『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方』 : 斯くして人類は滅ぶ。
書評:女性スペースを守る諸団体と有志の連絡会編『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方(月刊紙の爆弾2024年10月号増刊)』(鹿砦社)
先日来、「トランスジェンダリズム」における「性自認(ジェンダーアイデンティティ)至上主義」問題に関する本を読んできたが、やっと「当たり前」の議論を読むことができたと、そう感じさせてくれたのが、本誌冒頭に収録されている、堀茂樹(仏文学者)と滝本太郎(弁護士)の対談である。
「当たり前」と書いたのは、特別に「深い」わけでもなければ「優れている」わけでもなく、言うなれば、このくらいは「当たり前」の前提として押さえた上で議論してほしいというところを、ちゃんと押さえて議論している、ということだ。
言い換えれば、「LGBT問題」あるいは「トランス問題」の核心である「性自認至上主義」が論じられる場合、おおよそ、こうした「当たり前」が踏まえられてはおらず、それに賛成にしろ反対にしろ、論者が「自身の立場」を自明のもの(正義)として、まるで「狐憑き」のような、目を吊り上げたような論調で、「論敵」を罵倒し、自らの正しさを主張している、そんなものが大半なのである。
双方ともに「被害者意識」丸出しの「被害者アピール」が過ぎて、読んでいてウンザリさせられることが、あまりにも多すぎるのだ。
私が、これまで読んできた関連書は、以下の4冊である。
(1)アビゲイル・シュライアー『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』
本書は、欧米における「トランスジェンダリズム」についての問題提起の書であり、日本では「左派からの出版妨害」が問題になった本である。「ジェンダー・フリー」を擁護する左派から「差別を助長する、誇大宣伝のヘイト本」だという趣旨で「出版するな」という圧力が出版社にかかったのだ。
それため、最初の出版社が刊行を断念して、それを引き継いだ出版社が刊行したのだが、問題は、本書の刊行に反対した「左派知識人」の多くが、本書を「原書で」読まないまま、邦訳書の刊行に反対したのであろう点である。「敵即悪」の論理だ。
しかしながら、読んでみれば、なるほど著者の立場は「中立」ではないものの、それはどんな本でもたいがいはそうであり、ひとつの立場からの問題提起として、十分に価値を持つ本なのである。
で、(1)の立場を、支持するものとして刊行されたのが、次の(2)と(3)で、簡単に言えば、(2)は、(3)に大きく依存した、(3)の「通俗版」だと言えるだろう。
(2)斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』
(3)キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』
一方(4)は、論壇誌『情況』の特集号で、対立する両派に意見を求めた、両論併記となっている。
以上の4冊に収められた「論文」は、(4)に収められた「どちらにも与しない立場」の論文がいくらかはあるものの、それ以外の大半を占める、「性自認」をめぐる両派の意見は、「敵は悪であり、よって自分たちは正しい」式の議論にしかなっていない。当事者として「自身の立場をも冷静に検討する」といったところが皆無なのだ。
自分たちの「教義」は絶対に正しく「世のため人のため」のものなのに、「敵は世を欺いて、党派的利益を増進し、または固守しようとしている」と主張する類いのものなのである。
言うなれば、宗教団体の会誌に載っている、信者向けの論考みたいなもの。
例えば、創価学会の『聖教新聞』や『大白蓮華』掲載のそれみたいなものだと言えるだろう。
要は、収録論考の書き手と考えを同じくする、世間の狭い、しかし「社会意識だけは高い」読者が、「そうだそうだ」とばかりに、その「フィルターバブル」内でうなづきあい、お互いに励まし合って、凝り固まる(結束する)ためのものでしかない。
もともと、大抵はそんな読者しか読まないのだから、それで良いのかも知れないが、私のような冷めた第三者から見れば「勝手なこと言っているよ」という印象のものが多いのだ。
つまり、論敵を非難することに性急で、自分たちがどのように見えるかということへの配慮が、およそ無い。
敵は「鬼畜(米英)」だとか「イエローモンキー」だとか「ファシスト」だとかいった論調なのだ。
その「真面目な熱狂」が、傍目には「狐憑きに類したものにしか見えない」かもしれないという、そんな自己懐疑を欠いたものだからこそ、極めて「宗教的」なのである。
だが、本書『LGBT異論 キャンセル・カルチャー、トランスジェンダー論争、巨大利権の行方(月刊紙の爆弾2024年10月号増刊)』の巻頭に収録された、堀茂樹と滝本太郎の対談、
・世界を席巻する新たなカルト=「性自認」思想の現在
は、論敵である「性自認至上主義者」を「カルト」だと名指すだけはあって、自分たちの態度を「相対化」するくらいの、つまり「カルト」と見られないように配慮するくらいの、知的余裕は持っている。
それゆえに、これまで私の読んだ「反・性自認至上主義者」の「狐憑き状態」は免れていて、「やっとまともな人が出てきたな」という印象を与えるのだ。
では、どうしてこの2人は、他の「反・性自認至上主義者」とは一味違っているのかと言えば、それはたぶん、この2人が「教養ある高齢男性」だからであろう(まずここで、私は反発されるだろうが)。
というのも、「反・性自認至上主義者」の多くは、比較的若い、高くても五十代までの中年「女性」が中心であり、この「性自認至上主義」の問題において、割を食わされることになる「被害当事者」とは、彼女らを含む「女性」たちだからである。
そして、そうした女性の権利を固守しようとするのもまた、多くは「フェミニスト(女権拡張論者)の女性」だからだ。
つまり、この「性自認至上主義」の問題については、被害者となる、あるいは、主に損失を被ると想定されるのが「女性」であるため、その被害当事者である「女性」が中心となって声を上げるし、その指導的な立場に立つのも、「フェミニストの(知識層)女性」という「女権第一主義」的な考えを持った人たちだから、いきおいその論調も「女性教」的になってしまう。
「私たちが正しいに決まっている。私たちに害しようとしている、やつら性自認至上主義者たちは、明白な悪だ」だといった、「宗教」的な論調になってしまっているのだ。
例えていうなら、キリスト教世界において「プロテスタント(新教)」が登場してきて「宗教改革」を訴えたのに対して、それまでの「カトリック(旧教)」が、彼らを「異端」認定したのと同じで、どっちも「宗教」であり「神(正義)は我にあり」という非妥協の立場だから、いきおい両派の関係者は「利害当事者」として、目が吊り上がってしまっているのである。
その点、堀茂樹と滝本太郎の2人は「高齢男性」という、「利害関係から一歩退いた立場」にあるため、言うなれば「無神論者」的に、あるいは「世俗主義者」的に、「プロテスタントの言うこともわからないことはないけれど、そんな原理主義的な社会制度革命では、世の中をぶっ壊すことになるよ。すこし頭を冷やしたまえ」と、そんな立場での物言いなのだ。
だから、「非信仰者(ノンポリ)である第三者」からすれば、「当たり前」と言えば「当たり前」の話でしかないのだが、それでも「宗教戦争当事者」たちの、目の吊り上がった議論ばかり聞かされた身には、「ああ、やっと、少しは話のわかる人たちが出てきた」と、そんな感じになるのである。
そんなわけで、「オウム真理教事件」にも関わった弁護士である滝本太郎は、「性自認至上主義」の、そうした「カルト性」を指摘するわけだが、それについて、仏文学者であり、フランスの現代思想にもそれなりに通じている堀茂樹は、「性自認至上主義」の問題点を、次のように説明している。
つまり、人間とは、他の動物のように「本能」だけで生きているのではなく、「観念操作」によって、世界(自然)を作り変えて生きている動物だと説明しているのだ。それをするからこそ、強力な組織や武器や社会を作って、他の動物を圧し、この世界に君臨する「霊長」にもなれたのだと。
だから、人間が『客観的な事実や外部から与えられた要素』を、そうした「観念操作」によって乗り越えていくというのは、ある意味では「人間らしい」とも言えるのだが、そうした「観念操作主義」をどこまでも徹底して、『客観的な事実や外部から与えられた要素』を無視するといった強硬な態度は、はたして無限に(永遠に継続)可能なことなのかと、堀はここで、そう問うているのである。
一一言い換えれば、「観念操作主義」を徹底していくと、ある段階で「自然の一部としての人間」の限界に突き当たり、『客観的な事実や外部から与えられた要素』という「自然」からの報復を受けることになる蓋然性が高いと、堀は警告しているのだ。
昔の言葉で言えば「過ぎたるは及ばざるが如し」では止まらず、「(過ぎた)野心は身を滅ぼす」ことになるだろうと、そのように警告しているのである。
だから、観念的な理想を振り回すのもほどほどにして、現実(客観的な事実や外部から与えられた要素)も見て、それに配慮して、「無理のないところで妥協する」ようにしなければいけないと、そんな「大人の知恵」を、ここて語っているのである。
で、これは、昔の「左翼学生」的な「観念的な理想主義者」から見れば「敗北主義」ということになるだろうし、「性自認至上主義者」にも同じように「現状追認主義」としか映らないだろう。つまり、この堀茂樹の論とは、「大人の知恵」としての「妥協論」なのだが、それは「目の吊り上がった狐憑き状態の人たち」には、たぶん届かない。
だが、堀や滝本の立場が面白いのは、じつは、彼らが批判しているのは、なにも「性自認至上主義者」たちだけなのではなく、それに対して「女性の権利」を守ろうとして目を吊り上げている「反・性自認至上主義者」も、暗に含まれている点である。
つまり、少なくとも堀は『客観的な事実や外部から与えられた要素』というものが、人間にとっては「絶対的なもの」ではない、ということは理解しているのだ。
それを、「観念」において改変改造していけるからこそ、「人間」は、他の動物とは違った存在だというのは、ちゃんと理解している。
そしてその意味では、「観念」によって「ジェンダー」を廃棄しようという「性自認至上主義者」の立場というものも、理屈としては理解はしているのだが、ただ、その「自然に対する観念的操作」というものには、おのずと「限界」があるのではないかと、そう疑義を呈しているのである。
「これまでは、それでうまくいってたけれども、だからと言って、それもやり過ぎたら、その限界に突き当たって、自滅することにもなりかねないぞ。だから、もっと慎重にやるべきだ」というのが、堀の主張であり、主に女性フェミニストたちによる「性自認至上主義は、反自然であり、その意味で、自明な錯誤である」という「単調な教義的な決めつけ」とは、一線を画しているのだ。
言うなれば堀は、『客観的な事実や外部から与えられた要素』至上主義者(自然主義者)なのではなく、「自然の報復を甘く見るべきではない」という「経験主義的な慎重論者」なのである。
だから、当面の問題として「性自認至上主義」の「極左冒険主義」的なやり方には、反対しているけれども、『客観的な事実や外部から与えられた要素』を絶対視するような、言い換えれば、「女性であること(男性であること)」を「絶対(の真理)視」するような、頑迷な「保守主義者」でもない、ということなのである。
で、こうしたことは、要は、私が、すでに別のところで論じた「二段構え論」と、同じことなのである。
つまり私の、
「男女二元論は、乗り越え可能である。ただし、それは、今すぐここでというわけにはいかない。なぜならば、私たちは、男女二元論をはじめとした、各種の制度的フィクション(観念)の上に今の社会を築いており、多くの人は、そのフィクション性には気づき得ず、それらを自明のもの(自然)だと考えているからだ。それなのに、そうした一般的な感情(的な社会認識)を、そんなもの、本当はフィクションなのだから、廃棄することは可能だという原理論において、いきなり廃棄することは、社会に混乱をもたらすことにしかならない」
という主張と、本質的には同じことなのである。
ただ、そこまで、ハッキリ言ってしまうと、今のところは「仲間」認定してくれている、頭の悪い「反・性自認至上主義者」たちから「結局のところあなたは、ジュディス・バトラーと同じで、ジェンダーを、制度的フィクションだと考えているんですね。でも、それは間違いですし、その考え方は利敵行為ですよ!」などと言われかねないので、その哲学的に「詰めた話」の部分については、故意にボヤかしているのである。
そんなわけで、堀茂樹にしろ、滝本太郎にしろ、「反・性自認至上主義者」の、凝り固まった考え方や態度が、無条件に正しいとは思っていない。
具体的に言えば、「反・性自認至上主義者」の「広告塔」になっている、森奈津子や笙野頼子といった「女性作家」などは、ハッキリ言って「神がかりの女教祖」的な存在であって、無神論者的、あるいは第三者的に、気持ちの上で一定の距離をおいている男たちには、少々ウンザリさせられる存在なのである。
だが、それを正直に語ってしまうと、例によって「ミソジニー呼ばわり」され、「反・性自認至上主義」の戦列に加えてもらえなくなるので、「こいつらもアホだな」と内心では思いつつも、ここは政治的に妥協して、もっぱら「性自認至上主義の危険性」を訴える立場として、「共同戦線」を張っているに過ぎない。一一そして、そのあたりが、私との違いなのである。
私は「政治的な影響力の獲得や保持」よりも「自分の考えていることを正直に語る」という「言論の自由」を重視しているので、「性自認至上主義者は、危険なアホだけれど、それへの反対者の方も劣らずにアホだから、どちらに対しても諸手を挙げて賛成はできない」と、正直に話してしまう、という立場なのである。
言い換えれば、堀や滝本のような「大人の狡さ」を私は採らないし、私が今の立場を採り得るのは、最終的に「性自認至上主義者」が、この社会を破壊することになっても「それはそれで仕方がない」という諦観があるからだ。
人間の「観念操作」が、人類に「科学技術」をもたらし、その恩恵によって、人類はこの地上を制覇して、「新人世」と呼ばれるまでの栄華を誇った。
しかし、その結果として、どうやら人類は、その「歯止めの効かない欲望」によって「科学技術」を濫用したせいで、加速主義的に自滅するというのも、ほぼ間違いないところなのだ。
だから同様に、人類がその「歯止めの効かない欲望」のために、その「観念主義」を徹底しすることで「制度的フィクション」を破壊していけば、その先には「弱肉強食の無制度的な自然世界」が待っており、そこで人類が破滅するというのも、ひとつの「論理的な必然」だと考えるのである。
無論、堀や滝本の『客観的な事実や外部から与えられた要素』を軽んじない「慎重な経験主義」において、多少は人類を延命させることは可能だろう。
だが、その「延命策」は、所詮「延命策」でしかなく、人類の不滅を保証するようなものではないのだから、まあ、そこまでして延命しなくても、「人間の自殺的な自己破壊としての観念主義」の「末路」を見届けるのも悪くはない、というのが、今の私のスタンスなのである。
無責任だと言われようが、私はそこまで「人類」に愛着はないし、希望も持ってはいない。死にたいなら死ねばいいし、所詮それは止められないと思っているのである。
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そんなわけで、残りの論考については(三浦俊彦のそれを除くと)、特にどうということのない、「今ここ」の話の域を出ない、自己相対視を欠いた文章しかない。
みなさん、必死で誠実なのではあろう。だが「いつの時代にも、人間はこのように、これは一大事だと大騒ぎをしながら生きてきたわけだとしても、こんな、動物としての人間の身の丈に合わない、極端な理想(強制)主義(=性自認至上主義)が出てくるようでは、いずれにしろ、人類も先が見えてきたな」というのが、今の私の、偽らざる感慨なのである。
(2024年11月23日)
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