フランス現代思想の黄金時代は終った?
哲学は文系の数学であり、普遍を追求するもの。すなわち、地球上のどこであっても通用する思考を目指す。ただし、それであってなお、哲学を極めるそのスタイルにはお国柄(文化に由来する考え方の癖)もまたにじむ。とうぜんフランス哲学にもまた、どくとくの性格がある。そこには血なまぐさい革命を経て、紆余曲折をかいくぐり、共和政にいたったフランスらしい自由、平等、友愛をめぐる定義の刷新、思想の闘争がある。
フランスという国は不思議だ。ルノーやプジョー、はたまた投資会社ソシエテ・ジェネラル、電気とガスの供給会社エンジーも有名ではある。しかし同時にマティスとピカソを貸し出すだけで寝ていてもおカネがちゃりんちゃりんと入って来る。そのほか外貨を稼ぐのはワイン、美食、香水、オートクチュール。そして文学、映画、哲学が続く。哲学ですよ、哲学。フランスはつねに時代のスター哲学者を生み出してきました。
なにしろフランスは毎年6月おこなわれる大学入試資格(バカロレア)において、18歳の少年少女に哲学の実践能力を要求します。問われる問題はたとえば、正義、無意識、意識、自由、自然、時間、真実、幸福、義務、サイエンス・・・。具体的には、「科学はわたしたちの真理への欲求を満たすことができるでしょうか?」などと問われるのである。受験生は「知るか、そんなもん!」などと叫ぶわけにはゆきません。4時間かけて小論文を仕上げなければなりません。自分勝手な作文を書いたところで合格はできません。過去の哲学知をあるていど身に着けていないことにはふさわしく論じることはできません。攻略マニュアルも出版されているとはいえ、これはそうとうハードです。
もっとも、フランスの教育は人文科学~社会科学を重んじるあまり、自然科学の教育が弱いという批判もあります。(ホメオパシーを信じるフランス人をイメージしてください。)しかも、この英語の世紀において、フランス人はきわめてローカルなフランス語への愛着をひじょうに大事にすることもまた、フランスのガラパゴス化を促進しているという見方もあります。
いずれにせよ、日本にもフランス文化のファンは多い。なるほど、日本の大東亜戦争敗戦後は、GHQによって日本の国体が破壊され、ジャズが大流行したものの、同時に他方で(事実上敗戦国に近い)フランスの哲学、小説、シャンソン、映画もまた流行ったもの。サルトル全集の日本語訳は1950年に開始され、フランス以上に売れたもの。カミュが読まれ、同列に並べてはいけないにせよサガンがまた愛された。ダミアのシャンソンもまた。映画はゴダール、トリュフォー、時差をともなったもののロメールが流行ったものだ。
その流れはけっして戦後にとどまることなく、いわゆるヌーヴォー・ロマン(新小説)と呼ばれもするほとんどが Les Éditions de Minuitが1957年から売りだした、サミュエル・ベケット、アラン・ロブ・グリエ、ナタリー・サロート、ミシェル・ビュートル、マルグリット・デュラス、クロード・シモン、ル・クレジオらの前衛小説が次から次に日本語訳出版されたもの。事実上の敗戦がフランス人の精神をいかに困難に至らしめたかが痛ましいほどよくわかります。
また、文化人類学者レヴィ・ストロースは、サルトルに替わって知のスターになった。もちろん後年日本でも翻訳全集が刊行されています。もともとアカデミズムにおける文化人類学は、国家が成す植民地政策~敵国研究に資するものとして生まれた。(たとえばルース・ベネディクト『菊と刀』に明快なように。)ところが、レヴィ・ストロースにおいて文化人類学は西洋中心主義を徹底的に相対化するものとして機能しています。
ヌーヴォー・ロマンをどう見るか、そこにはいくつもの視点がありますが、ひとつ重要なことは、近代国家の成立と軸をひとつにした近代文学(=国民文学)とは、まったく異なった位相に文学が移行したこと。
ヌーヴォー・ロマンに先だって、まずカミュがフランス領アルジェリア出身で、『異邦人』は対独戦争がはじまったことへの焦燥によって早急に書かれていますね。「Aujourd'hui, maman est morte.(きょうママンが死んだ。)」、そのママンとはフランスのこと。サルトルもまたフランスの公共施設にドイツ国旗がはためく屈辱の時代に、書くこと=出版することをはじめています。
後続する戦後フランス文学ヌーヴォー・ロマンもまた対独戦争によってフランス人の精神が崩壊寸前まで追い込まれていったさまざまな症例が(ブランショをはじめ)現れていて。また、デュラスが仏領ヴェトナム出身で、クレジオはニース生まれとはいえ8歳以降ナイジェリアで育っていることも重要です。もちろんこの図式から外れる重要な作家たちも多いけれど。
さらにはいわゆる1968年の思想を準備したと言われもする闘争する人文系学者が登場する。時代の知のスターはミシェル・フーコーで、かれは自己というものが(地層のように累積された)過去の言説によって形成されると理解したこと。はやいはなしが、個人(主体)の自立なんてものたかだかフランス革命以降に構成されたものにすぎない、と見なした。ここで言説の系譜学とともに活用されるのがラカンを経由したフロイトで、人間の行動は意識ではなくむしろ無意識に支配されているというわけ。こうしてフーコーの言説のなかでは、近代の発明であるところの人間中心主義、その基軸になる人間の主体性はあっちからもこっちからも攻撃され、遂に人間という概念は死にいたる!「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」ー『言葉と物』(1966)。余談ながらこの一節には、ジュリエット・グレコやイヴ・モンタンが歌った『枯葉』の反映がある。「海は、砂の上の別れた二人の足跡を消していくだろう」。なお、ぼくはこれについて木下長宏さんの指摘に教えられた。(余談ながら、木下さんはその後フランス現代思想から離れ、アジアの視点を導入した独自の思索をつづけてゆかれます。)それにしても、フーコーは人間中心主義を相対化し、制度によって弱者に貶められた者たちを擁護し、近代を克服せよ、というアジテーションとともに解放神学を語る! なんというアクロバティックな戦略でしょう! しかも、フーコーはこの時期すでにフランス・アカデミズムの頂点、コレージュ・ド・フランスの教授です。
同様にフーコーは『狂気の歴史』(1961)において、人類が精神疾患をどのように扱ってきたのか、その制度的変遷を、時代の思想、言説の変遷、制度(医学、精神病院、刑務所、法)を交差させながら、近代批判の遡上に乗せた。あけすけに言えば、そこには「おれは狂人じゃない。狂っているのは近代の方だ」という告発である。
また、『性の歴史』全4巻(未完)では、セクシュアリティについて、制度は人の性的ファンタズムさえも結婚‐家族に合致するように方向づける。しかし、新しい生活様式は他にもあるはずだ。こうしてフーコーは(古代ギリシアはバイセクシュアルの楽園だった、と妄想し)ゲイとしての性を擁護賞揚するに至る。
とうぜんフーコーのこうした左翼思想は学生運動の闘士たちにも労働運動に参加する者たちにも熱狂的に支持された。スターリニズムという破滅への道を否定すしつつなお、左翼運動の新しい形を示した。もっとも、こうしたフーコーの主張は(とうぜんながら)功罪あい半ばではあって。フーコーは一見厖大な資料を使って緻密に論証しているように見えるものの、しかしフーコーは厳密な意味では歴史家でなく、むしろ歴史資料を活用して、近現代の制度による抑圧を打破する解放神学の担い手である。かれの功罪はここに由来する。フーコーはデータの使い方が恣意的であることもまた多く指摘されています。たとえば『狂気の歴史』のアホ船に関する資料は存在しないのではないかと言われてもいます。また、バイセクシュアルの楽園を見るならば、古代ギリシアではなく、むしろ日本の江戸時代の方がいくらかなりともふさわしい。さらに言えば、フーコー流の歴史の読み直し(=書き換え)にしても、フーコーに直接の関係はないにせよ、近年のアメリカにおけるブラック・ライヴス・マターに勇気づけられた大胆な歴史の書き直しを全面的に肯定することはいくらなんでも難しい。さいわいフーコーはとっくに死んでいるのだけれど。ただし、にもかかわらず、フーコーの功罪のいずれか一方だけを熱弁するのは公平ではない。
ジャック・ラカンはフロイトを継承した。かれは考える、人は誰も生まれ落ちた瞬間から両親をはじめとした他者の言語にさらされながら、頼りなく人生をはじめる。したがって、その人の無意識とは、他者のディスクールによって構成されてゆく。同時に、〈無意識は言語のように構造化されている。〉したがって、自動連想によってその人の無意識を引きずり出すことによって、その人ははじめて自分自身を知り、はじめて自分自身の主人になることができる。なるほど、これは魅力的な考えではある。フィリップ・ソレルスはラカンの授業を熱心に受講した。ドルーズ&ガタリもラカンに影響され、その後最大の批判者になった。
ジル・ドゥーズとフェリックス・ガタリは『アンチ・オイディプス』(1972)なる空前絶後に荒唐無稽な本を書いた。ジル・ドゥルーズは哲学史を学んだ哲学徒、他方、フェリックス・ガタリはマルキストであり、かつまた反精神分析を支持する精神分析家で、他に類を見ない、自由な発想で運営されたラボルト精神病院に勤務し、日々精神疾患の患者たちの自立に向けて取り組んでいた。(これについては、フランソワ・ドス著『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』杉村昌昭訳 河出書房新社刊2009年にくわしい。)そしてこの本『アンチ・オイディプス』はドゥルーズ47歳、ガタリ42歳の仕事である。ふたりは共闘し、(アクロバティックにも!)資本主義と分裂病(=統合失調症)のあいだには強い相関があると見なし、まず最初に精神分析を批判する。すなわち、精神分析はほんらいヒトの欲望(リビドー)は多方向的であるにもかかわらず、しかし精神分析学は、オイディプスを召喚し、ヒトの欲望を〈パパ-ママ/ぼく〉〈パパ‐ママ/あたし〉の家父長制家族の閉域に閉じ込める。かれらはこれを詐欺的と見なし、この閉域からの解放を呼びかけ、しかもリビドーをキャッシュフローと同様の運動と見なした。かれらもまた解放神学をとなえる。
かれらの書き方はまさにかれら自身が名づけたPop philosophie (ポップ哲学)の登場だった。なお、この本はとうぜんのことながらラカンを激怒させた。
ドゥルーズ&ガタリは後続する『千のプラトー 資本主義と分裂病』(1980)でもって、自分たちの主張を解説し、リフレインしつつ、さらにいっそう踏み込んだ論を展開した。なお、ふたりの共同執筆はこの本が最後になった。後にまとめられた”Qu' est-ce que la philosophie? 哲学とは何か” 財津理訳、河出文庫)を別として。その後もふたりの友情は続くものの、しかし80年代後半以降のガタリは鬱のなかに沈潜してゆく。(これについても、フランソワ・ドス著『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』杉村昌昭訳 河出書房新社刊2009年にくわしい。)
フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人ジャック・デリダは、わたしとは誰か、という疑問に生涯さいなまれながら、差延(différance)を指摘し、あらゆる語の同一律を否定してまわる。なるほど、デリダは「ユダヤ人」、「アルジェリア出身」、「フランス人」、「哲学者」と複数の帰属先を持ちながらも、しかし、どのカテゴリーに対してもけっして完全には属することができない。
なお、アルジェリアに限らず植民地~被植民者の言語は、まず最初に宗主国の言語によって抑圧され、結果、その言語運用~言語環境は二重言語化され、ともすればやぶれかぶれなものになる。デリダの言語学を軸にした近代批判は、デリダの出自に由来しているとおもわずにはいられない。
デリダは911を経た2003年の著書『Voyous: deux essais sur la raison(ならず者たちー理性についてのふたつのエッセイ)』のなかで、デモクラシーがデモクラシーによって自己免疫疾患に陥りかねない危うさを抱え込んでいることを指摘した。なお、脱構築という(一世風靡した)方法概念はデリダによるもの。
ミシェル・セールは博覧強記を活かし、エッセイのかたちで人文知と科学知を繋げた。
ロラン・バルトは、記号論の可能性を全面的に拡張し、読むこと、モードの記述、写真論、恋愛について論じ、哲学知の範囲を大きく広げた。
以上のように、誰もが哲学とはなにか、あらためて問い、既存の知の枠組を破壊し、新たなそれを哲学者それぞれが創造せんと闘った。その戦闘性にはすさまじいものがあった。
しかも、1973年以降フランスでは、アカデミズムのなかで、映画学(Film Studies=études cinématographiques)が研究されるようになった。(なお、蓮實重彦さんによる映画批評および映画というメディアに対する原理的考察は、この流れと並行しています。)
なお、かれらの仕事が日本の1980年代の流行思想ニュー・アカデミズムのベースになった。当時若き浅田彰さんは『構造と力』(1983)を上梓した。(サッチャーとレーガンの時代、左翼運動が弱体化してゆくなか、それこそミネルバのふくろうは夕暮れに飛び立つと言うべきか?)こうして日本にもフランス現代思想は流入した。なお、浅田さんはフランス語が超絶的にできる人ながら、後年ドゥルーズが言うところのRhizome(リゾーム)の概念理解が粗いという批判にさらされつつも、それであってなお、『構造と力』はあの時代の見晴らしのいい知のガイドブックとして機能したもの。またあの時期、浅田さんはガタリを日本に招き、その後のガタリの日本贔屓のきっかけも作った。ガタリにとって辛い時期をさぞや励ましたことでしょう。あれから幾星霜ではある。
先週たまたま古本屋で(創造性に富んだ異端の編集者であり暴れん坊のエクリヴァン)フィリップ・ソレルス(1936-2023)の『女たち』と『本当の小説 回想録』を見つけ買い求めて読んでみたところ、あ、フランス人の書き手たちはみんなお友達で、みなさん自著を贈り合ったりして社交があったのね。前述のソレルスの2著は、性の乱脈自慢が嫌らしいものの、それであってなおフランス文壇の(いまは失われてしまった)ある時代を記述したものとも言える。
なお、ソレルスは雑誌 Tel Quel (1960‐1982 版元はガリマール)の編集委員のひとりで、サブ・タイトルは何度か変更の後に「文学/哲学/芸術/科学/政治」、各号の特集はアルトー、バタイユ、ポンジュ、ハイデガー、ヘルダーリン、ダンテ、パウンド、ボルヘス、バルト、クロソウスキー、リルケ、ミショー、サロート、ソシュール、フーコー、デリダ、ヤコブソン、ジョイス、サド、ジュネ、ニーダム、フィリップ・ロス、クリステヴァ・・・。フィリップ・ソレルスがいかに挑発的な編集者であったかよくわかる。なお、ソレルスの奥様はクリステヴァである。
あの時代の終わりは、ロラン・バルトが1980年3月末、ミッテラン大統領との会食の後、エコール通りの横断歩道でクルマにはねられ頭部に外傷を負ってピティエ=サルペトリエール病院で亡くなったことにはじまった。享年64歳。続いて1981年9月、ラカンが大腸癌で他界した。享年80歳。さらには1984年5月末フーコーがエイズで命を落とした。享年57歳。
1989年にベルリンの壁が壊され、1991年ソヴィエト連邦が解散した。いわゆるフランス現代思想は基本的に左翼思想ゆえ、かれらは思想の基盤を失った。
ドゥルーズの最後のひとつまえの著作は、長年の共著者、精神分析家フェリックス・ガタリとの”Qu' est-ce que la philosophie? (哲学とは何か)”である。この作品は4年後に死を控えたドゥルーズ66歳による、自分の思考の軌跡についての解説であり、遺書と言ってもいいでしょう。共著者のガタリは1992年8月末急性心筋梗塞で亡くなった。享年62歳。ドゥルーズはその二年後、1995年11月4日、17区ニエル通りのアパルトマンの窓から身を投げた。享年70歳。デリダは2004年10月膵臓癌でこの世を後にした。享年74歳。そんななかフィリップ・ソレルスは生き残り、あの時代の証人となった。しかし、そのソレルスもまた2023年5月5日、86歳で死んでしまった。いまや残されたのはジュリア・クリステヴァ(b.1941-)ただひとりとなった。
それにしてもフランスのあの小難しい戦後文学、現代思想の全貌をおおよそ日本語訳で読めたということにも驚かされる。対照的に、いまフランスの存命中の書き手は誰だろう? スロベニア生まれながら、ジャック・ラカンの娘婿でもあるスラヴォイ・ジジェク(b.1949-)の他に誰がいるかしらん? 外国文学~哲学の翻訳が激減していることもあれば、またおそらくぼくがフランスアカデミズムの現在を知らないだけなのかもしれないけれど、いずれにせよ、フランスの時代思潮は大きく変わった。
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