事である。
 当時、共産主義の脅威と醜悪さを正しく理解出来ていたのは日本民族だけであった。だから防共に立った事の正しさは論を俟たないが、敗戦によってそれが成せなかった点を反省しなければならない。
 当時のルーズベルトからトルーマンに至る米政権はスターリンの傀儡であった。日米開戦はソ連による調略の成果と言える。
 共産主義は強大且つ狡猾で、何でもありである。この様な敵に打ち勝つには必勝を期さねばならない。当時の日本は共産主義者の狡猾さによって国連脱退を決断させられ、真珠湾奇襲攻撃という形で第一撃を撃たされた。
 国連脱退も真珠湾攻撃も日本にとって栄光の記憶であるが、対共産主義の戦況を冷徹に、冷酷に分析するならば、防戦一方である。ここからの逆転が至難であった事は認めざるを得ない。
 当時の対共産主義戦が対ソ連であったならば、現代のそれは対支那である。世界最強の軍隊と世界一の経済力を有する米国との協力は、現代の防共において不可欠である。
 「反米保守」やら「親米保守」なる似非保守主義が日本の片隅に存在するが、米国にはオバマやバイデンといった米共産主義の生き残りも居れば、レーガンやトランプといった保守系も居る。更には、米国人の約半数が保守系を支持している。保守の割合や数で言えば、米国は日本を圧倒している。
 日本が保守に回帰すれば、支那という共通の敵を打倒するという目的の下に、米保守との強固な関係が築ける筈である。そうなれば、双方が左傾化せぬ様に相互監視を行う形にもなる。
 次こそは必ず勝たねばならない。その為には、保守への回帰と他国の保守との協調は必須である。

3.左傾化

 日本は敗戦によって骨抜きにされた。社会主義的な思想を植え付けられ、左傾化した。挙げ句の果てには「日本共産党」などと大手を振って名乗る政党の存在までをも許してしまった。嘗て防共に立った日本がこの様な為体なのであるから、全く笑えないが、これは壮大なギャグである。
 現代の日本人は、日本をこの様な状態にしてしまった事と、改善に着手すら出来ていない事と、最早何をすれば改善と言えるのかすら分かっていない事を反省しなければならない。
 日本がこの様な為体に陥ってしまったのは、戦争に負けて米共産主義に蹂躙されてしまったからである。ここで言う「蹂躙」とは、自虐史観を押し付けられた事、素晴らしい書籍や輝かしい記録の数々を焚書された事、教育勅語を捨てさせられた事、無宗教なる無道を刷り込まれた事、天皇制という制度に対して誤った認識を植え付けられた事である。
 これによって、日本はこれまで連綿と紡いできた歴史と文化を途絶えさせてしまった。完全に途絶えた訳では無いが、阻止せんとする者は確実に減少の一途を辿り、今や風前の灯である。
 防共において最も重要なのは道徳である。道徳は良き宗教が齎すものである。良き宗教が浸透した国や社会には良き文化が築かれているものである。良き文化とは歴史の産物である。
 素晴らしい歴史を紡いできた国や社会には素晴らしい文化が築かれる。支那がああなのは、嘘と誤魔化しと身勝手に塗れた歴史しか持たぬからであり、蛙(※補足①)や酢キャベツ(※補足②)がああなのも同様である。
 そして今現在、日本はその様な国々を笑っていられるのかというと全く違い、同類になり下がろうとしている。まして、嘘吐きと酢キャベツにはGDPで抜かれる始末である。情けない事この上ない。
 日本は敗戦から今までの為体を反省しなければならない。歴史を修正し(※補足③)、文化と信仰を取り戻し、道徳を再生しなければならない。

4.原爆投下

 我々日本人は広島と長崎に原子爆弾を投下された事について反省しなければならない。(念の為に書いておくが、日本は悪い事をしたからとかいうプロパガンダの話では無い。)
 何を?というと、迎撃出来ず投下されてしまった事、敵国における核開発の状況を掴めていなかった事、核武装で先行を許してしまった事、これらを反省すべきという事である。
 言い換えると、原子爆弾は日本が米国やソ連の領土内に投下しなければならなかったのであり、敵国の核開発を妨害しなければならなかったのであり、敵国に先んじて核武装を完了しなければならなかったという事である。
 もしも日本が1944年とかそのくらいの時期に核兵器を保有しておれば、米国からしてみれば原爆投下などしようものなら報復を受けるのは必至である。そうなっては不味いという事で、投下を見合わせたかもしれない。
 それがもしも真珠湾奇襲攻撃前であれば、米国とて開戦を避けたかもしれない。核保有国と正面切って戦争するバカはいない。この奇襲攻撃は前述した通り米国が日本を追い詰めて撃たせたものだが、もしもその相手が核保有国だとしたらどうか。少なくとも追い詰めて追い詰めて第一撃を撃たせるなどという戦術を採る事には躊躇するのではないだろうか。
 極論、日本が支那や東南アジア各国で共産主義と戦っている最中に核武装を完了出来ておれば、国連に加盟したまま防共を成し遂げつつ、日米開戦を避ける事が出来たかもしれない。
 歴史にタラレバは無いが、次同じ様な状況になった時、同じ様な結末を迎えない様にする為の準備は必要である。
 日本は世界で唯一の被爆国であるが、その経験を全く活かせていない。それどころか「核の無い世界を」などと軟弱極まり無い台詞を恥ずかしげも無く口にする。挙げ句の果てには被団協の様な極悪集団の台頭を許し、調子付かせてしまっている。
 この様な為体を反省しなければならない。

 反核を叫ぶのは良い。
 だが、それには条件がある。
 それは、「日本が核保有国である事」と、「最後に核を捨てるのは日本」という立場を固辞する事である。そうしなければ、日本人が三たび被爆するかもしれないからである。
 我々は反省しなければならない。
 大東亜戦争に負けてしまった事。それによって多くの同胞を死なせると共に防共を成せなかった事。社会主義に堕し、共産主義すら受け入れつつある事。核開発で先行された挙句、核攻撃を許してしまった事。
 これらを反省しなければならない。


※補足①:蛙(=フランスの事)

 暴力革命と王族虐殺を賛美するのがフランスという国の本性である。しかも風呂に入らないので臭い。そんなだから第二次世界大戦では碌な防衛も出来ぬままクソミソに踏み躙られ、パリ五輪開会式であの様な醜態を晒すのである。

※補足②:酢キャベツ(=ドイツの事)

 コイツらが第二次上海事変で蒋介石率いる国民党に付きながら、知らん顔して日独防共協定に応じてきた過去を忘れてはならない。ホロコーストをやらかしたドイツと世界一人道的な戦い方を見せた日本。えらい違いである。
 現在そのドイツでは製造業が次々と逃げ出し、しまいには一時期トヨタと張る感じすら出していたフォルクスワーゲンまでもが逃げようとしている。この程度という事である。

※補足③:歴史

 歴史は修正せねばならないが、あるべき歴史を外国人に理解してもらえるかどうかは重要では無い。
 我々日本人自身が、日本という国が紡いできた歴史の正当性と崇高さを理解しており、外国人になんやかんや言われた際において、毅然とそれを主張出来るかどうかが重要なのである。
 我々の歴史観が多少気に食わなくても、利害が一致するところで協力し合えるならそうすれば良い。
 我々の歴史観を受け入れられないならば関わりを絶てば良い。どうせその様な者共に譲歩したところで、メリットよりもデメリットの方が大きいからである。
 我々の歴史観とは真逆の主張をし、「賠償しろ」などと言ってくる相手に対してはどうするか。それは最早敵である。関わらない様にし、近づいてきたら駆逐しなければならない。
 国際社会とは、暴力とプロパガンダがモノを言う無法地帯である。その様な世界の中で、個人の資産と自由を守るのが「国家」の存在意義である。日本人の資産と自由を守ってくれるのは日本を置いて他には無い。
 歴史とは、国が歩んできた道そのものである。日本人が日本の歴史を否定するならば、それは日本という国を否定する事に等しい。日本人が日本を否定するならば、それは自らの資産と自由を守ってくれる存在を否定するのと同義である。


※編集後、追記:原爆投下と非戦闘員の殺戮

 日本はロシアに北方領土を不法占拠されている。これを取り戻さないという選択は有り得ないが、今のままいくら交渉しても返還される事は無い。だから、ロシアを3回消滅させられる程度の武力を背景として交渉するか、それを実際に行使するしかない。
 行使するとなると、ユジノサハリンスク市やコルサコフ市などに居住するロシア人を殺戮せざるを得ない可能性が高い。その際に躊躇してはならない。
 上陸しての掃討戦を行う際、いちいち戦闘員と非戦闘員を区別していたら、日本側の兵士の危険が増す。なので、区別せずに即射殺を徹底させる事が人道的にも道徳的にも最も正しい。
 ヒロシマやナガサキを人道上の観点から非難するのは良いが、上述した様な理由まで否定してはいけない。すれば、将来の我々自身が行う戦闘において、矛盾を生じさせてしまうからである。

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