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宮澤ひしを 『苦楽外』 : 〈届かないもの〉への欲望

書評:宮澤ひしを『苦楽外』(KADOKAWA)

『幻想世界へと迷い込む、牧歌的かつ危険なファンタジー。』
『「シームレスな現実ー幻想ー回想を自由回遊する快楽。」』
『山本直樹 推薦』

本書帯の前面には、以上の惹句が刷られている。
『山本直樹 推薦』は別にして、前に二つは完全に「好み」のパターンだったので、初めての作家だったが書店で見つけて即買いした。

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で、結果から言うと、たしかに帯にあるとおりの内容で、ちょっとマーティン・スコセッシ監督の『シャッター アイランド』を思わせる、夢と現実の交錯する謎めいた物語ではあったのだけれど、残念ながら、私の期待したような「幻惑感」は無く、その意味で期待ハズレだった。

たしかに絵は上手い。だが、どこか根本的なところで、この作家には「心地よく秘密めいた異世界」そのものに惹かれる心性が無いように思う。
この物語に描かれた異世界は、あくまでも「物語の舞台」として、その「必要性」から技巧的に構築された、これ見よがしな「異空間」であって、著者の「好み」から出たものではないようなのだ。

もちろん私は、本作に無い物ねだりをしているのだろうとは思う。私にとって、本作が期待はずれだったからといって、必ずしも本作が、不出来な作品だとは言えない。しかしまた、傑作ではないというのも、ほぼ間違いのないところだと思う。

ともあれ、単なる自分の「見込ちがい」で作品を貶すというのは、ありがちなことではあれ、フェアとは言えないので、この作品が「何を描こうとしたのか」について、可能なかぎり検討してみたい。

(※  以下は、本作のネタばらしが含まれますので、未読の方はご注意ください)

本作は、サラリーマンらしきの青年が、出勤のバスで寝込んでしまい、終点の「見知らぬ海辺の町」に降り立つところから始まる。そこは携帯電話すらつながらない場所であった。

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青年は、浜辺で釣りをしている少年と知り合い、立ち話をしている時に、うっかり浜に打ち上げられた毒クラゲに刺され、少年の家である、季節はずれの民宿で、簡単な治療を受ける。そしてそのまま、そこに逗留するになることになる。
結果として会社を無断欠勤をしてしまった青年は、もともと都会の生活に倦み疲れていたので、このまま仕事を辞めてもいいと、この民宿でしばらく逗留することにしたのだ。
そして、その日から青年は、昔の記憶と現在とが渾然一体になった、不思議な夢を見ることになる。

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種明かし的に書いてしまうと、青年がたどり着いた海辺の町とは、都会の生活に疲れた青年が無意識に求めていた「原風景」的な田舎町だ。
一方、そこで出会った少年カズキは、都会に出ることを夢見ているのだが、この海辺の町と少年の存在は、決して現実のものではなく、青年の願望が構築した、夢と現実の狭間の、どちらともつかぬ世界だと言えるだろう。
カズキの家では、いっこうに家族が姿を見せないのだが、青年はそのことを訝しむでもなく受け入れ、少年の方も、当初こそ、普通の田舎の少年であるかのようだったが、徐々に怪しげなふるまいを見せ始める。

この少年カズキが、いわゆる「普通の田舎の少年」ではないというのは、少年が浜辺で読んでいる文庫本が、江戸川乱歩の『孤島の鬼』であることで、予示されている。『孤島の鬼』は、同性愛を扱った猟奇的な作品だから、「素朴な田舎の少年」が読むには、いささか不似合いな作品なのだ(このあたりで、男性名っぽい作者は、じつはBLマンガを描いたことのある、女性作家ではないかと疑われる)。

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やがてカズキは、その予示どおり、眠っている青年にキスをしようとして、今はまだ早いと思いとどまるなど、怪しげな様子を見せる。
一方、青年の方は、海にまつわる夢を見続け、やがてその夢は、封印していた、海にかかわる「過去の事故」へとたどり着く。子供の頃、家族で水族館に行く約束が、姉の急病によって中止になり、落胆していた彼を見かねた近所のお兄ちゃん「入間くん」が、自転車で彼を海へと連れて出してくれたのだが、そこで入間くんは、彼を喜ばせようと、浜にいたウミガメを捕まえようとして、事故死してしまうのである。
つまり、青年にとって海は、憧れの場所でもあれば、死の臭いのする思い出したくない場所でもあったのだ。

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青年が、このように夢の中で過去の真実に近づいたのを見すましたように、カズキは寝ている青年の下着を取り去り、上から馬乗りになって青年を強姦して、青年の精を吸い取ろうとする。青年は抗おうとするが、金縛りになったように身動きができない。そして、青年の精を吸収したカズキは、青年へと成長変貌してゆき、一方、青年の方は子供(少年)へと退行してしまう。

青年に変貌したカズキは、自身がクラゲの化身である「苦楽外」だと名乗り、大人になったことで、青年の代わりに、自分が憧れの都会に出て行ったしまう。一方、元青年の少年は、青年の頃の記憶を失ったかのように(さらに言うと、苦楽の外に立った子供に戻ったかのように)、もとから民宿に住んでいた少年として、そこで暮らし始める。

最後は、都会に出たカズキ青年が、うっかりバスでうたた寝をしてしまい、ひさしぶりに終点の町に戻ってきて、元青年の少年と再会するが、カズキは、多少都会の生活に疲れてはいても、その生活に満足しており、すでに二人目の子供もできると、元青年の少年に告げて、都会へと帰っていく。
その別れ際、カズキは、元青年の少年に「じゃあ元気で、子供の頃のおれ」と言うのだが、その言葉を聞いて少し驚いた様子の、元青年の少年は「東京に出ちゃうと忘れちゃうのか、自分が苦楽外(だれ)だったのかも」と独り言ちる。

以上のように、この物語は、私が理解した範囲で言うと、あまり合理的な物語ではない。
もちろん、幻想譚なのだから、不思議なことが起こるのは当然なのだが、語られていることに「なるほど」という合理性が感じられず、言って見れば「不条理な幻想譚」だと言えるだろう。

「なぜ、過去のつらい記憶を封印していた青年は、不思議な海辺の町へとたどり着き、そこでクラゲの化身の少年と入れ替わったのか? この入れ替わりは、彼にとって、どのような意味を持つのか?」。
一方「青年から精気を吸収して大人にになり、憧れの都会に出て行ったクラゲの化身である苦楽外のカズキは、どうして過去の記憶を忘れてしまったのか?」そして「そもそも、青年とカズキは、どのていど同一人物なのか、それともまったくの別人なのか?」。
一一こうした私の疑問に、スッキリとした説明が与えられるような描き方にはなっていないようなのだ。

これは、単に私が読めていないだけなのか、それとも、もともと明確な説明の成立しない「不条理譚」なのか?

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さて、本書には、この長編の他に、書き下ろし19ページの短編「新人」が収められている。
こちらは、長編「苦楽外」のノスタルジックな幻想譚とはうってかわっての「近未来SF」だ。

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荷物の積み下ろし作業に従事している、あまり仕事熱心ではない青年のところへ、彼の仕事を補佐するための「新人」として、AIを搭載したロボットがやってくる。
ロボットは、何とかして青年の仕事の役に立とうとするのだが、青年はロボットの登場自体が気に入らない様子で、ロボットが、自分がいかに青年の役に立つ存在であるかを説明しようとし、青年に歩み寄ろうとすればするほど、青年は苛立ちを募らせ、最後はロボットをぶち壊してしまう。そんなお話である。

この話も、青年のロボットに対する苛立ちに、はっきりした説明はない。
ロボットの方は、自分は青年の「仕事を奪いに来たのではない」、青年の「働く権利は保障されており、自分はただ、青年と共に働きたいだけなのだ」と説明するのだが、青年はそうしたロボットの「真っ当さ」に苛立ちを募らせて、最後はロボットをぶち壊して黙らせるのである。

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この、作業員の青年の「不条理」とも言える感情を、合理的な説明もないままに描いた短編「新人」を、長編「苦楽外」と合わせて考えれば、結局のところ作者は、「理に落ちる」作品は描きたくないのではないか、と感じられる。
「理屈」ではなく、もっと「捉えようのない感情」をこそ、作者は描きたいのだ。だから、こんな「わかったような、わからないような」作品、そうした意味での「不条理」な作品を描くのではないだろうか。

そう考えれば、作者の描きたいものが、何となく見えてくるようにも思う。
それは「〈手の届かないもの=捉えきれないもの〉への欲望」なのではないだろうか。

単に、都会に疲れたから田舎に憧れるとか、田舎の生活に飽きて都会に憧れるとか、過去の暗い記憶から逃避するとか、それを再発見することで自分を取り戻すとか、仕事にやりがいを求めるとか、仕事から逃れたいとか、そんな「わかりやすい解答」を欲しているのではなく、それらの欲望が渾然一体となった混乱の中で、自分自身、何を求めているのかとよくわからないままに、何かを求めている自分。もはやそんな自分とは何者であるのかすら、よくわからなくなっている自分。

作者は、そんな「不安定な実存」を描いているのではないだろうか。

昔読んで、あまり惹かれなかった山本直樹が推薦しているところからしても、作者は、理の勝った私とは、まったくタイプの違った人間なのであろう。
ともあれ、スッキリした説明ができる人がいれば、ぜひ聞かせてもらいたいと思う。

(2022年1月11日)

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