マルコ・ベロッキオ監督 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 : 何が「元凶」なのか?
映画評:マルコ・ベロッキオ監督『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』(2023年、イタリア・フランス・ドイツ合作)
本作は、実話である「エドガルド・モルターラ誘拐事件」をもとにして作られた映画であり、特定の原作があるわけではない。同事件に関するヴェットリオ・メッサーリの著作(未訳)を読んだ、マルコ・ベロッキオ監督が、この歴史的な事件に興味を持ち、自分でもいろいろ調べて書き上げたオリジナル脚本を映画にしたのが本作なのだ。
本作の宣伝文句にもあるとおり、ベロッキオとは別に、アメリカのスティーブン・スピルバーグが、同じ事件の研究書である、デヴィッド・I・カーツァー著『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』(邦題)を読んでこの事件に興味を示し、その映画化権を取得したという話を聞いて、ベロッキオはいったんは、この事件の映画化を断念している。
「原作本」が違うのだから、やろうと思えばやれないこともなかったのだろうが、流石に、史実をもとにしているが故に「ほとんど同じ内容の映画」を、わざわざ撮るというわけにはいかなかったのであろう。
で、かくいう私は、帯の惹句に『スピルバーグ映画化!』とあり『ピリッツァー賞受賞の歴史学者が描く、19世紀イタリアを揺るがす大事件』と紹介されていた、前記の、デヴィッド・I・カーツァー著『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』の邦訳版(早川書房・2018年)を、その刊行時に読み、Amazonに次のようなカスタマーレビューを書いていた。
この時は、スピルバーグが映画化の予定だという話だったので、それに期待していたのだが、スピルバーグの企画は(映画パンフの記述によると)2019年には頓挫したようで、そこから再びベロッキオが映画化に向けて動きはじめ、ついに本作を完成させたという経緯のようである。
たしかにこの事件は、ハリウッドで映画化するには、いささか「渋すぎて」企画が通らなかったというのは理解できるところだし、こう言ってはスピルバーグに申し訳ないのだが、スピルバーグによる映画化が実現しなかったおかげで、本作が作られたというのなら、それで「結果オーライ」だったと、個人的にはそう思う。アメリカで、スピルバーグがこのネタを撮っても、ここまでの「雰囲気」は出せなかっただろうからだ。
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マルコ・ベロッキオ監督は、御歳84歳のベテラン「社会派」映画監督だと、そう言って良いだろう。
少なくとも、ヨーロッパではあまりにも有名な「モーロ元首相誘拐殺人事件」を二度も扱っているあたりが注目される。
また、このへんについては、映画パンフレットに寄せられた、四方田犬彦の紹介がわかりやすいので、こちらも引いておこう。
そんなわけで、本作は、バチカンのお膝元であるイタリアの監督だからこそ撮れたという部分が、たしかにある。
この事件は、今だって、イタリアという国の、建国の歴史に大きな影を落としているのだし、そもそも、ベロッキオ監督の「マルコ」という、イタリア人にはありふれた名前(「マルコ・ポーロ=マルコ・パウロ」など)は、「聖書」の四福音書のひとつ「マルコによる福音書」の記者マルコにあやかったものだというのは、ほぼ間違いのないところなのだ。
ベロッキオの両親としては、まさか息子が、将来「共産党員」の無神論者になるとか、カトリック教会の「黒歴史」を映画にするなどとは、夢にも思わなかったことであろう。
しかしながら、イタリアとカトリック教会とは、切ってもきれない縁で結ばれた関係にあるからこそ、他国民には窺い知れない、根の深い「愛憎」といったものもあるだろうし、だからこそ、アメリカでスピルバーグが撮るのとは、良かれ悪しかれ違ったものになったはずなのである。
さて、本作の「あらすじ」は、次のようなものである。
当時のイタリアは、まだ統一がなされておらず、多数の小国が乱立しており、その小国はさまざまな外国出身の君主によって統治されていた。
そこで、「よそ者」ではない君主(サヴォイア家)を擁するサルデーニャ王国が、他の諸国を併合するというかたちで、国家の統一をもたらすことになるのだが、そうした小国の一つが、ローマ教皇(法王)をトップに担ぐ、ローマの「教皇国家」であった。
当時は、ドイツ(プロイセン)とフランスが、ヨーロッパで覇を競っていたため、ローマは(カトリック国の)フランス軍によって守られていたのだが、普仏戦争の勃発によってフランス軍がローマから撤退してしまうと、周囲の世俗国家がローマの併合を狙うようになった。
そして、そんなローマにとっての危機の時代に、この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」は起こったのである。(※ 以上は、映画パンフに寄せられた、伊文学者・北村暁夫の「「エドガルド・モルターラ誘拐事件」の背景 イタリア統一国家と教皇国家の終焉」を要約したものである)
つまり、その当時の「ローマ教会=カトリック教会」の考え方というのは(まだ)、この地上を統べるのは当然「神」であり、「ローマ教皇(法王)」はその「代理人」なのだから、「世俗の王」は「法王」の指導に従わなければならない、というものだったのだ。
要は、この地上でいちばん偉いのは「ローマ教皇(法王)」だ、ということである(だから、世俗の王たる皇帝に冠を授けるのは、ローマ教皇の仕事だったのだが、それを無視したのがナポレオン1世であった。彼は、神からではなく、市民から選ばれた皇帝を自負したからである)。
ところが、フランス革命以降のヨーロッパの「世俗化(宗教離れ)」はどんどんと加速し、「教会」の影響力は低下する一方だった。
そんな危機的状況にあって、さらに「ローマ教皇」のお膝元までがぐらつき始めたため、時の「ローマ教皇」であったピウス9世は、「世間の者どもに、身の程を教えてやらなければならない。神の法がすべてであり、何人たりとも、その法と権威を蔑ろにすることは許されない」のだということを示すための、ひとつのパフォーマンスとして強行されたのが「エドガルド・モルターラ誘拐事件」だったのである。
一一どのような事情があれ、いったん「洗礼」を受けた者は、神の祝福に与ったキリスト教徒として、その定めしところに従って生きなければならない、ということを示すために、エドガルドは「ユダヤ教徒」の一家から引き離されて、ありがたくも、キリスト教徒としての最高の「教育」を与えられることになったのである。
そんなわけで、すでにこの時代においても、この誘拐事件が「当たり前」のものだというわけではなかった。
だからこそ、エドガルドの父たちは、ユダヤ人ネットワークを通じて、あちこちに働きかけ訴えた結果、世界的で非難の声が巻き起こったとはいうのは、この映画にも描かれているとおりだったし、教会の中にも「これはやり過ぎではないか」「世界中の世俗世界からの反発を招いて、教会がますます孤立するだけではないか」と危惧する、「枢機卿」などの高位聖職者もいたのである。
だが、ピウス9世は断固として「原則」を貫こうとした。
それは、よく言えば「教義に忠実」であり、悪く言えば「保守的」であり「意固地」であり「独善的」でもあったわけなのだ。彼は「現実」を見ることなく、彼の「神」だけを見て、それを信じたのである。
さて、世俗の視点からこの事件を描いた本作は、そんなピウス9世を、いかにも「嫌なやつ」に描いているのだが、この点については、同映画パンフに一文を寄せた、伊文学者の北村暁夫も、次のような書いている。
で、ここまで本作の中身と背景を紹介してきた上で、私が言いたいのは、本作における「ピウス9世の描き方」は、逆効果だ、ということである。
つまり、「悪いのは、ピウス9世個人ではなく、キリスト教という迷信」だということなのだ。
本作で最も注目されるのは、誘拐されたエドガルドが、十数年にわたる「キリスト教教育」によって、完全なキリスト教徒になってしまい、ピウス9世を父と慕い、ユダヤ教徒である親兄弟を改宗させようとまでするようになった、という「衝撃の事実」だろう。
この事実を「宗教的洗脳」と呼ぶのは簡単だが、しかし、唯物論者でありリアリストである私に言わせれば、幼い頃から「ある一定の価値観」を持続的に刷り込まれれば、そうなるか、あるいはその反動として真逆に振れるかの二つにひとつ、だというのは、ごく「自然」なことであり、エドガルドの場合は前者であり、「素直」に「キリスト教に染まった」というだけの話にすぎない、ということになる。
もちろん、エドガルドには、幼い頃に親元から無理やり引き離された記憶や、それに対する恨みや怒りといったものも、「当初は」あっただろう。
だが、そうした感情を十数年も一人で抱え続けて生きるというのは極めて困難なことであり、「普通であれば」そうした「負の感情」を、カトリックの教えによって「合理化」し「無化」して、「楽になる」というのが「当たり前の人間心理」なのである。
そもそも、私たちの誰もが、自ら選んで、その生育環境下に生まれてきたのではないにもかかわらず、その生育環境下において人格を形成したのだし、それはごく自然なことであって、それ自体は「主体性の問題」などではない。
例えば、エドガルドが、元はユダヤ教徒だったのも、もちろん彼自身の選択などではなく、親兄弟の信仰という環境によるものでしかなかったのである。
「エドガルドの変貌」というのは、たしかに映画的には、最も印象深いところではあろう。なぜなら、当たり前の映画であれば、エドガルドが十数年の「苦難」を乗り越えて、最後は両親と兄弟姉妹の元へ帰ってきて、平凡なユダヤ教徒として平和に生きていくという「ハッピーエンド」になるはずなのに、本作は、そう「うまい話」にはならない「現実(リアル)」を描いていたからであり、そこがショッキングだったからだ。
それは、さながら「苦難の末に救助された彼は、しかしその時すでに、吸血鬼に血を吸われた後だった(ゾンビになっていた)」というようなものと、同様の「オチ」になっているからである。
しかし、繰り返すが、これは「実話を元にした映画」の「オチ」としては、ごく自然なことでしかなく、「フィクションの映画」のパターンと比較して「意外」だというのは、そもそも比較対象を誤った感想にすぎない。
くり返すが、エドガルドが、幼い頃から持続的に十数年の「キリスト教教育」を受けて育ったのであれば、彼がキリスト教徒になるのは、ごく自然なことでしかなく、なんら驚くに値することではないのである。
そんなわけで、私が問題にしたいのは、エドガルドではなく、「ピウス9世」の方なのだ。
彼、ピウス9世が、非人道的な「誘拐事件」を指示して恥じず、終生それを反省することもなかったというのは、彼個人の「性格」の問題だけではなく、彼自身が「非現実であり、その意味で思想としても誤ったものでしかなかった、キリスト教という宗教幻想」を、完全に信じ切っていたからなのだ。彼自身もまた「宗教に人間性を歪められた、被害者」だと、そう呼ぶことも可能なのである。
「ある宗教を信じたこと」そのものは、ごく一般的なことであり、そのこと自体(宗教を信じること自体)を否定できないのであれば、彼を責めることは誰にもできないはずだ。
現にあなたは、特定の信仰を持っていなかったとしても、宗教と同根の、非科学的な「お守り」「お参り」「おまじない」といったことを、なかば信じて、日頃は嬉々としてそれにあやかっているのではないだろうか?
ともあれ、「信仰的な世界観(真理)」を信じ、それに忠実に生きようとしている人ならば、キリスト教徒は無論、ユダヤ教徒であろうとイスラム教徒であろうと、仏教徒であろうと、彼らには、「盲目的に敬虔な信仰者」であったピウス9世を、責める資格は無い、ということなのである。
だから、この映画を見て、「洗脳されてしまったエドガルドが可哀想」とか「エドガルドを奪われた家族が可哀想」だと思うのであれば、同じ意味合いにおいて「こんな盲信者になってしまい、犯罪まで犯して、それでもその誤りに気づくことさえできないほど宗教に狂ってしまった、ピウス9世が可哀想」と思うべきだし、彼に、こんな犯罪を犯させた「キリスト教」そのものをこそ、批判断罪すべきなのだ。これも一種の「罪を憎んで、人を憎まず」だからである。
(同様の意味で、その終末論的世界観を信じて重大犯罪に走ってしまった「オウム真理教」信者も、被害者として憐れまれるべきだし、彼らを犯罪者として死刑にしたのなら、ピウス9世は無論、十字軍を派遣したローマ教皇たちは全員、死刑にすべきだし、それを支持して「聖人」認定までし、その犯罪性の隠蔽を行った歴代ローマ教皇も、犯人隠避の事後従犯として、厳しく処罰すべきであろう)
そんなわけで、本作を見て考えなければならないのは、「強権的な宗教」の問題ではなく、「宗教そのもの」の「毒性」なのである。
今でこそ「宗教」は、「世俗社会」に圧倒されて、おとなしくしている(猫をかぶっている)けれども、昔のように「政治権力」が与えられるならば、昔と同じように「神の真理を嵩に着た、人殺しも辞さない、横暴な絶対権力になる」というのは、目に見えたことであり、それは、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教(例えば、現イスラエル国)だけではなく、仏教も、そして、かつては「国家神道」として威張りくさっていた「神道」だって、まったく同じことなのだ。
「宗教」というのは、所詮「人間の願望的幻想」でしかなく、信仰者というのは「勘違いした、ただの人」でしかないのだから、勘違いした彼に、身の丈に合わない強大な力を与えたならば、文字どおり「気狂いに刃物」にしかならないのである。
また「宗教」というものは、「信仰を持たない者」には知り得ない「この世界の真実とその法則」を知っていると自負するものであり、だからこそ「どう生きるのが正しいのかを、知っている」と勘違いしているのだから、そんなものが「権力」を握れば、無知な人々に「正しい生き方」を強制してでも「救ってやろう」とするのは当然であり、この考え方による端的な実例こそが、ピウス9世による「エドガルド・モルターラ誘拐事件」だったのだ。
だから、「エドガルド・モルターラの悲劇」を「くり返させてはならない」と、本気で思うのならば、その人はまず、自分が、自身の「信仰」を、きっぱりと捨てるべきなのである。
(2024年5月22日)
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