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テリー・ジョーンズ監督 『モンティ・パイソン / ライフ・オブ・ブライアン』 : 笑い飛ばすと殺されかねない〈この時代〉に

映画評:テリー・ジョーンズ監督『モンティ・パイソン/ライフ・オブ・ブライアン』

『モンティ・パイソン(Monty Python)は、イギリスの代表的なコメディグループ。グレアム・チャップマン、ジョン・クリーズ、テリー・ギリアム、エリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリンの6人で構成される(ただし、ニール・イネスとキャロル・クリーヴランドを「7人目のパイソン」と表現することもある)。明らかにモンティ・パイソンを話題にしている場合、単にパイソンズと言うこともある。
1969年から始まったBBCテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で人気を博し、その後もライブ、映画、アルバム、書籍、舞台劇等で活躍の場を広げ、その爆発的なインパクトはメンバー個人をスターの座に押し上げた。そのスケッチとスケッチの境界線をなくした革新的な構成と完成度の高いスケッチの数々は、アメリカのコメディ番組『サタデー・ナイト・ライブ』をはじめ様々なジャンルのポップ・カルチャーに大きな影響を与え、「コメディ界におけるビートルズ」と表現された。その不条理なスタイルは「Pythonesque」という造語で表され、『オックスフォード英語辞書』にも収録されている。』(ウィキペディア)

いきなり、ウィキペディアの引用で恐縮だが、もはや「モンティ・パイソン」を知らない世代の方が多かろうから、基本的な紹介をウィキペディアの引用で済まさせていただいた。

『空飛ぶモンティ・パイソン』の日本でのテレビ放映は1976年であるから、私が中学生の頃なのだが、当時の私は「モンティ・パイソン」の「笑い」には、ついていくことができなかった。おなじようなものなら『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』や『8時だョ!全員集合』の方が、子供心に素直に楽しめた。
それで「モンティ・パイソン」には、なんとなく「合わないなあ」という印象があって、長らく視ようとしないまま、今日に至った。

今回、本作『ライフ・オブ・ブライアン』を見たのは、本作が「キリスト教」を笑いのめして、公開当時たいへんに物議をかもした作品である、と聞いたからだ。
私は、ここ10年ほど、趣味でキリスト教の研究をしていたので、「あのモンティ・パイソンが、キリスト教を扱ったのなら、そりゃあ、ただでは済まないだろう」と思い、そうした観点から興味を持ったのである。

結論から言えば、やはり「モンティ・パイソン」の「笑い」は、私の趣味ではなかったので、この作品も、映画として特に面白いとは思わなかった。
だが、これは、この映画がダメな作品だという意味ではなく、あくまでも「趣味の違い」だという意味である。

簡単に言えば、私の好みは「重厚長大」で「正面突破」。私は「無神論者」として、キリスト教を完全論破し否定するために、わざわざ「聖書」を通読し「神学書」まで読む、といったタイプである。

ところが、「モンティ・パイソン」は、そうではない。
彼らは、いかにもイギリス人らしく、私のような「野暮」な態度を採らない。つまり「マジにならない」「ムキにならない」「怒らない」。あくまでも「紳士的」な「アイロニー(皮肉)」と「おちょくり」と「ブラックユ−モア」と「哄笑的な朗らかさ」に徹するのである。

言い変えれば、彼らは、敵に対して「裸のお尻を向けて、自分でお尻をペンペンしてから逃げていくという、おちょくり」で戦うタイプなのだが、私の場合は、敵を「正面から斬りつける」のが趣味なのだ。
これでは、趣味の合おうはずもない。ただ、私は「戦い方にもいろいろあって良い」と思うので、「モンティ・パイソン」の「イギリス紳士流」のやり方にも、心から敬意を表したいと思う。手法はどうあれ、たしかに彼らは、とても巨大で危険な相手に挑んだからである。

しかし、本作で注意しなければならないのは、本作は「イエス・キリスト」を批判しているわけではなく、「キリスト教(信者や教会)」をからかい、批判しているだけだ、という点である。

本作の冒頭に近いところで、イエスによる「山上の垂訓」のシーンが描かれるが、イエスが映るのは、ほんの一瞬で、あとは集まった群衆の後ろの方で、イエスに対して「もっと声を出せ、聞こえないぞ!」などとヤジを飛ばしている、あまり行儀の良くない民衆たちの姿が描かれている。

普通の「キリスト教」映画であれば、イエスは主人公か、主人公の信ずる「神」という重要な役どころとして描かれるのだが、この映画でイエスが登場するのはここだけで、あとはもっぱら「キリスト(救済者)」と間違えられた男・ブライアンのドタバタ悲喜劇を描いている。

ブライアンは、とても真面目で優しい男なのだが、その性格が災いして、彼は、旧約聖書によって予言された「キリスト」だと間違われてしまう。
ブライアンは、神だなどと崇められたくなんかないのに、勝手に彼を「キリスト」だと思い込んだ「妄信者たち」が彼を追い回したあげく、彼は不幸にも十字架に掛けられ、殺されてしまうのである。

だから、悪いのは「イエス・キリスト」でも「ブライアン」でもなく、さしたる根拠もないのに、ただの人であるブライアンを「神」だと信じて奉り、それに依存しようとした「妄信者としてのキリスト教徒(ユダヤ教キリスト派)」たちだったと言えよう。
その意味で本作は、「イエス・キリスト」を批判してはいないが、「キリスト教」批判であり、それに止まらず、すべての宗教信者に共通するものとしての「妄信」批判であった。
そしてパイソンズは、このテーマを「自分の頭で考えよう」だと語ったのである。

本作で印象的なのは、最期の十字架刑のシーンだ。
正確には、十字架にかけられ、さてこれから2日間放置されるというシーンで、ブライアンと一緒に十字架に掛けられた十人ほどの罪人たちが「Always Look on the Bright Side of Life(いつも人生の明るい面を見よう)」(作詞作曲・テリー・ジョーンズ)という歌を、みんなで歌いだすところだ。
刑死という、どうしようもなく悲惨で暗い場面で、彼らは陽気に「いつも人生の明るい面を見ようよ」と歌うのだが、「その人生が終っちまうんだよ!」という正当なツッコミを笑い飛ばしてしまうところが、彼らの持つ「アイロニカルな笑い」の、比類ない力だったのであろう。

現代は、イスラームの復権以後、宗教を笑い飛ばせない雰囲気が蔓延しているから、宗教を批判するとしても、私のように「真正面から論破」という形を採るしかないのだが、しかし、これはあまり健康な状態だとは言えないだろう。

理屈はどうあれ、ひとまず「そりゃ、おかしいだろう」と、まさに腹を抱えて笑い飛ばすことのできる状態こそが、本当の意味での「人間的に自由な状態」なのではないだろうか。
そして、そうした意味で「モンティ・パイソン」の「笑い」は、けっして軽んじることの出来ないものなのである。

一一と、こんな具合に「重厚」に論じてしまうところが、私の弱点なのだ。
きっと、パイソンズは、こんな私をも茶化して、笑い飛ばすことだろう。それはまことに、本望である。

初出:2020年8月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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