ジャック・ドゥミ監督 『シェルブールの雨傘』 : 恐るべし、ミシェル・ルグランの魔笛
映画評:ジャック・ドゥミ監督『シェルブールの雨傘』(1964年、フランス・西ドイツ合作映画)
『シェルブールの雨傘』というタイトルは、子供の頃からよく耳にしていた。だが、それ以上に耳に馴染んでいたのは、ミシェル・ルグランによる本作の主題曲で、私はこの情感あふれる曲を、子供の頃にあちこちで耳にしながら育ったと、そう言っても良いくらいである。
ただし、子供の私にとっては、この曲が映画『シェルブールの雨傘』の主題曲だという認識はなかった。ただ、物悲しくもロマンティックな「良い曲だなあ」という印象だけを持っていたのである。
「Wikipedia」によると、次のようなことになる。
今回、本作を見たのは、一昨年初めて見たゴダールに始まる、映画への映画史的な興味の一環で、ひとつは、この有名な「フランス映画」を見ておかなければならないということと、またひとつは、最近知ったことだが、この作品の監督である、ジャック・ドゥミもまた、ゴダールの代表される「ヌーヴェル・ヴァーグ」の一人だったということからである。
本作についても、ほとんど予備知識なしで見た。知っていたのは、「監督がジャック・ドゥミのミュージカル作品」だということくらいで、鑑賞するまでは、あの懐かしい曲が本作の主題曲だとは、まったく知らなかったのだ。
そんなわけで、実際見てみて、どうであったかと言うと、なるほど「カンヌのグランプリを取る」というのもわかるし、「名作と呼ばれる」というのもわかる。
ただし、「完璧な名作」なのかと言えば、注文をつけたいところは、いろいろある。
主演のカトリーヌ・ドヌーブの面長の顔が、私の好みではないといった、個人的な理由とは別に、今の目で客観的に見て、いろいろ難点はあるのだ。
しかし、にもかかわらず、「ロマンティック悲劇としての、そのわかりやすさ」と、何より「ミシェル・ルグランによる主題曲の、際立った素晴らしさ」という2点において本作は、今の言葉で言えば、多くの観客に「つき刺さった」作品であったし、それも納得のできる作品となっていた。要は、前記の2点が、本作の「七難」を、すべて隠したのである。
(※ もちろん、公開当時のヨーロッパでは、「アルジェリア戦争」の記憶が、まだ戦後2年で生々しかったということが大きい。だが、今となっては、それは作品評価においては、ほとんど関係ないことだし、ましてヨーロッパ以外の観客にはわからない)
そうした意味で本作は、冷徹に突き放して見るならば、きわめて「通俗的なメロドラマ」でしかなかったと、そう言うこともできるだろう。「切なく酔わせる」の一語に尽きる作品だったのである。
本作の第一の特徴は、上の「紹介文」にもあるとおり「すべてのセリフが歌われる」という点である。
私は、あまり「ミュージカル映画」は見ていないのだが、これまで見たいくつかの作品(例えば、内容的に本作の影響が色濃い、私の大好きな『ラ・ラ・ランド』)では、通常の会話はそのままのお芝居で、感情が高まるシーンなどで、登場人物たちが歌ったり踊ったりというものが多かったと思う。
ただ、何しろ「ミュージカル」には詳しくないから、「こういう作品もあるのか」と思いながら鑑賞したのだが、後で読んだWikipediaの説明にあったとおり、やはり、セリフまでぜんぶ歌うミュージカル作品というのは、めったにないようだ。
で、実際、この「すべてのセリフが歌われる」という形式には、いささか違和感があった。
「様式の統一」ということは、むしろ私の好みではあるのだけれども、やはり「ぜんぶ歌う」というのは、無理のある「様式の統一」だと感じられたのだ。
例えば、主人公ジュヌヴィエーヴの母が経営する雨傘店「シャルブールの雨傘」に、郵便配達夫が訪れて、郵便物をジュヌヴィエーヴの母に手渡す際の、「こんにちは奥さん、郵便です」「あら、ありがとう」のふた言で終わってしまうような、本筋とは関係のない「日常会話」までも、すべて「節をつけて、歌うように話す」。
当然、この部分だけで、ひとつの曲になっているわけではない。バックにBGMが流れているので、それに合わせるようにして「歌うように話す(喋る)」だけなのである。
つまり「歌う必要性などないシーン」までもすべて、歌うように喋るために、少々「無理矢理感」が出てしまうのだ。
そんなわけで、「ここは、普通に喋った方が良かったのでは?」と感じるシーンが少なくなかったのだが、まあ「形式の統一」ということだから、致し方なかったのではあろう。
だがまた、この形式には、明らかに問題があった。端的に言えば、セリフ表現における「制約」となっていたのだ。例えば「怒鳴れない」。
大雑把に言っても、「喜怒哀楽」の「喜哀楽」は無理なくやれても、「怒り」はやりにくい。「怒り」の芝居を歌いながらやられても、リアルな怒りを感じることはできす、あくまでも「怒っていますよ、というお芝居」でしかなくなるのである。
で、実際のところ、この作品には「怒り」を率直に表現したセリフはない。つまり、「怒鳴らせることができない」から、わかりやすく「怒らせる」のはやめて、それを「不快」とか「悲しみ」の感情にズラして表現したのではないかと疑われるのだ。
だが、だからこそ、感情表現がリアリティを欠き、結果として、説得力に欠けるシーンが少なくないのである。
そのあたりの説明をするためにも、ここで本作の「ストーリー」を結末まで紹介しておこう。
あらかじめ断っておくと、四部構成の本作は「戦争が、若い二人の運命を引き裂いた悲恋物語」である。したがって、ハッピーエンドではない。
この物語で、多くの人が引っかかるのは「ジュヌヴィエーヴの心変わり」である。
ギイに「召集令状」が届いたと聞いて、17歳という年齢相応なのか、いささか子供っぽいのか、ジュヌヴィエーヴはギイに「戦争になんか行かないで」「私があなたを匿ってあげるから」「(兵役期間の)2年も待つなんて出来ないわ」などと涙ながらに訴え、ギイから「そんなことは不可能だ。僕はいつでも君のことを忘れないから、君も僕のことを待っててくれるね。手紙を書くよ」というようなことを言って優しく宥め、最後は戦場へと旅立っていくのである。
で、そんな具合にギイに「ベタ惚れ」だったはずのジュヌヴィエーヴが、彼の子供を産み、育てているうちに、(戦時の通信事情によって)ギイとの手紙のやり取りがうまくいかないといったことがあるにせよ、そのうち「彼のことが遠い人に思えてきた」などと言い出して、そこへ母親から、誠実なカサールが結婚を求めていると知らされると、「彼(カサール)が誠実な人なら、私の妊娠を受け入れてくれるでしょうし、そうでないのなら、それまで。でも、もしも受け入れてくれたら、私はどうすればいいのだろう」などと迷い、結局はカサールと結婚してしまうのである。
一一そこで、少なくとも「現代日本人の多く」は、「2年くらい待ってやれよ。戦死の知らせがあったわけでもないのに。手紙のやりとりがうまくいかないことによる不安があったとしても、それくらいのことで、それはないだろう」という思いを禁じ得ないのだ。
「あれだけ、泣いてギイを困らせたくせに、なんて女だ」と、どうしてもそう思えてしまう。
もちろん、これはジュヌヴィエーヴの「若さゆえの未熟さ」ということもあるだろうし、「現実には、こんな人も少なからずいる」かも知れない。
だが、「恋愛映画のヒロイン」の行動としては、かなり説得力を欠いているのである。
たしかに「男が戦場から戻ってみると、結婚を誓い合った女は、すでに人妻となっていた」というのが、本作を「悲劇」にする中心的な要素なのだから、いずれにしろ、ジュヌヴィエーヴはカサールと結婚しなければならなかった。そうしないと「お話にならない」のだが、しかし問題は「もう少し、説得力のあるディテールを加えることはできなかったのか?」という点である。
しかし、事実としてそれが無いから、特に、戦争体験のない観客の場合「なんだよ、この女!」ということになってしまい、「戦争が、若い二人の運命を引き裂いた悲恋物語」の「悲劇性」が、その「そちら(悲劇)へ無理やり持っていった感」によって、減殺されてしまうのだ。
言い換えれば、今となっては「作劇的に難がある」ということになるのである。
で、なんでこんなことになってしまったのかと考えると、結局これは、すべてのセリフを「歌う」という形式で統一してしまったことの無理がそこに出た、ということなのではないだろうか(そして、「戦後まもないフランス」という特殊状況に、作り手が無意識に依存していた)。
たしかに、「喜び」や「悲しみ」の感情を表現するのに「ミュージカル」形式は向いているが、「怒り」の感情表現にはリアリティが無くなってしまうことからもわかるとおり、「繊細な感情の機微」や「細かい事情説明」ということには「歌うように喋る」という形式は、やはり不向きだったのである。
だから結局のところ、「感情表現」が「大味」になってしまい、結果として、「ジュヌヴィエーヴの心変わり」に説得力を持たせられなかったのではないだろうか。
ただし、この作品が、今もなお「ミュージカルの名作」として評価されるにいたったのは、すでに別々に結婚し、子供も持っていた「元恋人たちの再会するラストシーン」が、あまりにも「ドラマチック」に仕上がっており、人々の胸を締めつけたからであろう。
「運命に翻弄されて、結ばれることのなかった恋人たちは、その一夜の、刹那の再会を持って、本当の別れを告げる」という、いかにも絵になる「ある雪の一夜」のラストだ。
だが、端的に言わせて貰えば、このラストが、ここまでの「名シーン」になりえたのは、ほとんど9割がたは、ミシェル・ルグランによる「主題曲」おかげである。このあまりにも「情感に訴える名曲」が、ラストに向かって、二人の再会と別れを盛り上げたから、本作を見る者は、この曲が盛り上げる(演出する)「情感の波」に、まんまと拐われてしまったのだと思う。
もちろん、BGMも含めて作品だというのはわかっているが、このラストに、この曲がかかっていなかったら、つまり「映像とお芝居」だけだったなら、見る者はここまで感動しなかったのは確実だし、また「別の曲」だったら、本作は、ここまでの「名作」にはならなかっただろう。
私たちがここで思い出すべきは、ある時期から「ムードを作るためのBGM」を拒否した、ストイックなロベール・ブレッソンの存在なのだ。
つまり、本作は、作品全体を通して見れば、「わりとよくある話」だし「ミュージカルとして、特に楽しいわけではない」し、「作劇的にも粗のある作品」なのだが、そうした「弱点」を、この「主題歌」が、最後の最後で、ぜんぶ押し流してしまったが故の「傑作」だと言えるのである。
したがって本作は、「ジャック・ドゥミ監督の傑作」と言うよりも、むしろ「ミッシャル・ルグランの、音楽的呪縛力を見せつけた傑作映画」と呼ぶほうが、正確な評価なのではないかと思う。
そしてまた、あえて野暮に、「人間工学」的に言わせてもらうならば、人間の「感情」とは、「音楽」によって、斯くも容易く揺さぶられるものであり、影響を受けるものだという事実を、本作は異論の余地なく実証してみせた作品だとも言えるだろう。
「理屈」ではない「音楽」の素晴らしさも、そして、その「恐さ」さえも、本作は、それを実証してあまりある作品だったのである。
(2024年7月1日)
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