夏目漱石著、 小森陽一編 『夏目漱石、 現代社会を語る 漱石 社会評論集』 : 古びない〈文学〉的 こころざし
書評:夏目漱石著、小森陽一編『夏目漱石、現代社会を語る 漱石社会評論集』(角川新書)
「文学」が、「小説」とほとんど同義語のようになって、すでにひさしい。
もちろん、「文学」には「詩歌」「戯曲」「批評」などの文章表現も含まれるが、それらはほとんど、一部愛好者や研究者にしか注目されず、一般からは忘れられた存在となっている。
しかしまた、まだかろうじて世間の注目を集め得ている「小説」でさえ、ひと昔前に「文学」という言葉が指していたものの、ごく一部分としか認識されなくなっている。つまり、「小説」即「娯楽小説(エンターティンメント)」であると了解されつつあるのだ。
だからこそ、「詩歌」などと同様、「純文学」なるものも、一部愛好家と研究者のものになってしまってひさしいのである。
なぜ「小説」や「詩歌」「戯曲」「批評」といった文章表現を、「文学」と呼ぶのか。
そのことを考えたことのある人が、いったいどれだけいるだろう。否、若い人たちにとっては、「純文学」という言葉のみならず、「文学」という言葉自体が、すでに「死語」に近いものとなってしまっているのではないだろうか。
本書の中でも書かれているとおり、科学的な定義とは異なり、言葉の定義というものは、決して一義的なものでもなければ確定的なものではない。なぜなら、それは輪郭の曖昧な現象(文学的表現の束)を、便宜的に「名づけ」たものであり、その境界線のひき方は人それぞれであって、決して誰かが権威的に確定して済ませられるものではないからである。
そして、これは「文学」という言葉についても、まったく同様の事情にある。
したがって、これは私個人の「文学」という言葉の理解・解釈にすぎないのだが、「文学」とは「文章表現において、学ぶもの」という具合に理解している。
つまり、そこには「書き手(作家)」の「読者に与える」という意志よりもまず、その前提として「受け手(読者)」の側の「読んで学ぶ」という姿勢が求められる作品が、「文学」の本質なのではないかと考えるのだ。
もちろん、どのような作品からでも、読者の方に「学ぼう」という意志があれば、多かれ少なかれ何らかのことを学ぶことは可能だから、その意味ではどのような作品でも「文学」と呼びうるわけなのだが、それでは言葉を定義する意味が無い。
したがって、前記のとおり『まず』『「受け手(読者)」の側の「読んで学ぶ」という姿勢』が必要と書いたとおりで、それは『まず』必要なものだが、それだけでは不十分であり、やはりそこに『「書き手(作家)」の「読者に与える」という意志』が無ければ、そこに「文学」は成立しえないのだと思う。
そして、私たちの今とは、まさに『「受け手(読者)」の側の「読んで学ぶ」という姿勢』がほとんど失われ、それにともなって『「書き手(作家)」の「読者に与える」という意志』も失われてきた結果として、「小説」表現から「文学」性が失われてきた、そんな時代なのだと考える。
そしてこれは、ある意味で「当たり前」の事実でもあろう。言いすぎでもなんでもなく、「文学」性が失われゆき、それが極めて希薄になってひさしい今日において、若い世代を中心とした多くの一般の小説読者にとっては、事実として「小説=エンタメ(エンターティンメント)」なのではないだろうか。
そして、そうした読者であればこそ、「文学」という言葉の意味を、自分なりにでも考えてみたことなど、一度もないのではないだろうか。
なぜならば、彼らにとって「小説」とは、もっぱら「お客様としての読者に、愉しみを供給する商品」であって、「読者の能動性(意味を受け取ろうという積極的な意志と行動)」を求めるような立場のものではない、と思われているからである。
読者は、対価を支払って「愉しみ」を購入しているのだから、その作品を「楽しむための努力」などする必要はない、というのはもはや「当然の前提」であって、それを求めるような作家は、自分の立場がわかっていない「勘違い人間」だということになっているのが、今の「小説」消費をめぐる状況なのではないか。
だからこそ、作家の方も、最低限「読者の知的水準の低いところ」を満足させ、その上でできるだけ「上級の読者をも楽しませる」ものを書こうとしているのではないか。つまり、作家としては、決して「乳幼児用食品としての小説」を与えるに満足するのではなく、「できれば」より上に向けて広い読者の「知的要請」にも応えうる作品を書こうと努力しているのではないだろうか。
しかし、それにはおのずと「限界がある」。
そして、その結果が「読者の知的積極性」に期待をして、作家として「表現能力の限界に挑む」文学としての「純文学」は、ほとんど壊滅状態にあるのではないか。
いくら良い作品であっても、読者の方が、知能の未発達な乳幼児あったり、あるいは認知障害のある場合、知的満足をあたえることはできないだろう。
「知的満足」が成立するためには、「作家」と「読者」の間で、最低限「より高きを目指そう」という意志の「共有」が無ければならない。その意味で「作家と読者は、相競い合う文学的同志」でなければならないのだが、高度消費社会の今日においては、「作家と読者」は、残念ながら極めて非対称な「商品提供者(売り手・売文業者)と商品購入者(買い手・お客様)」「主人と召使い」でしかないのではないだろうか。
その結果、本来は幅広い領域を意味する言葉であった「文学」は、「エンタメ小説」へと切り詰められてしまったのではないか。「商品価値の高いもの」だけが残されてしまった結果が、「純文学」の消滅であり、「文学」という言葉の忘却なのではないだろうか。
本書において、漱石は、人間の行ないには大別して「道楽(的な行動)と職業(的な行動)」があって、「道楽」とは「好きであるが故に、対価をもとめず、自身のエネルギーを消費する〈自己本位〉の行動」であり、「職業」とは「生きるための対価を求めて、消極的に行う〈他人本位〉の行動」だというように説明している。
もちろん、「趣味と職業が両立している」場合もごく稀にはあるが、あくまでもそれは「例外」であって、いま問題にしているのは、抽象化された一般的な区別である。
つまり、「仕事が楽しい」という人も少なくないかも知れないが、それがずーっと続くことは少ないし、「しないで済むことならしない」という人の方が多いだろう。また、「休みや給料がなくても、仕事がしたい」という人は、まずいない。それはもう「職業」ではなく、「趣味」なのである。
そうしたことを前提として、漱石は自身の「文学」観を、次のように語っている。
長々と引用してしまったが、これを読めば、いまこの時代が、ほとんど「文学の死後の世界」であるということが了解していただけると思う。
「時代が違う」というのは、そのとおりだし、「小説が、芸術であらねばならない、という義理などない」というのも確かである。
現代においては、「小説家」も一人の「売文業者」であって良いし、「小説」が「読み捨ての娯楽読み物」であってはならぬということもないだろう。いや、むしろそういうものもあった方がいい。選択肢は多い方が良いのである。
がしかし、本当に「選択肢」は増えているだろうか。
形式的には増えているとも言えるだろうが、実質的には減っているのではないか。
例えば、漱石のような志(こころざし)、つまり「好きなことを書いて、それが商品にならないのなら、商品にならなくてもいい。私は勝手に書くだけだ」という作家がいたとしても、それは「商品」にはならず「書店」には並ばないのだから、「選択肢」にはならないのではないだろうか。
実際「商業的流通」の範囲で言えば、「選択肢」は減っているからこそ、「文学」は「エンタメ小説」にまで切り詰められているのである
しかし、もちろん、「同人誌」だとか「インターネットで無料配信」することは出来るし、そういう人は多いだろう。
そこから「売れる作家になろう」というのではなく、「売れない作品でも、書きたいものを書いて、読みたい人がいれば読んでもらえばいい」という「漱石と同じ立場」の人もいるだろう。
だとすれば、例外はあるにしろ、「文学」とはもはや、「商品」とは別のところにある存在、ということになるではないか。
そしてさらに言えば、漱石自身が、「道楽」的に好きなことを書いて、しかもそれが「職業」として成立している状態は『いくら考えても偶然の結果』でしかないと言っているとおり、「文学」というのは、もともと「道楽」なのではないだろうか。
「文学」が、過分な欲をかくことなく、その本分を全うしたいと思うのならば、それを「職業」として成立させようなどという、厚かましい欲など、初めからかかない方が賢明なのではないだろうか。
私は「商品としての小説=娯楽としての小説」を否定しているのではない。それもあった方がいいに決まっているが、しかし「小説」とは「エンタメ」ばかりではなく、やはり「文学」もあるのだということを、私たちは思い出すべきであろうし、それで損をすることはない。
それが一般の視野に入ってきにくいとしても、それは今でも細々と生きているのだから、それを知っている者は、その存在を広く知らせるべきだろう。そんなものに興味のない人が大半だとしても、それを探し求めている人には、それは奇跡のような恩寵的存在ともなり得るからである。
漱石の書いていることは、決して「過去の話」ではない。それは「今も生きているもの」についての話なのだ。そしてそれは、「文学」の話に限らず、すべて「現代」の話なのである。
「自己本位=私本位」は、決して失われないし、失われてはならないものなのである。
初出:2019年12月30日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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