【一番のトラウマ】大人になりたくない【似てくる恐怖】
あんなふうに生きなくてもいい。
あんなふうにはならない
といくら自分に言って聞かせても、
恐怖がなかなか去ってくれません。
自分も大人になったら、
両親みたいになるんじゃないかと
ずっと恐れています。
今は大丈夫だけど、
よっぽど気を付けていないと、
あんなふうになってしまうに違いない
と思い込んでいます。
年を取るにつれて、
自分の中の両親(特に母親)のイメージに
どんどん似てくる、どんどん似てくる
と悲鳴をあげたいくらいの気持ちでいます。
※今年の正月に老いた両親に会って、
その変わり果てた姿を見て、
全然似ていないことに安心した結果、
この記事を書けました。
昔の両親は、昼も夜も単純作業で
働いて働いて働いては、
お金の心配ばかりしていました。
働く以外には、
これといった活動も楽しみもない人たちでした。
人付き合いもほぼありません。
休日に出掛けることすらも滅多になく、
近所への外食も、年に一度あるかないか。
毎日毎日、労働、労働、労働。
家事、家事、家事。
虐待的育児。
過剰に働いている分、
お金はあるはずでしたが、
支出を惜しんで惜しんで、
お金を使う度にグズグズ言っていました。
「あんたたちのせいだ」と、
働かなきゃいけないこと自体を
子供のせいにして、
子供を叩いたり、
仕事や家事がつらくて
泣いている時もありました。
つらかったら休みを取ることすら
できない人たちでした。
休むという判断ができず、子供に当たる。
家事の手を抜くという判断ができず、
子供に当たる。
父親は酒とタバコに溺れていました。
そんな両親の生活を
まざまざと見せつけられて、
自分も大人になったら、
あんなふうになるんじゃないか。
あんな人生は嫌だ。
大人になりたくない。
早く死にたい。
幼少期からそう願うようになりました。
子供を持ってはいけない、
早く死ななきゃ、
大人になったらああなってしまう、
という恐怖でいっぱいでした。
だから、自分が大人になってしまうことに
目をそむけ続けました。
大人になっていく自分に
気付かないように、気付かないように、
自分と向き合わないように、
必死で努力しました。
鏡を見ても、誰だろう。他人だ。
鏡に映った自分を見ながら、
もしも自分がこういう顔だとしたら、
こういう風にするけどな
と思いながら、髪を整えたりしていました。
大人になってしまった自分を
直視しないように、
現実の自分を他人だということにして
暮らしていました。
そうしているうちに、
大人になっていく身体と、
子供のままでいたい心が、
どんどん分離していきました。
現実の自分と自分のイメージが
どんどん離れていき、
引きこもるようにもなっていきました。
さらに、自分のほうからも、
わざと自分が分からなくなるように
子供の精神を引きずっていきました。
そのくらい、本当に大人になることは、
おぞましいことだと思っていました。
大人になったら、
両親の暮らしみたいな、
暗く、貧しく、つらく、精彩のない毎日が
やってくると思っていました。
特に働いたり、子供を持ったりすると、
あんな人生を送ることになると、
深い恐怖を感じていたんです。
だから、絶対大人になりたくなかった。
大人になってはいけない、
大人になったら終わりという感覚でした。
大人になることに対して、
生死に直結するような深い恐怖がありました。
ありましたというより、
今でも半分くらいあります。
両親の人生と自分の人生を
切り離すことができず、
自分もいつか両親みたいになる。
働いたら両親みたいに
生きたしかばね状態になる。
早く死ななきゃ。
その考えがなかなか抜けてくれません。
虐待のトラウマで、
人と接することに精神的負担があるとはいえ、
私は働くこと自体は好きなはずなんですが、
もうその感覚も思い出せません。
だんだん疲れてきました。
このことを考えること自体、
心のド真ん中にかなり負担があります。
あと、大人になることが
嫌だった理由としては、
大人と子供だから両親が手加減した結果、
あの虐待だったんだから、
大人同士になったら、
両親も手加減をしてくれなくなって、
もっと酷い扱いをされるんじゃないか。
可愛い子供のままでいなきゃ
というのがありました。
それから、大人になることが
嫌だった理由として、
同級生の体がどんどん大きくなって、
ものすごく危険だと思うようになっていった
というのもあります。
以上、3つの理由です。
まとめると、
1、大人のイメージが虐待両親
2、子供のままでいないと
もっと酷い目にあうと思った
3、同級生の体が大きくなって危険を感じた
という感じです。
今は、大人になっても大丈夫そうだよね
と思って、そーっと自分に向き合い
始めているところです。
私は両親とは全然違う人生を
ちゃんと歩んでいる。
虐待の連鎖を止めた。
もうそれだけで立派な人生です。
それ以上は望まなくてもいい。
それ以上のことがあったら、ラッキーだ。
そんな毎日です。
スタートラインが違うって、
もう10代の時に気付いてました。
普通の人が100m競争だとしたら、
虐待サバイバーはゴールの見えない、
障害物競争ですね。
別にいいですけど😆
けど、ね。
疲れるよね、障害ライフ。
この人生をやらされている意味を
考えてしまうし。