【28】 変化の一歩。ガン患者の闘病記から距離を置く
ガンが判明してから、ガン患者の闘病記をよく読むようになったことは先にも書きました。
詳しくはこちら⤵
闘病のあまりの壮絶さに同情し泣いたり、「同じだ」と思って共感したり、逆に知りたくなかった情報に触れて恐怖に陥ったりと、感情は揺さぶられ続けていました。
「またそんなの読んでるの?」
本のタイトルを見て、夫がやんわりと声を掛けてきます。
「だって、すごくおもしろいんだよ」
夫の言う通り、ハマっているなと自分でも分かっていても、中毒のようになっていて、やめられないのでした。
苦しい。
痛い。
しんどい。
こわい。
ガンになったことで、まざまざと感じたつらい感情のひとつひとつは、言ってしまえば、当人にしか分からない感覚です。だから医療者と話しても、家族や友人と話しても、埋められない溝がありました。
誰かがどれほど私を心配してくれようとも、悲しんでくれようとも、ガンであることを「自分のこと」としてカラダまるごと受け止めているのは、当たり前ですが、ガン患者当事者だけです。
だから、闘病記に書かれているリアルな痛み、リアルな恐怖を知ることは、苦しみや悲しみを背負って生きている当人に直に触れ、自分を慰める行為だったと思います。
しかしそんな私に、少し変化がありました。
先日、好きな作家の乳がん体験記を読んでいたときのことです。半分ほど読んだところで、「体験記とは、少し距離を置くべきかもしれないな」と初めて思ったのです。
自分の知らない有益な情報もある一方で、感情のあちこちを刺激され、もやもやしたり、嫌な気持ちになったりしていることを、自覚できたからです。
例えば、本の中では、医者が患者(著者)に向かって「ガンでも寿命を全うする人もいます」と言葉を掛けるシーンがありました。
その言葉を、著者はすんなり受け入れ流している様子ですし、医師は患者を励まそうとして言っていることが伺えます。
しかしその一文を読んだ私は、「裏を返せば、ガンになると、多くの人が寿命を全うできないってことでしょ。私はそっち側なんだよ、おそらく」などと、持ち前のネガティブセンサーを反応させてしまうのです。
他にも、「乳房を全摘出しても再発する」という言葉には、そんな事実はとうに知っているはずなのに、「念を押される」という恰好になってどんより。
要するに、励まされても、逆に事実を突き付けられても、結局ネガティブな受け取り方しかできないのです。
著者の乳がん闘病に対する飄々とした態度にも、「強いなあ。私は、泣きじゃくってばかりだった。やっぱり精神的に弱いのかな」などと卑屈な気持ちが沸き上がってきます。
こうして自ら「病の世界」に近づいてゆき、深く覗き込んで、不安を増幅させていく私。
人によっては、闘病記やブログなどを読んで、逆に元気をもらったり、励まされたりして、闘病の糧にする方もいらっしゃいますよね。ポジティブな要素を受け取れる行為なら、それをする意義があるってものです。
しかし私のように、興味半分、怖いモノ見たさで、同じガン患者の体験を覗き、勝手にダメージ受けたり、さらには、自分より不幸な人を探して「この人に比べたら、私はマシだ」などとホッとしたりもしている。
人間というのは、つくづく醜くできていますね。
告白しますが、私がまだ健康だったころのこと。
芸能人の闘病の様子を、テレビやブログなどで一視聴者として見聞きしていました。
かわいそうだね、辛いだろうね、悲しいだろうね、気の毒にね。
ご家族や、子供さんも、苦しいね。
大変だ。
そうやって、同情したものでした。
自分は健康な立ち位置から、テレビの向こうの、自分と関わりのない人の闘病を見て、憐れんでいる。
私は、誰かの不幸なできごと、不運な人の情報の経緯を見聞きして、
「あー、自分はこの人のようでなくて、本当によかった」と心の中でホッとしていたのです。
当時は無自覚でしたが、誰かの不幸を見て、自分の幸福を確認する私が、確かにいました。
私は、他人の不幸を「エンタメ」として消費していたのです、結局のところ。
「他人の不幸は蜜の味」というのは人間の脳の機能ではありますが、それを自覚したとき、あまり気分のいいものではありません。
闘病記を読む私は、感情が揺さぶられて、落ち込み、涙する。
そして、同時にどこかで「他人の不幸」という「蜜」をすすって「うめぇうめぇ」と自分の栄養にしている。
「やめよう」
半分ほど読んだあたりで、思い切って読むのを読めることにしました。
「読むことを絶対にやめられなかった」状況から、「やめようかな」と思い、実際にやめてみた。
それは、ほんの小さな一歩でしたが、私の中の「ミソちゃん」の変化です。
「ゼロを1」にするような、前進を伴うものでした。
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