村田沙耶香 『殺人出産』 : 〈価値観の相対性〉と私たちの現実
書評:村田沙耶香『殺人出産』(講談社文庫)
本書には、表題作の中編「殺人出産」のほか、短編「トリプル」「清潔な結婚」の2篇と、ショートショート「余命」の、合計4篇が収められている。この4篇の共通点は、「生と性」をテーマにしている点であろう。
「殺人出産」は、人工授精技術などの発達によって、性行為が妊娠出産と切り離され、その結果、出生率が大きく下がったために「10人生めば、1人殺してもいい。」という法律が施行された、未来の日本を描いている。
そこでは「子供を産む」という(人類の持続可能性を担保する)行為が最も尊いものとされる反面、殺人という行為が、現在ほどの否定的な重みを持たなくなっている。
誰かを殺したいがために「10人生む」ことを決意した人は、「殺人出産」法施行の当初こそ違和感や嫌悪感を持って見られたものの、「産み人」として、徐々に人々の尊敬をあつめる存在となっていく。
要は、「制度の変更」によって、人々の「価値観が変容」していったのである(ちなみに、10人生むという「正しい」手続きをとらずに殺人を行なった犯罪者は、男女を問わず「産刑」と呼ばれる強制妊娠出産の刑に処せられて、10人生むことを強いられる)。
この作品で問われている「テーマ」は「殺人とは、それほどいけないことなのか」であり、裏を返せば「人の命とは、それほどまでに価値のあるものなのか」という、根源的問いである。
現在、多くの人は「殺人とは、それほどいけないことなのか」と問われれば「当たり前じゃないか。あなたはそう思わないのか? あなたは、酒鬼薔薇聖斗みたいなキチガイなのか」と問い返したくもなることだろう。
だが、「殺人」が絶対的に間違い(悪)なのであれば、国家が行なう「死刑」も「戦争」も間違った行為であり、それを是認するのは、反倫理的で非人間的な態度だということになるだろう。しかしまた、多くの人は「法律で認められていることだから」とか「それがないと、社会の安寧が保てないから(犯罪者の命よりも、社会の安寧の方が大事)」といった「言い訳」をするのではないだろうか。
仮にこの言い訳(自己正当化のロジック)を認めるとしても、それではやはり「殺人」は「絶対悪」つまり「どんな理由があっても、なされてはいけない悪」ではなく、「相対的な悪」つまり「社会の認める理由さえつけば、堂々と行なうことのできる、正当行為として認められるもの」ということになり、要は「殺人」は、場合によって「善にでも悪にでもなる、相対的なもの」ということになるだろう。
だとすれば、「殺人出産」が描く世界における「10人生めば、1人殺してもいい。」という「社会規範」もまた「正しい」ということになるのではないか。
一一だが、あなたは、これを認めることができるだろうか?
これを認めた場合、あなたは「産み人」から正当に殺される「死に人」に選ばれるかもしれない。「産み人」には、殺す相手としての「死に人」を自由に選ぶ権利があり、それが保証されていて、その選択「理由」は問われない。理由は、何でもいいのである。だから、極端な場合、見も知らぬ人から、よくわからない理由で「死に人」に選ばれ、合法的に殺されるかもしれないし、あなた自身ではなく、あなたの親や子や恋人が、いきなり「死に人」に選ばれて殺されるかもしれない。
そしてそれは、社会が法的に認めた「正当行為」なのだから、それに文句を言うことは、処罰こそされないものの「反社会的な意見」だとみなされるし、そうした社会に馴染んで「殺人出産」制度を自明視するに至った多くの人からは、「国家秩序の否定者」だと白眼視されることにもなるだろう。
はたして、あなたは、こんな社会(制度)とその「人命についての価値観」を承認することができるだろうか?
しかし、もし「そんなものは認められない」というのであれば、あなたは「現在」、法的に認められている「合法的殺人」についても反対しないと、筋が通らないのではないだろうか。
単に、自分たちが慣れ親しんでいるという理由で、「現在」の「死刑」や「戦争」といった「殺人」行為を認めるというのは、本作「殺人出産」で描かれた「10人生めば、1人殺してもいい。」という制度を「合理的なもの」だと承認し、「産み人」を崇高な存在のように賛美する「一般の人たち」と大差のない、「気味の悪い人」だと言われても仕方ないのではないだろうか。
本作は、このように「命をめぐる制度的正義と、それを支える倫理観」の問題を提起しているのだが、作者は決して、単純に「殺人は悪だ」などという「漠然たる一般論」に与しているわけではない。
そうではなく、むしろそうした「一般論」が、いかに足場の定かならぬものなのかを読者に示して、読者が「当たり前」だと思い込んでいる「価値観=正義感=倫理」というものの「中身」の問い直しを促しているのではないだろうか。
本作の「仕掛け」は、いつもどおり比較的単純なもので、それは作者の得意とする「極端化」という手法だ。
つまり、私たちの「命は大切=殺人は絶対悪」という「価値観=正義感=倫理」は、しばしば「きれいごと=タテマエ」であって、私たちの「ホンネ」は作中人物たちと同様、しばしば「あいつを殺したい」「あんなやつ、死ねばいいのに」といったものなのだが、この「両極的二項」を極端化して提示したのが、「殺人出産」の世界なのである。
ともあれ、私たちの多くは、心の中で真剣に「あいつを殺したい」と思ったとしても、殺人を実行に移すことはまずない。殺人の代償を考えれば、本作の主人公と同様、心の中で殺すに止めるし、それ自体は「犯罪」ではないから、社会的には問題はないのだ(内心の自由)。
だが、「心の中での殺人」には何の問題(罪・悪)も無いかと言えば、無論そんなことはない。
たとえば、イエス・キリストは『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。』と言い、「情欲をいだいて女を見る」行為は、実際に「姦淫する」のと同じ罪を犯したことになる、という厳しい「倫理観」を提示してもいる。そしてもちろん私たちは、現実には「心の中」でいろいろと良からぬことを考えており、その意味では決して(罪も悪もない)清廉潔白な人間ではないのだが、そもそも人間とはそういうものなのだから、キリスト教の理想は理想として、行ないさえ正せればそれでいいと、ひとまずはそう考えるしかない。
つまり、人間とは「理想と現実=タテマエとホンネ」のバランスを取りながら、どちらにも偏り過ぎない隘路を歩まなければならないという困難に、あらかじめ運命づけられた「矛盾した存在」なのである。
だが、本作「殺人出産」で問われているのは、「心の中の問題」なのだ。
「殺人」というものを、「命」というものを、どう「考える」のか。それが、具体的に問われているのであり、その問いを先鋭的なかたちで示すために、「きれいごと=タテマエ」と「実際=ホンネ」を、「10人生めば、1人殺してもいい。」という「極端な対照性」として具体的に描いてみせたのだ。
だから、「殺人出産」に描かれた「すべての人命の尊重という建前的な、古い価値観」と「10人(も)生めば、1人(くらい)殺してもいいではないかというホンネ的な、新しい価値観」とでは、どちらか一方を「正しい」とする、絶対的な「根拠(正答)」は存在し得ない。
そもそも、この宇宙には「善も悪もない」のは自明であり、人間の考える「善悪」とは、大雑把にいえば「人間が種として生き延びていくために都合の良い規範的価値観を、進化論的に内面化したもの」でしかないのである。
だから、SF的に人間の「存在属性」を変更するならば、おのずとその「価値観=正義感=倫理」も変わるのが当然であり、その典型的な実作例が、本書所収の「トリプル」だ。
「トリプル」では、人間の「生物的性愛関係」が「二者関係(オスメスを基本として、同性愛もバイセクシャルも含める)」から「三者関係(トリプル)」に移行しはじめた時代の「感覚の変容」を描いており、実際にこのような変化が起こったとすれば、「ダブル的性愛」と「トリプル的性愛」の「どっちが正しいのか」などという問いは、完全に無意味である。なぜなら、それは「正邪善悪」の問題ではなく、「事実」の問題でしかないからだ。
(ちなみに、本書所収の他の2編、「清潔な結婚」や「余命」もまた、「性や生」に関する価値観が変容してしまった世界を描いている)
そして、話を「殺人出産」に戻せば、その世界も「すべての人命の尊重という建前的な、古い価値観」と「10人(も)生めば、1人(くらい)殺してもいいではないかというホンネ的な、新しい価値観」とを対照的に描いてみせているが、実際のところ、生物学的には「トリプル」の世界の到来は考えにくいように、「殺人出産」制度のある社会の到来も、人間の「進化論的本能」からすれば、まずはあり得ない考えられる。
しかし、だからこそ本作は、「リアルな問題提起作品」ではなく「思考実験的な問題提起作品」であり「知的な課題作」なのだということを、私たちは正しく了解すべきであろう。
本作は、単なる「異様な未来世界を描いたSFホラー」ではなく「社会派SF」なのだ。単に「怖いお話」として、娯楽的享受に供するために書かれた作品ではなく、「極端化された世界を描くことによって、現実世界に伏在している問題の本質を問う作品」なのである。
したがって、読んで「怖い小説だった」だけで済ましてはいけない。そうではなく「仮に、こうした世界におかれた場合、自分なら、どのような価値観を選択し、それをおのれに課すだろうか」と考えなくてはならない。
そして、そうした問題意識は、「今ここ」の現実世界においても、読者に「知的な批評眼=問題意識」を要求することだろう。
本書『殺人出産』所収の諸作における問題意識に即して言えば、「命が大切だというのは、どういう意味と価値観において、そう主張されるのか?」とか「性愛における正常とは、何か? そもそも正常であることに、どれだけの価値があるのか?」というような問いを、読者は自身に問いながら、本書を読まなければならない。
そうでなければ、それは「村田沙耶香の小説」を読んだことにはならないのである。
初出:2020年4月23日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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