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いろいろなHSP本から感じる、いろいろなHSP ① part.5


みなさん、こんばんは。綺羅です。

今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。


最近、導かれるように「私は、何をどうしたいのか」を真剣に考える機会が増えてきて、その考え事に、ヒントをいただける出会いが多くあります。

有料記事を書いた後、ここで夢を語り実現していくことも、「怖い」気持ちでいっぱいでしたが、自分が必要とする情報が集まりつつあることに、この流れに乗ってみようと思います。

フォロワーのみなさまをはじめ、多くのクリエイターさんの力を借りる機会が出て来た時は、何卒、よろしくお願いいたします。


さて、話がかなり充実してきました

「いろいろなHSP本から感じる、いろいろなHSP」

の日です。

「敏感さ」は日本だけではなく、世界の視点からみても、いまだに「改善すべきもの」として捉えられているようです。

この現状に、ただ悲嘆するのではなく、発信を続けることによって、少しずつでも「生きやすい世界」を創造していきたいです。


読み進めていく書籍は、

エレイン・N・アーロン
「ささいなことにも すぐに『動揺』してしまうあなたへ。」

です。


💟

はじめに


最初にお断りしておきます。


この記事は、「HSP」や「生きづらさ」に関連した本の、

レビューではありません。


この連載の構成は、

・読んだ部分の「感想」
・読んで「学んだこと」
・学んだことを「自分にどのようにいかすか」

という、

個人の主観、思考や感性に基づいて、紹介する本を、みなさんに

「感じたよ」「学んだよ」「ここの部分をいかしたいと思うよ」

という「表現」を、共有させていただく記事です。


ここで書かれたことだけを鵜呑みにせず、少しでも、自分の中で、

何か「ひっかかった」・「気になって仕方ない」

と感じられた時は、

ご自身で、その書籍をご覧いただくことを、強くおすすめします。


ですので、

「HSP本の、それぞれの評価が知りたい」
「HSP本で、どれが読みやすいか、わかりやすいかを知りたい」
「HSP本の、本の中身を教えて欲しい」

という方は、申し訳ないですが、

・他のクリエイター様によるレビュー記事や、レビューサイト

・出版社のホームページ

で、お探しください。


以上の点をご検討いただいた上で、ご覧くださいますよう、

よろしくお願いいたします。


標記説明ついて:
【】の中にある題名部分が、当記事のメインとなります。



💟

【感想:第四章 子供時代と思春期を新しい目で捉え直す ―自分を育てることを学ぶ―】「ささいなことにも すぐに『動揺』してしまうあなたへ。」


子どもの頃に、いかなる環境で過ごしたか、どんな人に囲まれて育ったかが、その人の「敏感さ」を左右するといわれると、私自身、幼稚園や小学校に進学するまでは、比較的に自由に過ごさせていたと思う。

自分自身が自由に生活し、好きなように学べていた頃は、自分の感覚は当たり前だと思っていたし、それを責められることもなかった。


学校はどちらかと言うと、「楽しいところ」というよりは「試練の場所」だった。

慣れないことと、人との交流が連続して折り重なっているせいで、一つひとつの刺激を消化できるまでに、次々と新しい物事に向かわせられる。

その場で、「できない」とか「したくない」と言えば、どうしてもやるように促されるし、それでも拒否しようものならば、みんなの前で怒られてしまう。

それだけは絶対に避けたくて、失敗して笑われながら、何とかこなしていた。

笑われる方が、みんなの前で怒られるよりも、傷は浅く済むから。


「敏感さ」が自分自身を支える「才能」として出るか、自分をコントロールできないようにする「脅威」として出るか、それは当人にとって、かなり重要なことだ。

でも、子どもの自分を、自分で面倒を見るというのは、ほぼ不可能なことで、どうしても近くの大人や、環境に頼らざるを得ない。

自分が「助けて!」と訴えた時に、手を貸してくれる大人、その困り感を受け入れてくれる環境が整っていることは、後の人間形成や、愛着問題に大きく関わって来るのだそうだ。


今更そんなことを言われても、どうしてその時の大人は助けてくれなかったの?

私なりに精一杯頑張っても、「まだ頑張れる」「もっと頑張りましょう」と言われて、もっと頑張ってできたとしても、その表情はまるで「今やっとできたの?ちょっと遅いんじゃない?」と言っているみたいだった。

その表情が怖くて、それから逃れるために、どんなことだって全力で取り組むようになった。

しんどくても全力で取り組んでいれば、少しでも冷めた表情を見なくて済むから、怖い目に遭う確率も格段に低くなる。

そうして自分を教育してきたのに、ここに来て自分で自分を再教育し直していいって言うの?


自分がこの社会に生きられるように、一生懸命に「教育をしてきた・受けてきた」のに、そんなあっさりと言わないでよ!

私の時間は、帰って来ないんだよ!

私の時間、返してよ・・・。


私は私に、時間を返してあげることができない。

申し訳ないけけれど、それは不可能だ。

だからこそ、「返して欲しい」という気持ちを手放せるくらいに、HSPを極めて、幸せを噛みしめられる時間を、私に過ごさせてあげたい。


そのためにも、自分で自分を再教育したいし、させてあげたい。

あの頃の救えなかった自分を、今からでも助けに行く。

私はあなたを、絶対に置き去りになんかしない。

だってあなたは、今の私を形作った、過去の私。


「教育」が怖かった私。

その概念、今の私によって、華麗に覆してあげるから!



💟

【学んだこと】


子ども時代の「敏感さ」の扱われ方が、大人になってからの「生きづらさ」に関係してくることの重要性は、正直、自分が想定していたよりも、はるかに重要なことでした。


日本において「敏感さ」が許容されるのは、家庭の中だけであることがほとんどで、小学校に進学すると、一気に環境が変わるのと、集団行動や規律を守ることが課せられるので、

「敏感さ」を「治すべきもの」として見なされてしまうことが多い

と感じています。

場合によっては、家庭の中でさえも「敏感さ」を許してもらえるかどうかも分からないという意味では、過酷だと思います。

驚いたことには、この現象は日本だけではなく、アメリカにおいても、小学校で集団の中で遊ばない子どもや、一人でいたい子どもに対して、

その子が持つ「敏感さ」を「厄介だ」と見られてしまうことがある

のだそうです。


またHSPの「敏感さ」は、「性」を交えて議論されることも多く、

男女によって「敏感さ」の捉えられ方が、大きく違いました。

「男の子」が「敏感さ」を持つことはあまり受け入れられないこと、

「女の子」が「敏感さ」を持つことは「おしとやかさ」や「大人しい」というイメージに繋がるということ等、

社会が作り出した「男性像」「女性像」の規範に、多くの人がその型にはまらないことに苦しんだり、必死になって型にはめようとしていたりして、

「社会」や「周囲の環境」が定めるところの「この性は、こうあるべき」という像に、多くの人が、子どもの頃に悩んでいる

と分かりました。


「敏感さ」について、放置しすぎたり、過干渉することなく、大人による適切な支援が必要であることからも、子どもが敏感であってもなくても、

「程よい距離感を保つこと」

「適切な支援のあり方を考え、実践すること」は必要です。

特定の家庭や家族構成だけが必要な考え方ではなく、「人類」という種を存続させる観点において、多くの人が豊かに生きていくために、全員が考えていくことではないかと思いました。


子どもの頃の自分の様子を、今の自分がリフレーミング(捉え直し)をし、自分自身を再教育することで、当時のまま凍り付いていた感情を、じっくり消化していくという過程が大切だと、本にありました。

HSPの情報処理の精度を考えれば、情報処理を丁寧すぎるくらいに行われる部分を、今までの社会や関わりの中で省かれてきた可能性が、大いにあります。

自分の「敏感さ」による情報処理能力を、ありのままに動かして状況を捉え直すことは、自分の持つ気質を肯定する・肯定できることにつながります。


誰かに「こうあるべき」と教育されたから、その通りの自分になっていないといけないということはなく、自分が「こうありたい!」と思う自分になるため、理想の生き方をする自分になるために、

自分自身を再教育するという考え方は、大切だと思いました。



💟

【自分でどのように生かすか】


昨日に「教育」のことについて、自分の所感を述べたばかりなので、この絶妙なタイミングで、こうした記事を更新することが、不思議なことだと思っています。

私が生かそうと思う部分は、

「自分自身を、自分で再教育すること」を「自分が好きなスタイルで」「自分のペースで」やっていく

ことです。


私が見てきた限りでですが、HSP気質の人は、自分の好きなことについて突き詰めていく人が多いです。

それは、小説を読むこと、ハンドメイドをすること、音楽を聴くこと、神社巡りをすること等、人によって違います。

その自分の好きなことを通して、

生活の知恵が身につけることができたり、

生きていく上での哲学をいつの間にか学んでいたり

する人が、いらっしゃるのではないかと思います。


「学ぶぞ!」と意気込んで取り組むものだけが、「教育」の形ではないと思っています。

真剣に向き合う姿勢はもちろん、

「これ、面白そうだからちょっと学んでみたい!」という気持ちや「この話を聞いてたら、なんだかその先の話も聞きたくて仕方ない!」という気持ちからくる学びも、「教育」として成立していると思うのです。


「教育」は「教え育てる」と書きますが、常に向かい合って、教育者が手取り足取り一方的に教えるものではなく、また、子どもの主体性に任すことを全面的に推し出して、ひたすらに放置するだけのものでもないと考えています。

ですが、それを教育を専門とした教育者だけに求めるのも、限界があります。

特に、HSP気質の人にとっては、自分が安心できる心地の良い環境下で、自分を教育することは、他の非HSP気質の人と比べると、必要要件が多くて細かいものになると予想するので、今の教育システムを遂行する人間の中だけで、その環境を整備することは、難しいと考えています。

こうしたことを考えると、HSP気質の人が、自分自身を再教育することは、自分自身の環境を整え、自分で「生きやすくなる」ような方法や実践を考えたり、思い描きやすくなり、

「社会」や「世界」に、自ら関わろうとする「きっかけ」が生まれやすくなるのではないか

と、思えるのです。

それが、今すぐ出来る人もいれば、出来ない人もいて、出来ないことが悪いとするのではなく、「今すぐ出来なくてもいい」と言える寛容さと、適切なタイミングがあることを教え促すことが、求められていると考えています。


教育は教育者だけの特権ではなく、全員が自分自身に対して教育者になることが、「生きづらさ」を緩和できる一つの方法なのだと思います。

さて私、次はどの学びを、HSPにつなげようか?



💟

みなさんからのスキは、私の表現を支えてくださいます。

この記事にお時間をいただき、ありがとうございました!


それでは、今日はここまでです。

みなさんも、ご自身の「繊細さ」と、いいお付き合いを。



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