岡崎二郎 『アフター0』第1巻 : 一読の価値のある、 上質なSFマンガ短編集
書評:岡崎二郎『アフター0』第1巻(ビッグコミックス・小学館)
本書は、1990年に刊行された、けっこう古い作品集である。なぜ今この本を読んだのかというと、半年ほど前まで刊行されていた「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」(全10巻)を刊行順に読んでいた際、藤子と同様の「良質なSF短編マンガ」を探してネット検索し、この作家を見つけた、というようなことだったと思う。つまり、昨日読むまでに半年以上「寝かせていた」本なので、語尾も「ように思う」と、いささか頼りない書き方になっているのだ。
では、なぜ半年も「寝かせていた」のかというと、その理由ならハッキリしていて、例の「積読の山に埋もれさせてしまった」というやつである。
先日、その積読の山が崩れたところから発掘された本の1冊が、本書だったのだ。
では、本書を買った経緯が、なぜ『「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」(全10巻)を刊行順に読んでいた際、藤子と同様の「良質なSF短編マンガ」を探してネット検索し、この作家を見つけた』だったと思い出せたのかというと、それは同時に見つかった別のマンガ本、高橋聖一『好奇心は女子高生を殺す』(第1巻)と併せて、どちらも、絵柄が少々古風でしかもSF漫画だったからで、「そう言えば、藤子を読んで感心した時に、ネット検索して他のSF漫画を買ったような」と、そう思い出したのだ。
SF小説は読んでも、あまりSFマンガは読まない私の場合、本書著者について、これまではまったく未知未見だったのだが、Amazonなどで調べてみると、けっこう評判が良かったので、試しに読んでみようと、この代表(短編集)シリーズの第1巻を買ったのだと思う。
それで、肝心の『アフター0』第1巻どうだったのかと言うと、かなりよくできた短編集だった。
収録作品は、基本的にそれぞれ独立した作品であり、9本が収められているのだが、いわゆる「粒揃い」で、凡作は無い。
作品のジャンルとしては、SF、ミステリ(推理もの)、ファンタジーと多岐に渡っているのだが、どれもよく練られた完成度の高い作品で、作者の「博識」と「ロマンチスト」ぶりがよく現れており、好感の持てる「良心的な作家」である。
だが、難点が無いわけではない。
まず、誰もが気づくのは「絵柄が古くさい」ということ。
昭和生まれの私なら、そう感じつつも、それなりに読むことができるけれども、平成・令和生まれからは、その絵柄だけで、読まずに撥ねられてしまいそうな、古さと若干のヤボったさがある。
今回私が読んだ『アフター0』は、初刊の全6巻の第1巻で、同シリーズは何度か版を変えながら再刊されているので、一般の評価も、出版社側からのそれも、それなりに高かったというのがわかる。
「著者再編集版」というのがあるとおりで、新版では、単に未収録作品が増補されただけではなく、収録順も変えられているようで、つまり、同じ第1巻でも、版が違えば収録作品は違うということであり、そこで容易に推察できるのは、私が読んだオリジナル版以降の新版では、第1巻には、あるていど代表作的な作品が集められているのではないか、ということだ。試しに第1巻を読んで、それで面白ければ、後の巻も読んでもらえるからである。
だから、私が読んだオリジナル版の第1巻は、必ずしも『アフター0』の最良の作品ばかり集められているわけではなく、この1冊を読んだだけで、作者の力量を評価するのは、作者にとっても、作者のファンにとっても、たぶん不本意なことなのであろう。
実際、Amazonのカスタマーレビューを見てみると、「良い作家なのに、十分な評価を受けていない」とか「もっと読まれて然るべき」といった、熱心なファンのものと思われるレビューが目につく。一一要は、そういう「地味ながら、玄人好みの作家」なのだ。
そうした、カスタマーレビューを、いくつか紹介しておこう。
最初のレビューは「オリジナル版」のもの。あとの2つのレビューは「文庫版特別編集」版に寄せられたものである。
このように「熱いレビュー」が多いのだ。
しかし、言い換えれば、「一見さん」的な読者は少なく、レビューを書くまでには至らない、ということなのだろう。
だが、レビュアーたちが我がことのように「岡崎はもっと高く評価され、売れるべきだ」と力説する、その思いの強さは感動に値しよう。岡崎もきっと、こうしたレビューに励まされたはずだ。
だが、ここまでの紹介で、岡崎二郎という漫画家の「美質」は、おおむねご理解いただけたであろうから、私は以下で、岡崎の「絵柄」以外の「難点」を、あえて指摘しておきたいと思う。
それをしたからといって、いまさら岡崎が作風を変えられないというのはわかっているが、ここでは、漫画家を目指す人や、その他の「作家」を目指す人たちの参考になることを書ければと思っている。
それもまた、批評の使命だと考えるからだ。
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「粒揃いの良質な短編集」という形容に象徴されるように、作者の長所は「良心的で丁寧な作風」というところにあり、それを支えているのが作者の「博識」と「ロマンティシズム」である。
つまり、作者は「誠実な良い人」であり、その人柄がどの作品にも滲み出ているからこそ、この堅実で丁寧な作風に惹かれた人は、作者を応援したくもなるのであろう。
だが、長所と短所は表裏一体でもある。つまり、岡崎二郎の弱点とは、その「誠実で堅実」の裏返しである「地味な手堅さ」だとも言えるのだ。つまり、レビュアーの「JA」氏も指摘しているとおり、
という感じになりやすく、要は「インパクトに欠ける」のだ。言い換えれば、「ハッタリがましさが皆無」とも言えれば「ケレン味に欠ける」とも言える。
「JA」氏は、続けて次のようにフォローする。
つまり、短編一つを読んだだけだと「ふーん、よく出来てるね」で終わってしまうだろうが、1冊読み通してみると、すべての収録作品が同じように「よく出来ている」のがわかるからこそ、作家の本質的なうまさや力量が理解できて、感心させられるであろう、ということなのだ。
だが、「JA」氏のレビューに、『その博識、プロットの巧さ、ひねりの効いたストーリーに感心するはず。』という「分析的な評価」や『読書家であればあるほど、唸るはず!』といった「条件付け」の言葉があるように、岡崎二郎の作風に感心するためには、読者の方にも、ある程度の「読解力」が求められる。言い換えれば、エンタメとしては若干、敷居が高く「読者を選んでしまう作風」なのである。
岡崎の作品を評する場合に、まず「SF作品」と評されるのだけれども、ほとんどの作品は日常世界を舞台にしたアイデアSFであり、決して、大宇宙を駆けめぐる大冒険といった類いの「派手なSF」ではない。
どの作品も、その「博識」に裏づけられたワンアイデアによる、よく練られた作品であり、かつそこに、作者の個性である「真面目なロマンティズム」が込められているのだから、悪い作品でなどあり得ようはずがないのだが、一一しかし、こういう作風だと、頭を使わずにボーッと読んでいても楽しめる、というわけにはいかない。
岡崎二郎の作品は、読者の側にも真面目に「読む」という姿勢がないと楽しめない作風であり、だからこそ、「JA」氏は、思わず『読書家であればあるほど』という、読者に対する、ある種の条件付けを、無意識に課してしまったのである。要は、活字のSF小説が読めないような読者には、いささか「敷居が高いかもしれない」という意識が、どこかにあったのだ。
言い換えれば、主人公が毎回、強大な敵と殴り合っているような漫画とか、美少女がおおぜい登場するような、見た目に華やかな漫画しか読めないような、そんな読者では、岡崎二郎の漫画は読みこなせないだろうな、という直観的な理解が、「JA」氏にはあったのであろう。
だから、岡崎二郎の、漫画家としての難点をあえて指摘するならば、それは、「絵柄に魅力が足りない」とか「古くさい」とかいったことだけではなく、まず「絵で読ませる」という魅力に欠けるということになる。
結果的にではあれ、岡崎の場合、絵は、あくまでも、「プロット」を漫画の形式に落とし込むためのもの、お話を説明するための(従たる)ものであって、「絵そのものの力」というものが、あまり考慮されていない。あくまでも、アイデアやプロットが大事なのであって、それを漫画形式に落とし込むための絵として、絵そのものの力は十分に考慮されておらず、それで「地味=迫力に欠ける」という印象を与えてしまうのである。要は、いささか頭でっかちな作風なのだ。
もちろん、今どきは「絵は上手なのだが」中身が無いとか、見かけが派手なだけ、といったものが少なくないから、岡崎のような奇特な作家には頑張ってほしいという気持ちになるのは、しごく真っ当なことだと思う。
しかし、あえて言えば、漫画は「小説を、絵物語化したもの」ではなく、その「本質」として「絵で描かれた物語」なのだ。だから、「中身」だけではなく、やはり「見せ方」という側面にも十分な配慮が必要であり、その点で、岡崎二郎という作家は、漫画家として決定的な弱点を抱えていた、とも言えるのである。
たしかに中身は悪くない。水準は高い。しかし、それとて「前例がない」とか「突き抜けている」とか「類を見ないほど個性的」だというわけではなく、それこそ、藤子・F・不二雄だとか、フレドリック・ブラウンといった作家の名が浮かんでしまうところが、岡崎二郎という作家の「弱み」なのだ。
「〜みたいな作風の漫画家」だというだけであれば、その漫画家を読まなくても、「本家」の方を読めば良い、ということにもなるからである。
作家に必要なのは、安定した力量や作家的な良心だけではなく、やはり「唯一無二の個性」なのではないだろうか。
たとえ、「どこかで読んだことがあるようなお話」であっても、絵に個性と迫力があれば、それで読ませてしまえるし、読者の方もそれなりに楽しめる。なにより「読書家ではない一般読者」でも楽しめるのだから、読者を選ぶことにはならないはずだ。
当たり前のことを言うようだが、漫画表現とは、いわゆる「中身」だけ、ではない。
「どう見せるのか」「読者を惹きつける描き方とは」といったことも、「中身」と同等以上に十分に考慮されなければならない。そうでなければ、どんなに良い「中身」てあっても、それが生きないし、十分に伝わらないのだ。
もちろん、「中身」が軽んじられてはならない。
だが、漫画が「絵」による表現であるという本質の重さも、忘れられてはならないのである。
そしてその上で、出来ることならば、漫画読者は、「絵(ビジュアル面)」も「中身」も、両方楽しめる読者であって欲しい。そうであれば、作家も、両面への力の入れ甲斐もあるのである。
ともあれ、私としても、岡崎二郎の短編集『アフター0』は、一読の価値がありますよと、広くオススメしておきたい。
なぜなら、『アフター0』は、面白いのと同時に、「漫画とは何か」という問題を、深く考えさせてくれる作品でもあるからである。
(2024年7月8日)
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