岩井俊二監督 『Love Letter』 : 岩井俊二の「オカルト趣味」
映画評:岩井俊二監督『Love Letter』(1995年)
およそ、私にはそぐわない映画である。
普通ならここで、その理由を、ある程度は詳しく説明するのだが、本作の場合は、そのタイトルからして、私向きじゃないというのがわかるはずだ。なにしろ、身も蓋もなく、ド直球に『Love Letter』なのである。
もちろん、本作の原作が、「叙述トリック」ミステリで知られる折原一の小説なのであったのならば、「ラブレター」と言っても、そこにトリックが仕掛けられているのだろうと、そうした観点から興味を持つこともあるのだろう。
だが、本作の場合は、そんなに捻った話(事柄)ではなく、ごく当たり前に「ラブストーリー」なのである。
(※ ちなみに、折原一には『ファンレター』『チェーンレター』という2長編がある)
ともあれ、主役の二人が、当時は若くて人気のあった、中山美穂と豊川悦司なのだから、これはもう「トレンディドラマ」の流れをひく作品だと考えて、まず間違いない。
また、今回このレビューを書くために確認したところ、本作を製作したのは「フジテレビ」であり、当時「トレンディドラマ」を製作したのも、もっぱらこのフジテレビと、あとはTBSだ。
けれども、「トレンディドラマ」の8割方は、フジテレビの製作であり、今や慣用句になっている「月9」とは、「フジテレビ月曜午後9時枠の連続ドラマ」を指すものなのである。
ただ、今となっては「トレンディドラマ」と言っても、若い人は知らないだろうから、以下、そのあたりから説明しておくことにしよう。
見てのとおり、80年代から90年代半ばまで流行った、一種の「ドラマ形式」を指すもので、その頃の私は、20〜30代。ちょうど「トレンディドラマ」の主人公たち(俳優たち)と同世代であったから、同様に、言うなれば「恋の季節」にあったとも言えるのだが、しかし、季節は「恋」でも、私はそんな季節に流されることもなく、断固として「ゴーインにマイウエイ」のマイペースに生きていた。
無論、「トレンディドラマ」が世間で流行っているのは重々承知してはいたが、若い私は、そんな軽薄なブームになどは見向きもせず、ケッという感じで無視していたのだ。
一一ちょうど、2021年の「東京オリンピック」フィーバーを、「アホどもが、まんまと乗せられて騒いでいる」と、そう見ていたのと同じようなことだったわけだ。
ともあれ、あの時代を象徴する、一大ブームを巻き起こした、「オシャレな恋愛ドラマ」であるところの「トレンディドラマ」は、その年代からもわかるとおり「バブル景気」に浮かれた日本の「多幸感」を反映したものだったと、ひとまず、そう見ても良いだろう。
だからこそ、その「バブル」がはじけ、永遠に「右肩上がり」が続くと勘違いされていた好景気の失速が露わになり始めると、「トレンディドラマ」の「(恋愛)ファンタジー」性もまた露わなものとなって、90年台半ばには、その終焉を迎えたもしたのである。
そして、本作『Love Letter』は、そんな「トレンディドラマ」の終焉期に作られた、「映画」作品である。
だから、作品全体に「トレンディドラマ」の雰囲気は残しているものの、そこで扱っているのは『都会に生きる男女(いわゆるヤッピー)の恋愛やトレンド』ではない。
なにしろ、舞台は『小樽と神戸』であり、「神戸」と言っても「港神戸」ではなく、もっと山手の田舎の方である。
つまり、「トレンディドラマ」の舞台となった、華やかなりし頃の「東京」都心部のお話ではないのだ。
本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
つまり、本作の主人公・渡辺博子(中山美穂)は、婚約者である藤井樹を山岳事故で亡くしたのだが、上のような事情から、その婚約者の「中学生時代」の様子を、その婚約者と「同姓同名」の「クラスメートだった女性」である藤井樹(中山美穂の二役)から、手紙によって伝えてもらう、一一と、大筋そんなお話である。
したがって、このドラマの作中現在時においては、博子は婚約者を失った傷心から3年を経っても立ち直ってはおらず、婚約者の友人で、博子とも旧知の仲であったガラス工芸職人・秋葉茂(豊川悦司)の、自分への気持ちを知っていながらも、失った婚約者への想いを整理しきれず、茂の気持ちに応えられないでいる。
そもそも茂は、博子の婚約者となる藤井樹(男)以前から、博子とは神戸(兵庫)という地元つながりの友人であり、最初から博子に好意を寄せていたのだが、登山趣味で友人となった藤井樹を博子に紹介した途端、藤井樹が博子に交際を申し込み、言うならば「鳶に油揚げを攫われ」てしまうかたちになっていたのである。
だから、今の茂は、博子への好意を隠すことなく結婚を申し込んだのだが、しかし、博子の気持ちは、未だ整理がつかない。それで、博子の気持ちの整理がつくまではと、博子を見守っていた茂だったのだが、そんなところに、死んだはずの「藤井樹からの手紙(返信)」が届くという事件が起こり、そんなことから、博子の気持ちが再び過去へと引き戻されているのを感じて、「あの樹から返事が来るなんて、そんなことありえへん。もうそろそろ、君も気持ちを整理するべきや。そうや、一緒に小樽に行って、真相を確かめようやないか」というような話になったのである。
つまり、本作は、決して「折原一の叙述ミステリ」ではないのだけれど、けっこう「叙述ミステリ」的な要素があり、前半は「死者からの返信」という「ミステリアスな謎」によって牽引されるドラマとなっているのである。
したがって、「単なる恋愛ドラマ」だと思い込んで見始めた私は、当初、話の筋がよく掴めずに、少々混乱してしまった。
なにしろ、神戸の渡辺博子と小樽の藤井樹(女)は、完全な別人であるにもかかわらず、同じ中山美穂が「同じ髪型」で二役をやっているのだから、見ている方としては「中山美穂が住んでるのは、神戸なの? 小樽なの? 兵庫での藤井樹の三回忌に参列した博子が、北海道へ戻ったということなの? いや、その後に小樽に引っ越したということなの? あれっ、名前が違うな?」などと混乱してしまった。
その上、「藤井樹」が二人いて、しかしそれは男と女で性別が違い、それでいて「中学の3年間はクラスメートだった」などという「偶然」までが重なっているのだから、物語が始まってしばらくは、たぶん多くの観客と同様に、混乱せざるを得なかったのだ。
そんなわけで、本作は、主筋としては「ラブストーリー」なのだが、しかし、「物語の作り」としては、けっこう「叙述ミステリ」的なのである。「折原一」的な作品なのだ。
いや、もっと正確にいうと、「トレンディな折原一」とでもいうような作品だったのである。
で、そんな本作は、今とは違い、日本国内の賞に限られるとは言え、多くの映画賞を受賞し、韓国でまだ「日本ブーム」が起こる以前に、大ヒットを飛ばした作品なのだ。つまり、韓国での「日本ブーム」の火付け役となった作品の一つなのである。
今回、本作を見て、この「お元気ですか?」のシーンでは、思わずアントニオ猪木を思い出して、思わず笑ってしまった私なのだが、ともあれ、なぜ、こんな私が、こんな「私にそぐわない作品」を、今頃になって見たのかといえば、それは先日、岩井俊二監督の代表作のひとつである『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)を見て、岩井俊二に興味を持ったためであった。
ではなぜ、そもそも私が、岩井俊二に興味を持ったのかといえば、それは、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』などで知られる庵野秀明が、2作目の「実写映画」である『式日』(2000年)を撮った際に、主人公である「カントク」役に、岩井俊二を俳優として起用していたからである。
『式日』の方はまだ見ていないので確たることは言えないのだが、それにしても主人公の「カントク」に、庵野秀明は、多かれ少なかれ「自己投影」をしているはずであり、そんな役に、映画監督である岩井俊二を起用するからには、庵野は岩井俊二に、何らかのシンパシーを感じており、その作家性も高く評価しているのではないかと、そのあたりが、庵野秀明ファンとして気になったのである。
実際、岩井俊二は、ミュージックビデオの仕事から映像の世界に入った人であり、その独自の映像感覚が評価されて、テレビドラマを経て映画監督となった人なのだが、しばしば庵野秀明の映像は「岩井俊二と似たところがある」という指摘もあって、影響を受けているとすれば、それは庵野の方だったのであろうということになる。
したがって私は、庵野秀明研究の一端として、岩井俊二の作品を見ることにした、という経緯なのだ。
したがって、私の場合は、「ラブストーリー」に興味があって、本作『Love Letter』を見たのではなく、徹頭徹尾「アニメ」ファンとして、庵野秀明への興味から、岩井俊二にも興味も持った、ということだったのだ。一一そのあたりで私は、まったく「ブレない」人間なのである。
で、そんな徹頭徹尾の「朴念仁」である私が、本作を見た印象であり評価なのだが、率直に言って「甘ったるくて、見ていられねえや」というものであった。
まあ、「ラブストーリー」なんてものは、おおむね「そういうもの」であり、そういうところを楽しむためのものなのだが、私はそういうのが苦手だがら、それに「酔う」ことなど出来なかった。
無論これは、「趣味の問題」という側面が大きい。だから、本作を「不出来」だと評するつもりなど毛頭ないのだが、私個人は、あまり楽しめなかったのである。
たとえば、すでに書いた「叙述ミステリ」的な部分だって、「ラブストーリー」における序盤の「仕掛け」としては、なかなか凝っている、とは言えるものの、「叙述ミステリ」として見るならば、「偶然」に頼りすぎているという弱さは否めない。
まあ、岩井俊二に「叙述ミステリ」を作ろうという気持ちなど、もちろん無かったのではあるが、私としては、そんな点でも、物足りなく感じられたのである。
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そんなわけで、本作の一般的な評価に対して、私が付け加えられることは、ほとんどない。
その「付け加え」のひとつが、前記の「叙述ミステリ」性ではあるのだが、この点については、ミステリファンならば、すでに気づいてもいることであろう。
だから、たぶん、まだ誰も気づいていない点を一つだけ挙げていくなら、それは、本作にも見られる、「岩井俊二のオカルト趣味」ということになる。
本作で描かれる「中学生時代の、2人の藤井樹」のエピソードとして、2人がクラスメートのからかいによって、そろって「図書委員」になるのだが、そうした図書室でのエピソードのひとつに、私はそのヒントを見つけたのだ。この点の意味するところに気づいた者は、ほとんどいないはずである。
男の(後に渡辺博子の婚約者となる)藤井樹は、本来は特に読書家というわけではないようなのに、なぜか、いろんな本たくさん借りる、という描写がなされている。
なぜそんなことをしたのかといえば、じつは、そうした滅多に借りられることのない本の「図書貸出カード」の最後に、自分の名前を残したいという「お遊び」だったという真相が、作中であっさりと明かされるのだ。
滅多に借りられることのない本だからこそ、その借出者名欄の最後に、自分の名前が長く残る蓋然性が高いのである。
つまり、男の藤井樹は、読書家ではないのだが、図書委員になって、内心では好きだった、女の藤井樹との図書室での仕事の際に、本来の図書委員の仕事はせずに、そんなお遊びに興じていた「男の子」だったのである(なぜ、そんなことをしたのかは、ラストで明かされるのだが、それをあらかじめ推理するのは、ほとんど不可能だ)。
ところが、そんな、男の藤井樹が、なぜか一生懸命に本を読んでいる、図書室のシーンが二度ほどある。
その、後の方。ある女子が、男の藤井樹に気のない女の藤井樹に仲介を頼んで、図書室で、男の藤井樹に告白をするくだりがある。当然のことながら、その女子をふった、男の藤井樹は、その後、読んでいた本を、図書室の本の整理作業をしていた女の藤井樹に、少し怒ったような様子で返却して、図書室を出て行ってしまう、というシーンがある。
で、問題は、この本なのだ。
私は、この本の返却シーンで、その表紙が一瞬映った際に「あれっ?」と気がついた。
この本は、もしかして、ウィリアム・ピーター・ヴラッティの『エクソシスト』ではないかと、そう気づいたのだ。
それで、DVDの映像を止めて確認したところ、果たせるかなそれは『エクソシスト』の邦訳単行本だったのである。
で、なぜ、そんなことに気づいたのかと言えば、かつて私は、この「邦訳初版単行本帯付完本」を探求して、やっとコレクションに加えたという過去があったからだ。
そのことについては、下の、映画『エクソシスト』のレビューに譲るが、要はそれほど、探し求めた本だったので、その表紙の色合いに、自動的に頭脳が反応した。
歳をとって視力が衰えたとは言え、こと「探究書に対する動体視力」の方は、まったく衰えてはいなかったのである。
そんなわけで、「自慢話」はこれくらいにして、ここで肝心なのは「岩井俊二のオカルト趣味」である。
男の藤井樹が『エクソシスト』を読んでいたというだけならば、それは「偶然」だということもありえよう。
だが、映画『エクソシスト』の公開が「1973年」であり、邦訳単行本の刊行もたぶん同年で、文庫本(現在の創元文庫ではなく、単行本の版元と同じ新潮文庫)も数年後の1980年ごろには刊行されていたはず。
だとすれば、映画『Love Letter』の制作公開された頃には、邦訳版小説『エクソシスト』は、刊行からすでに15年以上も経っていたのだから、このラブストーリーには不似合いな本が「たまたま選ばれた」とは、少々考えにくいのである。
それに、先に紹介した「ストーリー(あらすじ)」にもあるとおり、渡辺博子が山へ向かって叫んだ「お元気ですか?」という言葉を、肺炎の高熱でうなされていた入院中の、女の藤井樹が「うわごと」で(共時的に)つぶやくというのは、明らかに「超常的な現象」であり、この点についての合理的な説明は、作中ではなされていないのだ。
また、すでにレビューを書いている、前記の『リリイ・シュシュのすべて』にも、いささか「オカルト的な描写」があったことを考え合わせれば、岩井俊二には「オカルト趣味」があると考えるのが合理的であり、そのため、本作『Love Letter』の中でも、男の藤井樹が真面目に読んでいる本(の1冊)として、岩井俊二自身が好きな『エクソシスト』」を選んだのではないかと、そう合理的に「推理」し得たのである。
そんなわけで、「ラブストーリー」とは縁もゆかりもない「ミステリとホラー」に関わる『Love Letter』読解となってしまったが、営業的理由からの要請という側面の少なくない「ラブストーリー」としての物語の筋とは別に、むしろ、こんなところにこそ、岩井俊二の作家的個性があると、そう見るのが、むしろ正しいのではないだろうか。
だとすれば、本稿は「作品論」としてはいささかいびつではあれ、ひとつの「(物語)作家論」にはなり得たとは思うのである。
(※ ちなみに、ラストで藤井樹(女)のもとへ届けられる本が、プルーストの『失われな時を求めて』なのは、明らかに本作のテーマに合わせたもので、故意に本のタイトルを見せている)
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ちなみに、これは「暗合」とも言えない「偶然」にすぎないのだが、主人公の渡辺博子を見守る秋葉茂を演じた豊川悦司は、私と同年の「1962年」生まれである。
同年生まれの有名人として、私はしばしば「宮崎勤、上祐史浩、松田聖子」の3人を真っ先に挙げるのだが、そこでのポイントは、(イケメン俳優の豊川悦司とは違い)この3人は、かならずしも「世評が良いわけではない」という点だ。
だからこそ、同年生まれとして「豊川悦司」を挙げれば、つまらない自慢話の一種として「大違いだ」と笑われるだけだろうが、上の3人だと「たしかに、〝濃い〟という共通点はあるな」と、そう感心させることができる。
だが、ここで、ちょっと興味深いのは、本作『Love Letter』では、雪山で滑落して大怪我を負い、死にかけていた(男の)藤井樹が、なぜかその死の間際に、松田聖子の「青い珊瑚礁」を口ずさんでいたというのが、秋葉茂=豊川悦司の「セリフ」として語られる点である。
秋葉は「なんであの時、樹はあの歌を歌ってたんやろうな? あいつ、松田聖子を嫌い抜いとったのに」と、そう語るのだ。
なぜその時、藤井樹が「青い珊瑚礁」を歌ったのか、その説明も、本作中では、結局語られないままなのである。
したがって、このあたりもまたたぶん、岩井俊二の個人的な趣味に由来する、半ば直観的な描写なのであろう。
ちなみに、岩井俊二は、私の一つ下の「1963年」生まれの、「同世代」である。同じ「時代の空気」を生きた人なのだ。
一一「だから、そのあたりの感覚もわかる」という側面も、あったのかもしれない。
その点では、私と同年の3人の中に、「オウム真理教の幹部」であった上祐史浩がいたというのも、決して「偶然」ではなかったのであろう。
(2024年10月15日)
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