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◆読書日記.《三浦俊彦『ラッセルのパラドックス―世界を読み換える哲学―』》


<2024年9月16日>

<概要>
「この犬は、吠える」「犬は、吠える」、どちらかが間違っている? 簡単なクイズから「心と物が存在する」ことの謎へ、厳密かつ壮麗に展開するラッセル・ワールド。「完全・究極・確実」に憑かれた過激な哲学者は、「論理」ひとつを武器に、矛盾に満ちた日常世界を徹底的に読み換えてゆく。論理学ファン必読、「新次元の知」への扉を開く一冊!

(本書・袖の内容紹介より引用)

<著者略歴>
三浦 俊彦(みうら としひこ、1959年(昭和34年)7月30日 - )は、日本の美学者、哲学者、小説家。東京大学教授(人文社会系研究科・美学藝術学講座)。論理パラドクス関係の著作やサプリメントの愛用者として知られる。

ウィキペディアより引用 )

<本書の概要、およびバートランド・ラッセルという人物について>

 三浦俊彦『ラッセルのパラドックス―世界を読み換える哲学―』読了。

三浦俊彦『ラッセルのパラドックス―世界を読み換える哲学―』(岩波新書)

 本書は20世紀イギリスの思想家であるバートランド・ラッセルの、特に前期思想の中心となる論理学について解説した本である。

 ラッセルの業績は非常に幅広く、本書で採り上げられている学説についても前期思想だけでかなりの分量となるが、大まかに分けると前半で「タイプ理論」を、後半で「記述理論」について説明しているといった感じとなる。

 ラッセルはフレーゲと並んで後に分析哲学に発展する事となる論理学の初期研究を行って後世に多大な影響を与えた論理学者であり、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の出版を支援した人物としても知られる。
 なお『論理哲学論考』の論理学に関する議論は、フレーゲ~ラッセルの学説を受けて作られたものであった。

 ぼくのスタンスとしては、本書はあくまで自分の今年の課題であるウィトゲンシュタインを理解するための補助的な知識として、バートランド・ラッセルの論理学の知識をある程度仕入れておこうと考えて手に取ったものである。

 そういったわけなので割と軽い気持ちで読み始めたのだが、これがなかなかに難物であった。

 本書は一般向けに書かれたものではあるものの、論理学の知識のないぼくのような門外漢としては、しばしば概念の説明に理解できない部分があちこちに見られ、いちいちウェブサイトや哲学・思想事典といったもので詳しい用語解説などを確認しながら読み進めなければ理解が追いつかなかった。
 やはり自分、このような抽象的な議論は苦手なのかもしれない。ラッセルの学説については、今のところまだ2割程度しか理解しきれていないという感覚しかない。

◆◆◆

 ラッセルという人物は数ある有名な西洋哲学者の中でも珍しいタイプの人物なのではないかと思っている。

 上にも書いた通りラッセルは、フレーゲの学説を受けホワイトヘッドと共に『プリンキピア・マテマティカ』という大著を発表し論理学に関して目覚ましい業績を上げ、ケンブリッジ大学の講師となってウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の出版にも寄与した。
 また、本書のタイトルにもなっている「ラッセルのパラドックス」を発見して数学界にも影響を与えた事でも有名である。

 だが、これはあくまで彼の前半生の業績に過ぎない。

 その後、彼は40代にして「論理学から政治学へ」という方向転換を行う。時期としては1914年、第一次世界大戦が勃発した事による展開であった。

 徴兵反対同盟(NCF)の委員会のメンバーとなって反戦運動を行い、その関連でケンブリッジ大学を追われ、イギリス政府を苛烈に批判して投獄されるにまで至る。

 その後も、英国労働者党代表団としてロシアに訪問しレーニンと会談をし、執筆した『結婚論』の性道徳論に異を唱える市民に訴訟を起こされ、その『結婚論』でノーベル文学賞を受賞し、核兵器廃絶を訴えラッセル・アインシュタイン宣言を発表して、生涯に4度結婚をして97歳まで生きた。

 やると決めたら過激なまでに徹底的に物事を追求するというのが、この人の行動原理なのかもしれない。
 だからこそだろう、ラッセルの論理学もそういったラディカルな性格を反映しているようにも思われる。
 本書を読んでいても、ラッセルが自らの学説を「過激なほど」と思えるまで深掘りし、「大胆な」とさえ思えるほどの結論を提示しているのが分かる。ラッセルの論理学が難解なのは、それだけ徹底的に学説を掘り下げているからでもあるだろう。

 そして、ラッセルのもう一つの顕著な性格は、他者からの批判を敏感に受け止めて、非常に頻繁に自らの学説を変化させ続けたという点にもあるだろう。

 実は、ラッセルの哲学というのは、有機的にはおろか、ただ統一的に概観することすら至難であると認めなければならない。ラッセルほど、生涯と通じて考えを変えた哲学者はいない。ラッセルは、他の哲学者による批判をきわめて敏感に受け止め、自説の修正を繰り返したからである。「君子豹変す」を地でいったと言うべきだが、なにしろラッセルの人生がまた長かったので、その変貌は四回や五回ではない。その理論は一年ごと、いや半年ごとに変化していると言ってよい。小刻みな微妙な変化にとどまらず、百八十度の大転回すら含まれているのである。哲学することの難しさを、経歴そのもので示したラッセルの知的変貌は、それ自体が最高の哲学教材であると言ってよかろう。

本書P.5より引用

 著者も上の様に書いている通り、ラッセルの学説はたびたび変貌し、その度に夥しい数の概念や造語が出てくるので「ラッセルの哲学と言えばこれ」と一言で彼の思想を要約する事が出来ない。
 本書もラッセル思想の全体的なイメージを大まかに掴もうと思って読み始めたのだが、あまりに多い専門用語、次々に現れる新規概念のためにそれさえ難しいと思わせられてしまったほどである。

 本書の内容が、ラッセルの前期思想をメインに解説している理由の一つにはそういう事情も関わっている。ラッセル思想を全て解説していたら、ボリュームが増えすぎて新書と言う形態では出版できなかっただろう。
 本書の内容でさえ、前期ラッセル思想をいくぶん圧縮して説明しているという印象さえあるほどなのだ。

 と言う事で、本記事についても本書に紹介されている多くの概念について一つ一つ触れていくという事まではしない。
 あくまで自分の興味の範囲と、現在課題としているウィトゲンシュタイン思想との関連を中心に書いていこうと考えている。

<タイプ理論について>

 そういうわけで以下、あくまで自分の理解できた範囲で説明を行ってみよう。

 本書で紹介されるラッセルの「二大学説」の一つが「タイプ理論」である。その解説が本書の前半のハイライトとなっていると言っていいだろう。

 ラッセルのタイプ理論は、有名な「ラッセルのパラドクス」を回避するために編みだされた学説である。(ちなみにラッセルはこのように、自分で見つけ出したパラドクスを、自らが解決する策を提示するという流儀を得意の方法としていたという)

 まず「ラッセルのパラドクス」というのは、基本的には自己言及のパラドクスと考えて良いだろう。

 本書によればラッセルは「論理学も数学も近代に発展し、論理学はますます数学的に、数学はますます論理的になってきた(P.36)」と言っているそうだが、この「ラッセルのパラドクス」もまさに哲学と言うよりかはほぼ数学の範疇に近い問題を扱っている。すなわち「集合論」というものである。

 集合というのは、例えば「1から10までの素数の集合」=「1、2、3、4、……、10」だとか、「無セキツイ動物の集合」=「節足動物(昆虫類、甲殻類、クモ類、多足類)、軟体動物、……」だとかといったグループの事を言う。

 この「集合」というものには大きく分けて二つのグループに分けられて、一つが「自分自身を集合の中の要素として持っていない集合」で、もう一つが「自分自身を集合の中の要素として持っている集合」の二つとなる。

「自分自身を集合の中の要素として持っていない集合」というのが、上にあげた例の他、椅子の集合、トラの集合、実数の集合、日本の大学の集合、素粒子の集合などなど、普通に「集合」と言った場合に自然に思いつくものである。

「自分自身を集合の中の要素として持っている集合」というものは、ちょっと難しい。
 その代表的な例は「集合の集合」である。何かしらの「集合」を、集合させた集合の事と思えばいい。
 本書であげられているのは「抽象物の集合」「不可視のものの集合」「あなたが今日考えたものの集合」「死なないものの集合」などが、それにあたるらしい。

「ラッセルのパラドクス」で問題となる例としてあげられるのは、例えば上のグループの内、「自分自身を集合の中の要素として持っていない集合」を全て集めた集合……これを仮に「集合R」として、「集合Rは、自分自身を集合として持っているかいないか」となると矛盾が生じるという事となる。
 これが「ラッセルのパラドクス」で主に問題とされる自己言及的な問題点であった。
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◆「<自分自身を集合の中の要素として持っていない集合>を全て集めた集合」が「集合R」の中に入っている場合
 →「集合R」自身が「集合R」の中に入っているにも関わらず、「自分自身を集合の中の要素として持っていない集合だ」というのは成り立たないから矛盾する。

◆「<自分自身を集合の中の要素として持っていない集合>を全て集めた集合」が「集合R」の中に入っていない場合
 →「集合R」自身が「集合R」の中に入っていないのならば、「全て集めた」という部分が間違っている事となるので矛盾する。

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 このように「集合R」はいずれにしても間違っているという事を示している。
「ラッセルのパラドクス」というのは、このような集合論において現れるパラドクスで、要は「自分自身を要素として持たない集合の全体からなる集合」があると仮定すると発生するという問題を示しているのである。

本書P.40の挿図より

 このパラドクスの解決のために編みだされたのがラッセルの「タイプ理論」であった。

 タイプ理論では、この世にあるものは全て「ある種の階層に分けられる」という考え方を導入するのである。

 タイプ理論では、ある階層に属するものには、それよりもより高い階層のものにしか帰属しないという原則が示される。

 例えば「犬の集合」を考える場合、実際にいる「この犬」の具体的な一匹一匹である「個物」が、一番低い階層「タイプ0」となる。
 その上の階層には、個々の犬の集合である「柴犬」とか「ドーベルマン」とか「セントバーナード」といった集合が来る。この階層が「タイプ1」となる。
 その上の階層となると、それぞれの犬の種別を統合した「犬種」で「タイプ2」、更にその上になると「食肉目」、「哺乳綱」……といったものがタイプ3、4などにあたるだろう。

 このような「階層分け/タイプ分け」をする事によってラッセルは、自己言及を回避できると考えたわけである。

本書P.55の挿図より

 つまり、上に書いた例で言えば「<自分自身を集合の中の要素として持っていない集合>を全て集めた集合」と言った場合、<自分自身を集合の中の要素として持っていない集合>と、「<……>を全て集めた集合」とは階層が違う、という事となる。
<……>を全て集めた集合」のほうが、<自分自身を集合の中の要素として持っていない集合>よりも階層が高い。
 だから、両者は明確に「別の集合である」と言えるわけで、そのために自己言及は発生しないことなる……といったわけである。

 さて、以上説明して来たラッセルのタイプ理論は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の中で、名指しされ明確に否定されている。

3.33 論理的シンタックスでは、記号の意味がプレーヤーになってはならない。論理的シンタックスは、記号の意味などを問題にすることなく、編成可能である必要がある。それは、表現を記述することだけを前提にすればいいのだ。
3.331 この観点から、ラッセルの「タイプ理論」をのぞいてみると、どこでラッセルが間違えているのか、見えてくる。つまりラッセルは、記号のルールを編成するときに、記号の意味を問題にせざるをえなかったのだ。
3.332 どの命題も自分自身について発言することはできない。なぜなら、命題記号は自分自身のなかに含まれていることができないからだ(これが「タイプ理論」のすべてである)。

ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(丘沢静也/訳)より引用

……といったようにバッサリと切り捨てているのである。

 両者の発言をみると、ウィトゲンシュタインのほうはラッセルよりもより記号論理的に考えているようで、個々の命題を「記号」とし、その記号の論理的関係のみを問題とするべきだといった論調になっているように思われる。
 つまりは「記号の意味などを問題にすることなく」考えるべきだとしているわけである。

 ウィトゲンシュタインのタイプ理論に対する反駁は『論理哲学論考』の3.325~3.333に説明されているので、本記事ではそこまでは深く立ち入らない。

<記述理論について>

 ぼくとしてはラッセルの二大学説のうちタイプ理論よりも、こちらの記述理論のほうが興味を惹かれた。
 そして恐らく、後に英米哲学の主流となる「分析哲学」というジャンルについては、この考え方が思想の根元としてありそうだという所まで分かった事が、本書での最大の収穫だと思っている。

 記述理論はどのような理論なのかと言う事を説明するならば、本書に引用されているラッセル自身の言葉から始めるのが分かり易いかもしれない。

ラッセル語録6
 排中律により、「現在のフランス国王は禿である」「現在のフランス国王は禿ではない」のどちらかは真でなければならない。しかし、禿であるものを列挙しつくし、次に禿でないものを列挙しつくしたとしても、当然のことながら、どちらのリストにも現在のフランス国王は見出されない。綜合を好むヘーゲル主義者なら、現在のフランス国王はカツラをかぶっていると結論するであろうが。
(「指示について」)

本書P.98より引用

排中律」というのは、命題論理の命題は必ず「真」か「偽」かどちらかになるのが命題であって「真でも偽でもない」といった中間の結論にはならない、といった原則である。

 上の例文で言えば「現在のフランス国王は禿である」という命題は、現代にフランスの国王というのはいないのだから「偽」の命題となる。
現在のフランス国王は禿である」という命題が「偽」ならば、それを否定する命題である「現在のフランス国王は禿ではない」が「真」でなければならない。
 だが、こちらの命題も見て分かる通り「偽」である(同じく「現代のフランス国王」などいないから)。

 命題「現在のフランス国王は禿である」も、それを否定する命題「現在のフランス国王は禿ではない」も、両方とも「偽」だというのは排中律に抵触する問題だ。

 では、この命題には、どこに問題が含まれているのだろうか?
 それを文章を分析する事で解決しようとしたのが、ラッセルの「記述理論」であったと言えるだろう。

 記述理論は日常言語に潜む曖昧性を暴き出す。そのために記述理論では、通常の日常言語をバラバラにパラフレーズし、特に固有名が「属性の束」である事を暴き出すのである。

現在のフランス国王は禿である」を、記述理論によって分析すると、次のような文章にパラフレーズする事が出来る。

「あるxが存在し、それは最大で1つ存在し、それは現在フランスの王であり、かつ禿ている」

 ここまで文章をパラフレーズすると、「現在のフランス国王は禿である」「現在のフランス国王は禿ではない」のどこが曖昧だったのかが分かってくる。

 単純に否定形にした「現在のフランス国王は禿ではない」と表現してしまうと、その否定形である「not」のかかる場所が間違っていたのだと判明する。

 つまり「あるxが存在し、それは最大で1つ存在し、それは現在フランスの王であり、かつ禿ている」の中で、「禿ている」にしか否定形「not」がかかっていない事が分かる。この場合は「それは現在フランスの王であり」の部分に「not」がかかるような命題にならなければならなかったのである。

 しかし、記述理論が面白いのは、このように否定形「not」は「述語にかかる否定である」という「述語否定」だけでなく、もっと簡単に「文章全体にかかる否定」でこの問題を解決する事も出来ると示した事だ。
 すなわち……

「あるxが存在し、それは最大で1つ存在し、それは現在フランスの王であり、かつ禿ている」ではない。

 これだけでじゅうぶんなのである。

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<述語否定>
「あるxが存在し、それは<最大で1つ存在し「てはいない」>、それは現在フランスの王であり、かつ禿ている」
「あるxが存在し、それは最大で1つ存在し、それは<現在フランスの王「ではなく」>、かつ禿ている」
<文否定>
「あるxが存在し、それは最大で1つ存在し、それは現在フランスの王であり、かつ禿ている」ではない。
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 ラッセルの記述理論というものは、このように文章をパラフレーズし、その文章の論理関係を明確にし、真偽の確定を可能にするのである。

 このように諸命題を明晰化する方法論と言うのは、その後の英米哲学の主流となる分析哲学にも受け継がれる方法である事を考えても、ラッセルは、ぼくからしてみればウィトゲンシュタインに並び評されるべき業績を上げていると思えるのだが、ラッセルについて特に一般向けに広く解説した書籍が少ないというのは寂しい限りではないだろうか。

 ちなみに、ラッセルが記述理論で行ったような「日常言語を分析してその曖昧性を炙り出す」という事を、ウィトゲンシュタインは後期思想の主著である『哲学探究』のメインテーマとしている。
 が、両者のやり方は今のところぼくが見る限り、大きく傾向が違っているようにも思えるのである。
 そのため今後『哲学探究』を読む際にも、こちらの理論はウィトゲンシュタインとの学説の差として、面白い対照を示しそうだという印象がある。

 しかし、ニガテな分野に続けざまに当たってしまって、まったく疲れた疲れた。


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