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【書評】ニーチェ『ツァラトゥストラ』を読む。私は「超人」ではない。人である。
ロッシーです。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読みました。
なぜ読もうと思ったのか?
それは…
「タイトルがカッコいいから」(マジです)。
『ツァラトゥストラ』というタイトルカッコいいと思いませんか?
「カッコいい本のタイトルランキング」ベスト3に間違いなく入ると思います。
しかも、本書を読めば「俺、『ツァラトゥストラ』読んだぜっ。」と読書マウンティングできること間違い無しのブランド本。
そりゃ読むしかないでしょ!ということでトライしました(嘘)。
なかなか時間がかかりましたがやっと読了!
私が選んだのは中公文庫版ですが、これを選んで正解でした。理由は以下の2点です。
文字が大きくて読みやすい(これ本当に大事!)
訳注が充実している
訳注がなかったら、おそらく『ツァラトゥストラ』の理解度は50%くらい低下していたでしょう。
正直、本書は背景知識がない人が読んだら意味が分からない部分がかなり多いです。そういう意味では我ながらナイスチョイスでした。
ただ、その反面1冊のボリュームが大きくなり、765ページという分厚さでしたけど(重い)。
さて、この大書についてどこから語ればよいのか・・・。正直まだ語れるほど消化できていないのが現実です。それに哲学の専門家でもありませんし…。
とはいえ、とにかく私が読んで思ったのは、
「確かにこの本を読んだら自己肯定感は高まるし、やる気もアップする!」
ということです。それくらいパワーをもらえる本です。パワースポットではなく、いうなればパワーブックですね(笑)。
そういう意味では、若い人ほど本書を読むことをおすすめします。また、起業を志すような人や、何か新しいことに挑戦する人にもおすすめです。
『ツァラトゥストラ』は、そういう人達の背中を思いっきり「ドン!!」と押してくれる本です(押されすぎる可能性もありますけど)。
では、やる気がない人はどうなのか?
やはり、そういう人でも本書は読む価値があると思います。受け身的なニヒリズムに陥ることを防ぐ効果はあるでしょう。いわば本書はワクチンなのです。早めの接種をオススメします(笑)。
まあ要するに、誰でも読むべし!ということです。
さて、『ツァラトゥストラ』が言いたいことを一言でまとめると、
「超人になれ!末人にはなるな!」
に尽きると思います。
もう少し具体的に言うと、
「人生には価値がない、と無気力になってはいけない。自分の価値を自分で創造し、自分の人生を自分で決定し、そして自分の運命を愛せよ!」
ということです。熱い、熱すぎます、ニーチェ先生。
ただし、具体的な「超人」の定義、つまり、自分の価値を自分で創造するとはどういうことなの?ということは『ツァラトゥストラ』には書かれていません。
「超人でない状態」については沢山書かれていますが、「超人」そのものの記載はありません。だから、超人というのは超人でないもの、つまりドーナツの穴のようなもので、どう解釈するのかは個人次第です。
でもそれはある意味必然です。
もう神は死んだのだから、自分で自分を乗り越える存在になるしかないわけです。
「えーと、超人って具体的には何ですか?どうすれば超人になれますか?」
と聞くような態度自体がそもそも否、否、三度否!それは間違いなのです。そんな人は超人にはなれません。
かといって、私が本書を読んでいて思ったのは、
「そんなにみんな超人になりたいのかなぁ?」
ということ。
あなたは超人になりたいですか?
中にはなりたい人もいるのでしょうけれど、私にはどうもそこまで超人になることが魅力的だとは思えませんでした(ニーチェ先生、本当にすみません)。
「俺は超人になる!お前ら唾棄すべき末人など軽蔑する!俺の高貴な肉体、美しい、勝ち誇った、生気のあふれる肉体を兼ね備えた魂は、さらなる高みを目指すのだ!」
と哄笑する人間になりたいか?(ちょっと極端ですけど)と言われたら私はNoです。
会社にこんな同僚がいたら正直うざいです。サラリーマンやってないでさっさと自分で起業してくれよ、と言いたくなります(笑)。
ニーチェ先生から「だからお前は末人なのだ!」と言われそうですね。すみません。
でも、私はそもそも「自分を乗り越えるべき」という考え方にそれほど魅力を感じません。
乗り越えるうんぬんの前に、「自分ってそもそもなんぞや?」という風に考えてしまうからです。
自分という良く分からないものを、「超人」というこれまたよく分からない定義を前提として乗り越えるってどうなんでしょう?
私がニーチェ哲学をまだきちんと理解できていないのかもしれませんが、シンプルに、「昨日の自分より、今日の自分が成長できるように努力せよ!」と言われたほうが腹落ちします。まあ、超人というのは、そんなありきたりな言説で語れる存在ではないのかもしれませんけど。
さて、『ツァラトゥストラ』は、人生を肯定します。
それは良いことだと誰もが思うでしょう。
人生を否定しながら生きるよりは、誰だって肯定したいでしょうから。
そして否定といえばショーペンハウアーです。彼は「生を否定」したのに対して、ニーチェは「生を肯定」したという違いがありますが、両者は結局のところ同じように思います。
ニーチェはもともとショーペンハウアーに影響を受けていましたから、その反発により生の肯定を主張したのかもしれません。しかし、もしニーチェが長生きをしていたら、果たしてずっと肯定したままでいられたのだろうか?と思うのです。
肯定でも否定でも、どちらか一方に大きく振れる思想は、結局その対極方向に揺り戻しが来るし、どうしても無理が生ずると思うのです。
そんなことを無理するよりは、「生を否定も肯定もせず、あるがままにこの生を生きる」ほうが私は腹落ちします。おそらくそれは東洋思想に近い考え方なのでしょうね。
『ツァラトゥストラ』を読み、人生を肯定をすれば、やる気が出る。それは間違いありませんが、結局は平均回帰の法則により、そのやる気はいつまでも続かない、ということも知っておいたほうがよいとは思います。
肯定ばかりすることは、どうしても不自然であり、長続きはしない。そんなに簡単に肯定ばかりできるように人間はできていないのではないでしょうか(その逆も真なり)。
ときには肯定したり、ときには否定したり・・・それが人生だと思うのです。
私は、そもそも肯定とか否定とかではなく、心の平安(アタラクシア)を目指したい派です。
そのような生き方はニーチェ先生からすれば「末人」なのかもしれません。でも、他の思想家や宗教家からすれば、それこそが「超人」なのかもしれません。
ただ、それって言葉遊びに近いのではないでしょうか。
「末人」とか「超人」とか、そんな言葉の概念遊びに囚われず、私は単なる「人」であることでじゅうぶんです。
・・・というのが今読み終わった直後の感想です。
また読み直したら捉え方が変わるかもしれません。今はまだお腹いっぱいですが、またいつか読み返そうと思います。
それにしても、本書を書いたニーチェは凄い!やはり偉大だと思います。
『ツァラトゥストラ』の第1部はたったの10日間で書いたと言われています。
音楽の天才モーツァルトみたいに、何か神的なものか彼に降臨していたのかもしれませんね。「神は死んだ」と言ったニーチェはそんなこと認めたくないかもしれませんけど(笑)。
いずれにしても、彼が『ツァラトゥストラ』に込めた想い、情熱はいつまでも残り続け、読者に大きな影響を与え続けることは間違いないでしょう。
そういう意味では、本書は「超本」といっても過言ではありません。
まだ読んでいない人はぜひ読んでみてください!
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!