映画 『ヒトラーのための虐殺会議』 : ここに同席できるくらい、 出世したいよね?
映画評:マッティ・ゲショネック監督『ヒトラーのための虐殺会議』
本作は、ドキュメンタリー映画ではなく、劇映画だ。つまり、役者が演じている、ドラマ形式の映画である。
だが、これがドキュメンタリー映画ではないところには、たしかに価値がある。何か?
一一それは、この「非人道的な会議」に参加した人たちが、いずれも生身の「普通の人」であり、彼らの犯した過ちもまた、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを評して言った、「凡庸な悪」であったということが、とてもわかりやすく「感じられる」作品になっているからだ。
つまり、ここに描かれた人たちは、かぎりなく「私たち」に近く、会社で当たり前に見かける上司同僚たちと、何ら選ぶところのない人たちだということである。
敗戦後のドイツから、秘密裏に南米アルゼンチンへと逃亡して、偽名で身を潜めていたアドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人国家イスラエルの諜報機関モサドによって拉致され、イスラエルへと移送される。そして、彼の戦争犯罪を裁くためにイスラエルで開かれたのが、世にいう「アイヒマン裁判」である。
アメリカへの亡命ユダヤ人であった思想家のハンナ・アーレントは、雑誌取材のために、この会議の傍聴に派遣され、その結果をのちに『エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告』という著書にまとめるが、そこで衝撃をもって受け止められたアーレントの「アイヒマン理解」こそが、「凡庸な悪」というものだった。
「凡庸な悪」とは、どういう意味なのか?
それは、「悪」とは、必ずしも「悪魔」のような顔をしておらず、凡庸な私たち一般市民となんら変わるところのない顔をしている、という事実を指すものだ。
つまり、ナチスドイツにおける「ユダヤ人最終解決」問題における責任者の一人であったアイヒマンは、決して「血も涙もない殺人鬼」でもなければ「狂人」でもなかった、ということだ。
彼はただ、ナチスドイツの時代に生きて、その中で「社会的に認められる、有能な人間たろうとしただけの、当たり前に凡庸な男」であった。
「地位や名声やカネが欲しい」というのは、ほとんど誰しもが持っている欲望だろう。
だから、多くの人が、何の疑問もなく「出世」を望み「名声」を望み、人からの「羨望の的」になるような人間になりたいと望む。
会社では、平社員ではなく、できるかぎり上の立場に立ちたい。上司から命令されて嫌々仕事するのではなく、自分の考えを持って、部下たちを手足のように使うことで、自分が目指すものを実現したい。
有名タレントになって、ファンからキャーキャー言われたい。
売れっ子小説家や売れっ子マンガ家になって、金儲けをし、「先生」と呼ばれて、下にも置かれない扱いを受け、その名声と作品を、後世にまで残すような活躍をしたい。
ネットに、文章や写真をアップして、数多くの「イイね」をもらいたいし、それが金儲けになるのであれば、それに越したことはない。また、こうした活動をきっかけとして、作家として評価され、有名になり、人からチヤホヤされ、テレビにも出て、憧れの有名人たちと同等に対談できるような人間になりたい。
一一こんな欲望を持っていない人は、おそらく一人もいまい。
しかし、これが「当たり前」のことだからといって、その欲望のままに「立身出世」した先に待っているものこそが、大なり小なりの「ヴァンゼー会議」なのである。
なるほど、私たちの多くは「ユダヤ人絶滅」などという、大層なことは考えないだろう。
だが、金儲けのために「バカな消費者から、カネを巻き上げる」程度のことは、何の痛痒もなく行なっている。
「いや、私はやっていない」という人は、自分が、何で稼ぎ、何を買い、何を食っているのかということを考えたことのない、きわめて「凡庸な人間」だということでしかない。
この「評価」に対し、その人は「当たり前のことを当たり前にすることが悪なのであれば、私たちは生きられないではないか」と抗弁するかもしれないが、それこそが、アイヒマンが裁判で口にした「(自己正当化の)言い訳」だったのである。
私は、40年間、警察官をやってきた人間だが、その職務を果たす上で、誰にも「犠牲」を強いなかった、などとは言わない。
例えば、私は、最低限の成績を上げるために「交通反則切符」を切ったが、これだって「交通違反を減らす」という大義名分があるとは言え、結局のところは、自分の食い扶持を稼ぐために、違反者たちに犠牲になってもらっただけだ。
しかし、私は、給料がもらえないのであれば、決して「交通違反の取締まり」などしない。
仮にその権限を与えられても、ゼニにもならないのに、そんな人から嫌われるようなことはやりたくない。どっちにしろ、違反する奴は違反するのであり、ここまでやれば違反が無くなるなどということはないのだ。
そもそも私は、給料をもらって警察官をやっていたのではなければ、「交通違反」なんていう「小さな問題」には興味がなく、「他にもっとやることがある」と考え、そちらについては、無報酬でも喜んでやったことだろう。例えば、このレビューなどがそうだ。
私はこのレビューで、誰もが持っている「凡庸な悪」について「啓蒙」したいと考え、それが大切だと考えるから、カネにもならないこんな文章を書いているわけだが、そんな私には、「交通違反」など、もはや興味の外なのだ。
だが、私が「警察官」として、他人に強いた「犠牲」がこの程度で済んだのは、私の場合は、若くして自覚的に「責任回避」目的で「出世」を拒み、生涯「いち(平)巡査」で通したからである。
また同様に、私が「文章書き」を「趣味」に止めて、金儲けの具にしようとはしなかったのも、できるかぎり「取れない責任など負いたくなかった」からに他ならない。
無論、文章を書き、意見を公にすれば、それに関しての「責任」は負わなければならない。しかし、実際のところ、ささやかだとは言え、いったん社会に与えた影響の責任など、後になってから帳消しにすることなど不可能なのだ。
であれば、せめてもの「アリバイ」として、私は「まったくの善意から文章を書き、それを公けにしている」という明確なかたちを採りたい。
だから、「原稿料」がもらえる原稿依頼をうけた時でも、まず「原稿料はいりません」と断る。それで、先方が「困る」というのなら、「では、仕方ないので、その分、出来上がった本(雑誌)を下さい」と言う。私はそれを、人に配ることで、また自分の意見を世間に広めているだけで、決して「金儲け」でやっているわけではない一一ということになるからである。
しかし、こうした、ある意味で「非凡」な行動は、「凡庸」に結婚して、「凡庸」に子供を作っていたら、きっとできなかったことだろう。
ひとまず、妻子を食わせ、子供に教育を与えなければならないのだから、正当にもらえるカネを「いらない」と言える人など、滅多にいないのだ。
例えば、国からの「各種給付金」の財源がどのようなものかを、人は深く考えることもなく、合法的に受け取ることだろう。スポーツ選手は「華やかなオリンピック」の舞台に憧れ、可能であれば、喜んでその華やかな舞台に立つだろう。だが、その「オリンピック」を開催するためのカネがどのようなもので、そのために犠牲になった人がどれほどいるのかについては、うすうす感づいていたとしても、知らないフリをしてやり過ごすだろう。また、そんな人だって、この映画について、もっともらしいコメントをすることなど容易に可能なのだが、一一しかし、これこそが「凡庸な悪」なのである。
生涯「平巡査」であった私でさえ、生きるためには、それなりの犠牲を、見も知らぬ人たちに強いてきた。
ましてや、私と同期で、「警視正」にまで出世した男などは、その自覚のある無しにかかわりなく、どれほどの多くの犠牲を、見も知らぬ人たちに強いてきたか、強いずにはいられなかったことか。
少なくとも、「警視正」にまでなったあいつは、「ヴァンゼー会議」に呼ばれれば、それを「社会的成功の証し」として、喜んで参加しただろう。
そして、そこでの議題が「ユダヤ人の絶滅は、是か非か」ではなく、「ユダヤ人絶滅のための効率的な方法」であってみれば、彼は決して「ユダヤ人絶滅」という「会議の前提」に反対したりはしないはずだ。
なぜならば、彼は、「常識人」であり、「有能」であり、「凡庸」だからである。
是非とも、この映画を観て、自分が「どのタイプ」かを、確認してほしい。
もしもあなたが「自分は、こんな会議には出られるほど有能ではない」というのであれば、それは結構なことだが、しかし、それなら貴方には、ユダヤ人の「銃殺係」ではなくとも、「移送係」や「遺品管理換金係」でもやってもらうことになるだろう。
(2023年2月22日)
○ ○ ○
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・