アンティークコインの世界 〜ローマコインとアウグストゥス神殿〜
アウグストゥス神殿再建記念貨。アントニヌス・ピウスの治世に発行されたセステルティウス黄銅貨である。158〜159年にかけてローマ市内の造幣所で造幣された。アントニヌス・ピウスは五賢帝の一人で、ハドリアヌスの後を継いで即位した。温厚な性格で、治世中に戦争はほとんど行われなかった。ローマが最も平和で安定していた時代の皇帝として知られる。
表面の銘文は「ANTONINVS AVG PIVS P P TR P XXII」で「アントニヌス、尊厳者(皇帝)にして敬虔者、国父で護民官特権保持二十二回経験者」、裏面の銘文は「TEMPL DIVI AVG REST COS IIII」で「神殿、神なる尊厳者(皇帝)、神聖にして執政官四回経験者」を意味する。
描かれた神殿は、アウグストゥスの神格化を記念して建造された。神殿内にはアウグストゥスと皇妃リウィアの彫像が置かれている。屋根にはローマ建国の父ロムルスとローマの前衛となるアルバ・ロンガ建国の父アイネイアスが描かれている。また、寺院の階段の両脇には勝利の女神ウィクトリアの彫像が設置されている。
この神殿はアウグストゥスの後を引き継いだティベリウスの治世に建造され始め、カリグラの治世に完成した。カッシウス・ディオによれば、アウグストゥスの生まれ月である八月に二日間かけて完成記念式が行われたという。ディオは五賢帝時代の人間であるため、この時代をリアルタイムで生きていたわけではない。人からの聞き伝えを記録していることもあり、この内容が正確なのかは判然としない。伝言ゲームのように事実が徐々に変わっていったり、筆者自身が脚色を加える場合があるからだ。だが、神殿の位置はローマ市内のパラティヌス丘とカピトリヌス丘の中間地点にしたアウグストゥスの住居跡に建てられていたことはわかっている。
アウグストゥス神殿は、ドミティアヌスの治世に火災により損失する。その後、89〜90年頃に再建されたが、ドミティアヌスが篤く信仰していたミネルウァをテーマにしたデザインに変えられた。その後、五賢帝アントニヌス・ピウスが古くなった神殿の再建に着手し、158年に完成させる。本貨はその完成を記念し発行された。
ドミティアヌス……フラウィウス朝最後の皇帝。ウェスパシアヌスの次男で、兄ティトゥスの急死後に即位した。歴史家からは暴君、愚帝として評価されている。彼は自身に向けられた暗殺計画から猜疑心が強くなり、最後は誰も信用できなくなり周囲を次々と処刑する。それがなお一層反感を買い、最終的には暗殺された。
初代ローマ皇帝アウグストゥスを祀った神殿の再建は、皇族にとっては一大イベントであり、貨幣に刻まれることで帝国中にビックニュースとして伝えられた。紙がまだ高価だったため、まだ新聞はなく、当然テレビなども存在していない。そこでローマ人は、貨幣という多くの人間の手に渡る媒体にニュースを示したわけである。これも古代人のひとつの知恵だろう。
アウグストゥス……ローマ帝国の初代皇帝。ローマは長らく共和政を採用していたが、領土の拡大により制度的に限界が来ていた。そこで彼は、前27年に帝政を実施する。だが、あくまでも「市民の第一人者」という位置づけで、反感を避けるために敢えて皇帝や王などの言葉は利用しなかった。彼が考案した綿密な統治システムは、後代の皇帝たちにも引き継がれ、理想の皇帝として死後も尊敬を集めた。
スエトニウス、プリニウス、マルティアリス、カッシウス・ディオなど、複数の人間がアウグストゥス神殿について言及している。これだけの人間が記録を残しているということは、実在したことに疑いはないのだろう。この神殿について最後に言及されたのは、ちょうどカラカラが暗殺され、マクリヌスが僭称していた218年5月27日のことだった。それ以降、神殿がどうなったのかは全くの不明である。だが、何者かによって跡形もなく破壊され、神殿を形成していた石も持ち去られ、現存していない。それゆえ、本貨に描かれた神殿の図像は当時の神殿の外観を復元する上での貴重な情報となる。
カラカラ……セウェルス朝の皇帝。父からは弟ゲタとの共同統治を命じられるが、即位後まもなく弟を暗殺し、皇帝の権力を独占した。エジプト・アレクサンドリアでの市民虐殺など、残酷な暴君として記録されている。最期はパルティア遠征時、トイレの最中に部下の兵士に刺殺された。
マクリヌス……皇帝を護衛するエリート部隊プラエトリアニの長官。カラカラがプラエトリアニの兵士ユリウス・マルティアリスに殺害された後、一時セウェルス朝が断絶したため、皇帝を僭称した。だが、パルティア遠征の失敗や兵士の給与削減など、軍からの不満を買ったため、シリアのカッパドキアで暗殺された。
歴史家たちの写本に見られる記述や貨幣に著された図像や銘文から探る謎解き。これを私は、先祖たちから与えられた最高にスリリングな極上のミステリーだと思っている。これに勝る興奮は私にとってそう多くない。歴史家たちの嘘か本当かもわからない伝承が、見つかった貨幣によって現実だったと証明される瞬間に、いつも鳥肌が立つほどの胸の高鳴りを覚える。これほど私を熱中させるものは、いまだかつてなかった。
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【掲載画像】
アントニヌス・ピウスのセステルティウス黄銅貨
発行年:158〜159年
発行地:ローマ造幣所
額面:セステルティウス
材質:黄銅(真鍮)
直径:32mm
重量:21.82g
分類:RIC1003
ドミティアヌスのアス銅貨
発行年:85年
発行地:ローマ造幣所
額面:アス
材質:銅
直径:29mm
重量:10.66g
分類:RIC303
アウグストゥス(オクタウィアヌス)のデナリウス銀貨
発行年:前30〜前29年
発行地:ローマ市造幣所
額面:デナリウス
材質:銀
直径:16.8mm
重量:3.99g
分類:RSC124(Augustus)
カラカラのアントニニアヌス銀貨
発行年:216年
発行地:ローマ造幣所
額面:アントニニアヌス
材質:低品位銀
直径:23mm
重量:5.44g
分類:RIC280e
マクリヌスのデナリウス銀貨
発行年:218年
発行年:ローマ造幣所
額面:デナリウス
材質:銀
直径:20mm
重量:3.41g
分類:RIC78, RSC41
いずれも筆者私物を撮影し掲載。ドミティアヌスのアス銅貨を除き、全て英国のコインオークションに出品されていたものを日本の仲介業者を経由して入手。オークションに出品されるコインは、もともと英国の貴族や貨幣収集家が所持していたコレクションだった。所有者が没し、親族が遺産相続金の一部としてオークション会社に出品している。ドミティアヌスのアス銅貨のみオーストリアのコイン商から、先とはまた別の日本人の仲介者を経由して入手したもの。
Shelk 詩瑠久