R・W・サザン 『ヨーロッパと イスラーム世界』 : 褒めて貶す、貶して褒める
書評:R・W・サザン『ヨーロッパとイスラーム世界』(ちくま学芸文庫)
本書は、密度濃く、為になって面白い、稀有な歴史書である。
1961年にオックスフォード大学で行われた3回連続の講義を、同年にまとめて刊行したのが原著であり、本書の翻訳も講演口調を採用していて、堅苦しさのない、批評的なユーモアとウィットにあふれるものとなっている。
本書がこうなり得たのは、著者の「歴史学」にたいする明確なスタンスのなさしめるところが大だと言えよう。
それまでの歴史学(近代歴史学)は、修道院において発達した「聖書学」の厳密な文献資料批判の手法を採り入れ、それ以前の言わば文学的な「歴史叙述」から脱却して、「学問としての歴史学」として構築され完成したのだが、本書著者が活躍したのは、そうした近代歴史学の老朽化が進み、その「硬直した学問的形式性」が問題視されはじめた時期だった。
つまり、正統なる「歴史学」は、国政史・政治史に厳しく限定されたものとなっており、その中に「生きた人間」を見ようとしない、人間不在の権威主義的な学問となっていたきらいがあったため、本書著者などの先駆的な学者たちが、こうした狭隘な歴史学のあり方を批判して、今に続く「文化史」「思想史」「民衆史」といった方向性を切り開いていったのだ。
そのため、著者の叙述は「無味乾燥な歴史的事実の叙述」といったものではなく、歴史に生きた人間の内面にも切り込み、「歴史と人間」を相関的なものとして総体的に描写している。
もちろん、だからと言って、著者の書くものは「歴史エッセイ」でも「歴史読み物」でもなく、あくまでも「歴史学の研究書」であって、著者『R・W・サザンの歴史学は、W・スタッブスの敷いた厳正な資料批判に基づく近代歴史学の線上に』(「訳者あとがき」文庫版 P211)あるものだった。
こうした著者による講演なのだから、そこでの話しぶりも、無論、とおり一遍のものでない。
私が見たところ、著者の「語り」の面白さは、歴史的事実を示しつつ、往時の人たちの愚かさや賢明さについて「褒めて貶す、貶して褒める」という、ひと捻りあるかたちで語っている点だ。
言うまでもなく、前者が「褒めて貶す」の実例、後者が「貶して褒める」の実例である。
著者は、前者で「言っていることは、ずいぶん勇ましくてご立派だが、まるで現実が見えていなかった」と批判し、後者では「一見奇妙に見えようと、彼らのこの態度は、賛嘆されるべき、学問的に公正で謙虚なものだった」と、ここで語っているのである。
つまり、著者は、学問の権威において、上から押しつけ的に語るのではなく、歴史的事実を多面的に検討し、そのうえで「ここに示された歴史的事実は、上から見ればこうなるでしょう。しかし、下から見ればこうも見える。これが歴史の多面性であり、真実の姿なのです。さて、それではここに見られる、往時の歴史的な精神とは如何なるものであったと考えるべきでしょうか」といった形式で、その歴史に対するスタンスを、その著作においてユーモアとウィットに富んだ語り口で、みごとに表現したのだ。だから、読んでいて決して退屈させられることなく、じつに面白いのである。
ちなみに、著者によるこの「ヨーロッパにおけるイスラーム世界の理解と誤解」に関する講演は、訳者も指摘するとおり「ソ連とアメリカによる東西冷戦」を時代背景とし、それを意識したものであっただろうことは、ほぼ間違いない。「アメリカによるソ連理解」あるいはその逆が、かつての「ヨーロッパにおけるイスラーム世界の理解と誤解」と二重写しにされており、そこには聴衆(読者)に対する「歴史の経験を無駄にしないでほしい」という願いが込められていたのであろう。
では、著者のこの「願い」を、私たちはどう受けとめるべきだろうか。
その端的な例として挙げるべきは、近年、本邦において社会問題化した「嫌韓・反中」の問題だろう。
イスラームの台頭に脅かされた時代のキリスト教圏の人たちの反応は、時代や地域差の問題はあれ、本書の著者が示すとおり、「やつらをやっつけちまえ!」というものと「いや、こんな時だからこそ、彼らについて、きちんと学び、正しく知るべきである」という二種類に分かれがちだったのだが、一一私たちが、いま選ぶべきがどちらなのかは、もはや屢説の必要もないはずである。
初出:2020年3月20日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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