あのカフカの小説じみた戦争に人間の全てがつまっていた。
ベトナム出身の禅僧 Thích Nhất Hạnh ティック・ナット・ハン(1926年~2022年)は、平和と人権の運動家だ。
Engaged Buddhism 社会参画仏教の命名者で。アメリカやフランスで、仏教とマインド・フルネスの普及活動も行った。
お弟子さんたち以外からも Thầy(意味は先生)と呼ばれていたそうなので、私も「先生」と書かせていただくことにする。
先生の言葉をいくつか聞いてみよう。
「私たちは、平和とは戦争がないことだと考え、大国が兵器の保有量を減らせば平和がおとずれると考える。しかし、たとえ全ての爆弾を月に運んだとしても、戦争の根源ーー偏見・恐怖・無知ーーは私たちの心の中にまだ存在し。遅かれ早かれ、私たちは新しい爆弾をつくることになるだろう。平和のために働くこととは、私たち自身の心から戦争を根絶することである。何百万もの人々に、心の中で昼夜を問わず殺人を練習する機会を与えることは、何百万もの怒り・恐怖・欲求不満・暴力の種を植えることだ。そして、それは次の世代に受け継がれてしまう」
「通常、何か新しいことを聞いたり読んだりする時。私たちはそれを自分の考えと比較するだけだ。同じであれば、正しいと言い受け入れる。そうでなければ、間違っていると言い拒絶する。どちらの場合も、私たちは何も学んでいない」
「敵が苦しんでいることに気づきはじめると、それが洞察のはじまりである」
「こんなにも悲しみに満ちている時に、笑うことなどできないと。そう思うだろう。けれども、あなたは悲しみ以上の存在なのだ」
「思いやりは動詞」
「平和への道など存在しない。平和こそが道である。それが私の信念だ」
先生の生きた時代に先生の国で、何が起こったのか。写真から、まずは見ていこう。
1973年にピュリッツァー賞を受賞した写真だが。誤解を恐れずに言うと、この写真は衝撃的な一瞬をとらえたものではない。当時のベトナムの日常をとらえたものだ。
米軍のナパーム弾攻撃から逃げる少女。彼女が全裸なのは、炎に衣服を奪われたからだ。ボーイッシュな髪型に見えるのは、炎に奪われたのが衣服だけではなかったからだ。
助けようとした兄にも火がうつり、すぐそばで弟が炎に包まれていた(おそらく、この子は亡くなった)。『ファイアパンチ』かという悲惨な光景だが、現実だ。直前まで雨が降っていたそう。やんだところを見はからって、攻撃したのだろうか。
少女は報道陣に「体に水をかけるんじゃなくて水を飲みたい」と言い、飲んでから意識を失った。
撮影者は彼女を病院へ運んだ。
うちはもういっぱいいっぱいだ。他をあたってくれ。
他でもそう言われて、ここへ来たんだ。頼む!この子を診てやってくれ。
そう言われても、無理なものは無理……
病院も本当に大変だったのだろう。
今日ある写真を撮った。それにはこの子が写っている。僕は必ず世界中からインタビューを受けることになる。彼女は今無事ですかと聞かれるだろうよ。
医者をなかば脅すようにして、治療を求めた。
(事実だが。会話には私の想像をやや含んでいる)
写真家のウトさんは、AP通信東京支局に勤務していたこともある。フックさんは一命をとり留めた。
日本でも「ナパームの少女」の方が有名なようだが。日本人も、1965年にベトナム戦争の写真でピュリッツァー賞をとっている。報道写真家の沢田さんだ。ベトナムで車の運転中に何者かに銃撃され、1970年に亡くなった。
後に、フックさんは自身の体験を本にした。戦争の犠牲になった子どもたちを支援する慈善団体を設立した。国連親善大使に任命された。フランシスコ教皇に写真のコピーを贈呈した。(彼女はキリスト教徒)
「子どもの頃は、この写真を恥ずかしく思ったこともあった。大人になり、私の考えは変わった。この写真で誰かを助けることができるとわかるようになったからだ」
それでも、爆弾が落ちてきた時の「ブッブッブッブッ」という音を忘れることはできないという。そんな音がするんだ……。
1965年の写真。「ベトコン」のキャンプを攻撃する地上部隊を援護するために、米軍ヘリが森林に向かって射撃している。
U.S. war planners switched to the carpet bombing ……
ナパーム弾。投下すれば、2000~2500㎡が800℃以上の火の海と化す。森に隠れた敵を倒せるだけでなく、敵が隠れる森も減らせると。
その特徴をよく表した証言に、「焼夷弾が炸裂し その破片が火の玉となって 両側の建物にガムのようにくっついた」というのがある。
ベトナムは地形も変わるほどの焦土となった。
歴史的にベトナムには、北部・中部・南部に別々の王朝があった。
北部:中国の領土だった期間も中国と同化せず、インド文明もほぼ需要しなかった。
中部:チャム人のチャンパ王国だった。
南部:カンボジアの起源であるクメールの影響を受けていた。
現在。ベトナム人の9割近くがキン族で。残りがキン族以外の民族だ。その数53。キン族の起源は中国南部だと言われているが、定かではない。モン族からわかれたという説もある。
ミーソン聖域(中部の文明によるもの)は戦争中に基地として使われ、攻撃を受けたことがあるという。
人の命が失われることはもちろんだが、貴重な建造物が破壊されたり古い書物が燃やされたりするのも、人類全体の損失だ。全壊しなくて本当によかった。
1858年~1862年。フランスとスペインの海軍がベトナムに対して軍事作戦を行い、ベトナム(全土)はフランスに占領された。ラオスもカンボジアもフランスの植民地になっていた。
「全部フランス」はすごくつまらないよ。
フランス植民地政府が政治犯と判断した人々を収容する刑務所が、ベトナム各地に存在した。
200人を1部屋におしこめる房・横になって寝ることができない房・感染症にかかった人らをまとめて拘束する房・屋根のない房(野ざらし式)などがあった。
囚人たちは、足かせをされ・拷問を受け・強制労働をさせられていた。数万人が処刑された。もっと長いスパンでカウントしたら、数十万。
囚人たちが天井の鉄格子の隙間から棒でつつかれていた房は、後に「トラの檻」と呼ばれた。(猛獣をしつけるようなやり方という意味で、雑誌『LIFE』がそう非難した)
フランスがドイツに占領された時は、日本軍がベトナムへの侵攻をはかった。日本は当然、1945年頃(終戦頃)には手を引いていたが。
第二次世界大戦後、北ベトナムでホー・チ・ミンが独立運動を展開した。南ベトナムからフランス勢がそれに対抗した。インドシナ戦争(1946年~1954年)だ。
ホーに関しては後で改めて書く。
インドシナ戦争を終結させるためにスイスで開かれた会談で、休戦協定が合意された。(ジュネーブ協定)
・ベトナムとラオスとカンボジアの独立を尊重すること。
・北ベトナム軍は南ベトナムから撤退すること。フランス軍は北ベトナムとラオスとカンボジアから撤退すること。南北の境は北緯17度線とすること。
・1956年に自由選挙を行い、ベトナムは南北統一をはかること。
前述したように、古代から南北のベトナムは別々の存在だったのだが。この協定は結果的に、南北の溝をさらに深めてしまった。
北ベトナムは統一選挙を実施しなかった。南ベトナムもそもそも選挙を拒否していた。北ベトナムはベトナム民主共和国と名乗り、南ベトナムはベトナム共和国と名乗った。
南の状況は、フランスの傀儡政権がアメリカの傀儡政権にかわったようなものだった。
当時のリーダーが米国政府と「握手した」ため。
前述した政治犯とみなした人々を収容する刑務所(ベトナム全域)も、フランス管理下からアメリカ管理下に変わっただけであったし。
Ngô Ðình Diệm ゴ・ディン・ジエム(1901年~1963年)
捏造された疑いが濃厚な選挙で南(ベトナム共和国)のリーダーになったジエムは、自分の一族を政権に登用した。仏教徒を弾圧するカトリック教徒だった。彼も反政府因子と判断した者たちを投獄した。すさまじい人数だったため、無理やりな理屈で捕らえていたに決まっている。
ジエムは「反共産主義者」だった。この場合、こんな記号にはなんの意味もない。反政府因子と判断した者を処刑する「キリスト教徒」にもだ。
それは、この世界の法則的な調和の中に姿を現す神であり、人類の運命や行動に関心をもつ神ではない。私の言葉じゃない。こう言ったのはアインシュタインだ。Spinoza’s God だよ。
私は、人類も法則を超越してまではいないだろーー細胞1つから感情や行動にいたるまで、と考えるから。集団心理とかね。よって、神は人類の目前にも姿を現す。
私の考えは、タチコマの言う神が(たとえば)ショーシャンクの結末を生む・それが人類全体にかなり適応される。という感じだから。
最後には、ジエムは誰からも見はなされていたという。
クーデターが起きて殺されたのだが。事前に情報を入手していた米政府が、彼にそれを伝えなかったという説がある。いや、米政府が暗殺を主導したという説もある。
これの発刊はジエムが南のリーダーになった年だ。
背景に、花・戦火らしきもの・破れる南の旗。一部の記者やカメラマンは、現地で生の情報を得ていただろう。ベトナム人の不安を絵にしたものがこれだったのかなと。ニュアンス的に。
今度は米軍が南に加担することをともない、南北が争った。
米国は、介入の理由に、アジアの共産化を阻止することをあげていた。プラス、トンキン湾事件もあったからと主張していたが。後々、あれは米政府の仕込みだったなどと騒ぎになった。
北にとって南は、圧倒的な戦力を有する強敵に一変したわけだが。それでも、北は南に一定のダメージを与え続けた。村々を拠点とし、村人から物資の調達(略奪もしただろう)と徴兵をしながら。
白人でもベトナム人でも捕虜を虐待したという。スパイ容疑のかかった者から反抗的だとみなした者まで、民間人を処刑していたとも言われている。北は無差別爆弾テロも行っていた。
北(ベトナム民主共和国)の初代首席、ホー・チ・ミンの本名は、Nguyễn Tất Thành グエン・タト・タインだ。幼名はまた別だけど。
彼に対する評価は二分している。たとえばベトナム系アメリカ人の多くは、「ベトナムを武力によって共産化した首謀者」と見ていると思う。彼ら彼女らは、南ベトナムからの難民とその子孫だ。
ホーはインドシナ戦争に深く関わっていたが、ベトナム戦争にそこまで関わっていたとは言いがたい。彼は1969年に79才で亡くなっている(ジエムも1963年に亡くなっている)。米国が魚雷を撃たれたと言って介入し出したのが、1964年だ。74才から死ぬまでの数年に、積極的かつ直接的に戦闘に関与していたと?
血気盛んな若い兵士らが老人の話をそんな聞くか、という話で。死んでからは違う。故人はいろいろと「使える」からね。シンボルだとかイデオロギーだとかに、かかげやすい人物なら。
ナチズムは、ダーウィンの適者生存や生存競争の概念を故意に誤読したし。
純粋じゃない人らって純粋な人を使うんだよ。前者は群れで名無しだから無傷で、後者は有名だから代表的にぐちゃぐちゃ言われる。死人に口なしも悔しいだろうが。生きている間に四方八方からそれをやられたダーウィンは、本当にかわいそうだった。
ホーは、生涯で、中国語とフランス語と英語を学んだ。はじめてフランスをおとずれた時。フランスにも身分の差があり、貧困に苦しむ人がいることを知った。心やさしいフランス人がいることも知った。植民地学校で学んでみようと願書を出したが、拒絶され。船乗りとして働きながら、世界を見てまわった。
ベトナムに戻り政治に関わるようになってから彼が申し立てたのは、“政治犯” の釈放・報道と言論の自由の保障・結社と集会の自由の保障など、ベトナム人にもフランス人と同等の権利をを要求する内容だった。
レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』に感銘を受け、ソ連をおとずれた。彼が共産主義者になったのは、この流れでだ。
「全世界規模での労農同盟の原則の拡大」では、十中八九、うまくいかないけれどね。
彼が主導した北ベトナムの法(1946年制定)には、共産党組織による国家の指導規定は見られず。人権規定や私有財産権について、フランスやアメリカの憲法を参照したと推測される内容が見られた。
ホー・チ・ミンだって恋をしたらしい。
リーダーの考えがそのようであったため、北ベトナムでは、都市部の人口が減って農村部の人口が増えた。
南ベトナムでは、逆に、都市部の人口が増えて農村部の人口が減った。何かしらアメリカの恩恵を受けれる?そんな期待を抱いた人がいたのかも。
農村部からやってきた老若男女が食べていけるほど、仕事は存在しなかった。男性は靴みがき。でなければ乞食。女性はピーナッツ売り。でなければ乞食。米国が生活を援助していた。
北爆(米軍の北への直接攻撃)が恒常化し。20万人の米軍人が投入され。数年後にはそれが50万人以上になり。もはやベトナム全土が戦場になった。一部の米国要人が核攻撃の主張さえし出した。
結局、約270万人だって。ベトナムの面積は日本の4/5しかないのに。
Alfa Bravo Charlie Delta Echo Kilo Victor …… Việt Cộng(ベトコン)を、というか人間を、ヴィクター・チャーリーやチャーリーなどと記号で呼んでいたら。人間は本当に記号になる。相手(テキ)も自分(ミカタ)もだ。
「撃て!チャーリーだ」「報告!チャーリーを無力化」ネトウヨ パヨク 弱者男性 女さん。最近ならトクリュウか。与えられた記号をやたらめったらと使って。先が思いやられる。いや、過去を繰り返すだけか。友達を殺すんだよ。
一般人は皆「友達」だ。権力や財力で本当の頂点にいる者たちから見れば、同じ捨て駒なのだから。個別認識などされておらず、群としてカウントされている。その中で敵意を向けあってくれるのなら、自分たちに一塊となって向かってくる可能性が減り。頂点捕食者は大満足だ。
ティック・ナット・ハンは言っていた。
「何百万もの人々に、心の中で昼夜を問わず殺人を練習する機会を与えることは、何百万もの怒り・恐怖・欲求不満・暴力の種を植えることだ。それは次の世代に受け継がれてしまう」
ナパーム弾の話を思い出してほしい。とにかく、森がやっかいだったのだろう。
米軍は何年間も、ベトナムの森林に合成化学物質を散布していた。
エージェント・オレンジ、エージェント・ホワイト、エージェント・パープル……というコード・ネームがつけられた除草剤だった。最もまかれたのはオレンジで、毒性があった。奇形や障害という形で、子々孫々にまで被害がおよんだ。
私たちは「エージェント・オレンジ」になってはならない。私たちは今度こそ変わるのだ。
1968年から、パリ和平会談(北ベトナムと南ベトナムと米国の話しあい)がはじまった。
米国内や世界各地で、ベトナム反戦運動が起こりはじめた。米軍が非武装の村人約500人を殺害したとされる話が世間に広まり、より一層反対の声は強まった。
戦争が激化・長期化すると。良心的兵役拒否が増加していった。数千人が兵役を拒否した。若者は徴兵カードを燃やしたり、国境を越えてカナダに渡ったりした。
彼らも大勢亡くなった。息子が二度と帰ってこない母親も大勢いた。
それでなくとも。私に、米国の一般人や個々の兵士を軽蔑する気持ちは少ない。今だって直せていない人類全体の問題だ。
一度はベトナムからの撤兵を決めた米国政府だったが。翌年から、カンボジアやラオスに戦線を拡大し出した。
ホー・チ・ミンのトレールがどうのこうのと言って。軍に、カンボジアへ侵攻させたり・ラオスの空港を攻撃させたりした。
発案者、やりたきゃ前線行って自分でやれよ。
戦火がインドシナ半島全域に拡大してしまった。
戦争の長期化はアメリカ財政を圧迫し、ドル危機の一因になった。
もう、金を数えるのはやめて星を数えなよ……。
1973年、パリ和平会談で和平協定が成立した。ついに、米軍はベトナムから撤退した。
1975年の北軍によるサイゴン陥落で、ベトナムは南北統一にいたった。
サイゴン陥落直前の24時間に、在留アメリカ人約1300名と南ベトナム人など約5500名が、ヘリコプターでベトナムを脱出していた。
母艦に次々とヘリを着艦させるために。米軍は、ヘリ(当然、1機ごと超高額だ)を何十機も海へ捨てるまでして、スペースを空けた。
アメリカ大使館は在留米人へ、脱出計画を記した紙を事前に配っていた。それには集合場所や合図についてが書かれていた。
ーラジオから「サイゴンの気温は〇〇℃で尚も上昇中」という文言が聞こえ、「ホワイト・クリスマス」が流れたら。避難を開始しろ。ー
当事者の1人が、「実に奇妙でシュールな、カフカの小説じみた時間だった」と言い表した。
Kafkaesque とは。無意味かつ方向感覚を失わせる、脅迫的な複雑さと超現実的なゆがみ、さしせまった危険の感覚を特徴とするもの。
『ブレイキング・バッド』に。麻薬中毒者グループが、自分たちの状況がいかに Kafkaesque か議論するシーンがある。
ベトナム戦争は……
① 犯罪だった。フランスの植民地主義に対抗したベトナムの英雄的行為を、アメリカが抑圧しようとした試みだった。
② 臆病な政策立案者と偏向したメディアによって、アメリカが不必要に負けた正義の戦争だった。
③ 共産主義の影響を誇張し・ナショナリズムの力を過小評価したアメリカの指導者らがまねいた、悲劇的なあやまちだった。
時が経ち、より多くの記録にアクセスできるようになると。別の解釈が浮上した。
④ 第二次世界大戦の余波から1989年ベルリンの壁崩壊・1991年のソ連崩壊まで続いた、冷戦の中に、ベトナム戦争もあった。
この見方では。ベトナム戦争は冷戦における代理戦争だった。
冷戦は20世紀の第三次世界大戦で。先の2つの世界大戦とは異なり、核兵器などによる抑止力で、敵対国間に直接的な軍事衝突が起こることなく始まり・終わった。経済封鎖・軍備競争・プロパガンダ・代理戦争を通じて、終始、間接的に戦われた。
非武装化された日本と、分断されたドイツの繁栄した西半分の、工業力があれば。ソ連が和平を申し入れてくるか国内改革をするまで、共産主義圏を封じこめる政策をとり続けていられる。と、米国は期待することができた。
ソ連が冷戦に勝利できるのは(可能性)、米国から工業同盟国らをひき離した場合のみだった。
ベルリン封鎖/空輸・キューバ危機・ベトナム戦争……冷戦の危機のほとんどは、共産圏諸国による攻撃的な探りに対して、米国が激的な決意を示した時に発生した。
米国の信頼性を試す試練の大半は、第二次世界大戦後に共産主義体制と非共産主義体制にわかれた国々、ドイツ・中国・韓国・ベトナムで発生した。
1965年の演説でジョンソン大統領は、保証人としての米国の評判を強調していた。「ベルリンからタイまで、攻撃された時に米国を頼りにできるという信念に、幸福がある程度かかっている人々がいる。ベトナムを運命に任せれば、米国の約束の価値が揺らぐことになる」
みんな口には出さずとも思っているだろう。自分の安全のためなら他の人たちは死んでもかまわないと。うちだけが責められる筋あいはない。というメッセージか?
ロバート・キング・マートンが、はぁ〜?と言い返しそう。
ベトナムに詳しいある歴史家は言う。臨時革命政府は、常に単にベトナム民主共和国から派生していたグループの1つにすぎなかった。長い間そうではないふりをしていたのは、戦争中にカードを明かす義務が特段なかったからだと。
名誉ある平和ーー共産主義諸国が北ベトナムに圧力をかけることで戦争が終わることーー米国が期待したのはこれだったのだろうが、現実はそうはならなかった。
歴史上、本当に単純な二項対立など存在したことはない。ガキの喧嘩じゃないのだから。そんな純情なヤツらじゃない。(主観)
ホー・チ・ミンの後継者らはベトナムに全体主義を押しつけ。毛沢東の後継者らはベトナムをソ連の衛星国とみなし。1978年にベトナムはカンボジアに侵攻し。1979年に中国はベトナムに侵攻した。前者はポル・ポト政権を打倒し、後者は短期間の侵攻のみだった、という違いはあるが。
インドシナに介入した国々の内、最も大きな利益を得たのはソ連:中国国境に同盟国を獲得し、国際マルクス・レーニン主義の指導権を再確立し、カムラン湾の旧米軍基地をソ連軍事施設とした、だったか。
ソ連はアフガニスタンに侵攻した。アフガニスタンは「モスクワのベトナム」だった。米軍と争うベトナム人に、ソ連と中国が武器と装備を提供したのと同様に。ソ連と争うアフガニスタンに、米国と中国は武器と装備を提供した。
バックに〇〇先輩いるからな、とか。そういうダサいことをすると。どうやら、世界はより一層壊れるようだ。
タイムリープとヤンキーを用いて描かれているため、たとえば宮崎駿が、結局は暴力を美談にしていると言うかもしれないが。読み手の解像度がとんでもなく低くない限り、心配無用だろう。この作品の大テーマは愛や友情だ。そもそも、物語で暴力があったら人に暴力をふるうなんてダサすぎるだろう。自分の意思はどこへ行った。
「腐りきったバッド・エンドに抗う」
「暴力をカッコよく描いている物語は危険」とは一切思わないが。これなら賛成だ。↓
ミュージシャンやアーティストは、直接的な言葉を使わずとも、人々にメッセージを発している。
ジョン・レノン「私たちの歌は全て反戦歌だ」
危険な場所におもむいて、記録をとってくれる人もいる。
ベトナム戦争中の米軍兵士たちの、人を撃っている時と森を焼いている時以外の、写真を貼る。
僧院にとどまり瞑想を続けるか。戦争被害に苦しむ人々を助けるか。ベトナムの僧侶たちに、選択をしなければならない時がやってきた。
ティック・ナット・ハンは「行動する仏教」運動を設立することで、両方の道を歩みたいと考えた。個人と社会に内面からの変革をうながすという行為に、人生の残りのろうそくを全て使った。
先生は、サイゴンの大学で世俗的な科目を学んだ最初の比丘の1人だった。後に、プリンストン神学校でも比較宗教学を学んだ。
1966年、米国政府に平和をうったえるために渡米。
キング牧師と親しくなった。
キング牧師は、ベトナム戦争に対する懸念を表明する際は、極めて慎重に話していた。公民権運動をする中で築いてきたジョンソン大統領との関係を、危うくしたくなかったからだ。だが。じょじょに明らかになっていくベトナム戦争の実態を前にして、彼の心は揺らいでいた。
先生がキング牧師にあてた手紙から、一部を抜粋する。
人間の敵を探してーー
焼身自殺した僧侶たちがねらったのは抑圧者の死ではなく、政策を変えることでした。真の敵は、人間の心の中にある差別・独裁・貪欲・憎悪・不寛容です。
以下、キング牧師の1956年の演説より。
人種間の調和のための非侵略手続きーー
非暴力の抵抗者は、敵を変え敵を救済しようとする。敵を倒したり屈辱を与えたりしようとはしない。目的は和解だ。不正を倒すことであり、不正に関与している人々を倒すことではない。
先生は彼の演説内容を知っていて、それにそうような手紙を書いたのだ。先生の本心だが言葉をチョイスしたのだ。間違いない。
「あなたがアラバマ州バーミンガムで率いている平等と自由のための闘争は、白人に向けられたものではなく差別心・憎悪・不寛容に向けられたものであると、私は全身全霊で信じています。それが人類の真の敵ですからね」「あなたは、平等と人権を求める最も困難な闘いにたずさわってきた。ベトナム人の言い表しようのない苦しみを理解して下さるのは、あなただと。私は確信しています」「あなたの中で神が行動を起こしているから、あなたは行動を起こしているのですよね」
最後のたたみかけよ。先生は柔と剛をあわせもつ男だった。最高にクールだ。
キング牧師は、明確にベトナム戦争への道徳的非難をしはじめた。先生をノーベル平和賞に推薦までした。
ホンモノとホンモノは、大テーマが同じであることを知った後、互いの神の姿の違いなんかで対立しない。
パリ平和会談に挑んだ時の先生を想像する。先生は実は炎の男だ。怒りや悲しみを精神力でコントロールし火力を調節しているから、そう見えにくいだけで。パワーとエネルギーを全て1つの願いにこめて、発言する。それが人の心をうつ。雨垂れ石を穿つともまた違う。それは瞑想だ。そんな猶予はなかった。チャンスは一度しかなかった。
1968年、キング牧師は暗殺されてしまった。トランプ氏は死ななかった。彼はこれから何か大きなことをするかもね。つまり、まだそれをしていない。(私のこういうのは聞き流して😂)
先生は、著書などの売上を青少年社会奉仕学校の創設に使った。
「我々は死んだらどこへ行くのか」と題した講演で。先生は燃えるろうそくの絵を描いた。これが消えたらどこかへ行くのか。宇宙にとどまり続ける。そして。生涯を通じて示してきた愛・思いやり・知性・理解は、つまり思考や感情は、死後の自分にも関係があると説いた。
今は先生も宇宙にいる。
ベトナム戦争中に世界に衝撃を与えた僧侶は、他にもいた。彼の名前は(カタカナで表記させていただくと)ティク・クアン・ドゥック。
1963年6月11日、サイゴンの交通量の多い交差点で、彼は焼身自殺した。政府による仏教徒弾圧に反発して。
蓮華座で座り。仲間が頭からガソリンをかけ。自らマッチで火をつけた。絶命するまで蓮座を崩さなかった。
つまり、計画されたものだった。
当時のアメリカ人記者とベトナム仏教僧との関係が、垣間見える。それまでも、僧侶らは報道陣を利用していた。秘密警察を遠ざけるために、デモの場所などについて偽情報を伝えたり。焼身自殺の前夜には、一部の記者に電話をかけていた。他の手はずも整っていた。警官などに邪魔(消火)されないようにと、人垣まで用意していた。
勝手にリンクさせて申し訳ないのだが。私が言いたいのはこの点で。彼はまさに「心臓を捧げた」のだ。ドゥック僧侶の心臓は焼け残り、追悼記念館(?)に展示されている。
もうすぐ1年か。彼が抗議したのは、正確には、「私たちの支配階級がガザへのジェノサイドを正常であると決めたこと」である。
私たちは忘れてしまうか、どんどん記憶が薄れていってしまうので。終わらせねばならない。
ユニセフ事務局長「新年がガザ地区の子どもたちにもたらしたのは、攻撃と剥奪と寒さによる死だ。停戦は大幅に遅れている。新年早々、あまりにも多くの子どもが命を落としている」
トランプ次期米大統領が、就任する20日までの停戦合意を求めている。あと一週間。終わることを心から願う。ガザの人々にとっては、それでも長い。毎日が地獄なのだから。
以下、ブッシュネルさんの遺書の内容。
「もし自分が奴隷制度の時代に生きていたらどうするだろうかと、自問したい。 ジム・クロウ法の南部、アパルトヘイト。もし自分の国が大量虐殺を犯していたら、どうするだろうか。あなたはそれをやっている。 今まさに」
私たちに「敵」がいるとして。それは、ベトナムの農民でもガザの未成年でもない。
私の感性と構成で解説するベトナム戦争を最後まで読んでくれて、ありがとう。