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ジェシー・ベリング 『ヒトはなぜ 神を信じるのか 信仰する本能』 : それは、生き残るための「誤読」

書評:ジェシー・ベリング『ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』(化学同人)

『自然淘汰の推進力は、生存と繁殖にあるのであって、真実にあるのではない。ほかのすべての条件が同じなら、動物にとって、誤ったことを信じるよりは真実を信じたほうがよい。正しい知覚のほうが幻覚よりよい。ところが時には、ほかのすべての条件が同じにならないことがある。』(P245)

本書に引用された、心理学者ポール・ブルームの言葉だ。
これを本書の内容に即して言い変えれば「ヒトが、種として生き残るために必要なのは、必ずしも真実ではなく、しばしば幻想のほうである。そして、そうした幻想の最たるものが、神に代表される有意味化幻想だ。ヒトはそのような本能を発展させて今に至っている」ということになる。

ブルームの言葉を捩ってみよう。
「レビューは、言いたいことを言うために書かれるのであって、必ずしも対象を客観的に分析評価するために書かれるわけではない。」

例えば、本書を『冗漫』だと評するレビュアーもいるが、本書は娯楽作品ではないので、リーダビリティーを云々するのは、基本的に筋違いだろう。それでも、そう言いたい気持ちがあったからそう書いたに違いない。
しかし、本書は決して読みづらい本ではない。レビュアーによっては「本書は、体系的な科学書ではなく、エッセイ集だ」と評しているほどで、それほど読みやすい。
もっとも「体系的な科学書」とは、どんな基準でそう呼ぶのかは定かではないし、体系的であれば良いというものでもないのは「体系的な神学書」などを見ても明らかだろう。

古典的な本格ミステリ(例えば、S・S・ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』)を、ミステリ読みでない人が読んだら、きっと『冗漫』に感じられるだろう。なかなか事件がおこらず、事件関係者の動きが延々と描かれたあとに、やっと事件が起こったと思ったら、残るは解決編だ。
本格ミステリを読み慣れていない人は、途中をすっとばして「結論としての犯人」指名のシーンを読み「やっぱり、私が思ってた人物が犯人だった」といって満足したりする。しかし、これは作品を読んだことにはならない。
つまり「結論を知ることと、作品を理解することとは別」なのである。

古典作品を読むのには、それ相応の根気がいるが、ラノベばかり読んでいる若い読者には、純文学の長編はたいがい『冗漫』に感じられるだろう。
文学作品の多くは、多少退屈な部分があっても最後まで読んで、初めて総合的にその深い意味を味わわせるものとして書かれており、読者サービスとして常時小ネタをバラまいて最後まで引っぱるといった態の、娯楽作品とは一線を画する。

以上は、本書の読み方を論じたものではなく、ヒトというものは「正確な理解」よりも「自分に都合のいい読み」を、自分のために正当化したがるように進化してきた動物だ、という本書のテーマを敷衍したものだ。このテーマ(不都合な現実)を、自らにしみ込ませ、刻み込むには、本書の記述は決して無駄に長いとは言えまい。

初出:2018年9月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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