書評:安田浩一・倉橋耕平『歪む社会 歴史修正主義の台頭と虚妄の愛国に抗う』(論創社)
安田浩一は、「本来の保守」と「戦後の保守」を比較して、次のように紹介している。
現・安倍晋三政権に代表される「戦後の右翼的(タカ派)保守」というのは、新自由主義(ネオリベ)的であり、その意味で極めて左翼的であるために、左翼の「弱点」をも抱え込んでいるが、「本来の保守」というのは、そういう「観念的な弱さ」とは無縁であった(自然主義リアリズム的であった)という、これは最近よく言われる「本来の保守」論であろう。
これに対し、対談相手である倉橋耕平も、次のように同意している。
と言って、昔の「本来の保守」の価値を認めている。
しかし、むろん両者は、そんな「本来の保守」のあり方に満足しているわけではない。
安田は、前記のような「本来の保守」にあり方について、次のようにも語っている。
つまり、「本来の保守」というのは、基本的に「左翼に対するブレーキ」係で、今の公明党が自称している「権力の(行き過ぎに対する)ブレーキ」みたいなものだとでも言えよう。
だが、ブレーキは、車にエンジン(駆動系)が付いていてこそ、初めて存在価値を持つものであって、それ単体では、基本的に無価値なのである。
しかも、「本来の保守」というのは、そういう「評論家的」「注文屋的」「一言居士的」な存在であり、その意見に耳を貸せるのは、基本的に「知的に誠実な論理的人間」でなければならない。言い変えれば、ネトウヨや安倍晋三のような「勝つためなら手段を選ばないし、当然のことながら、平気で嘘もつく」という性質を持つ「新自由主義的エセ保守」を相手にすると、「本来の保守」は、まったく無力なのだ。
そのため、安田としては、「保守的な生き方」もそれはそれで尊重するけれども、所詮は「口だけで、行動の無い保守」という存在は当てにはできず、現今のような問答無用のネトウヨ的「歴史修正主義者」たちの跋扈に対しては、社会変革を目指す力の持つ「左翼」が頑張らないわけにはいかない、ということになる。
そして、そうした「行動の伴う思想」を持つはずの「左翼」に対して、安田は次のように「具体的な行動計画」を提案する。
そう。安田がここで言いたいこと、つまりその本音は「利口ぶった、口だけの左翼は要らない」ということなのだ。
本気で「歴史修正主義」に対抗しようとする「左翼」なのであれば、「知的誠実さ」に自足して「ああ、私って、なんと知的で誠実な人間なんだろうか」などというナルシシズムに浸ってないで「現実を見よ。ならば行動は避けられないはずだ」と、「自称・良心的左翼」に「心からの反省」を迫っているのである。
そして、それは、あとがきにあたる「おわりに」での倉橋評にも、はっきりと看て取れる。
これは、倉橋評に見せかけた、じつは安田浩一の「読者批判」に他ならない。
この倉橋評の前半部分は、後半部分で言及される「本質的な価値」を強調するための、いわば「前振り」にすぎない。
安田がここでやっているのは「知性や人柄ももちろん大切だけれど、しかし、歴史修正主義者や差別者との戦いにおいて最も必要なのは、それ以前に持っていて然るべき、弱者への同情と差別者への憤りの情なのだ。それが(読者である)あなたたちにはあるか?」と、そういう「問い」を、読者に突きつけることであり、ここでの「倉橋絶賛」は、いわば倉橋をダシにすることで、読者に対して露骨には言いにくいことを、間接的に言った、ということなのだ。
「あなたは、歴史修正主義者や差別主義者に対する自分の立ち位置を、リアルに考えたことがあるか? あなたは、具体的に何をどうするのか?」と。
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私は先般、青木理の著書『暗黒のスキャンダル国家』(河出書房新社)について、「〈左翼〉とは何か:青木理 論」と題したレビューを書いたが、そこで語られた「左翼性の眼目」とは、次のようなものであった。
見てのとおり、私が言いたいことは、安田の「本音」とまったく同じである。
思想の左右に関係なく、人間は「知的」であらねばならぬ。能力に個人差はあれ、それぞれが自分なりに知的であろうとしなければならない。無知に開きなおっては、人間が人間であることは出来ない。
だが、「知的であれば、それでいい。それで、自己の無作為は許される」というわけではない、ということを、「真に知的な人間であるならば、自覚すべきであるし、また自覚できるはずだ」と、安田はそう言っているのである。
したがって、本書を読んで「勉強になりました」「良いことが書いてある」というような感想を持つのも大いに結構ではあるけれど、もしもそれに自足し、そこに留まるのならば、安田が本書で語ったことの意味を、その人は「まったく理解していない」と言っても、決して過言ではないはずだ。
本書で安田が訴えているのは「自尊心に凝り固まった、頭が良いだけの左翼など、屁のツッパリにもならぬ。つまり、弱者に対する同情や、差別主義者に対する真の怒りを持ち得ないような左翼は、真の左翼ではなく、エセ左翼にすぎない。あなたが、格好ばかりつけてる、利口ぶった三流左翼でないのならば、歴史修正主義者や差別者に対して、自分は具体的にどうするのか、何ができるのかと、真剣に問うべきである」ということなのだ。
それを、あなたは理解しただろうか?
初出:2019年11月18日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2019年11月24日「アレクセイの花園」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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