藤枝静男 『田紳有楽・空気頭』 : 〈潔癖性〉の痛々しい解脱
書評:藤枝静男『田紳有楽・空気頭』(講談社文芸文庫)
藤枝静男は本書で初めて読んだのだが、もうこれで充分だと思った。本書を読むきっかけとなったのは、藤枝の「(勝手)弟子」を自称する笙野頼子の『会いに行って 静流藤娘紀行』で、『田紳有楽』のユニークな作風を知ったからである。
入手しやすかった本書を手に入れ、収録順に『田紳有楽』、『空気頭』と読み、付録の川西政明による「解説」と勝又浩の「作家案内」まで読んでしまうと、結果として「つまらない」と思ってしまった。
「魅力的な謎」だった『田紳有楽』という作品が、あとの三つ(『空気頭』「解説」「作家案内」)で、すっかり種明かしされてしまい、もはやそれ以上のものはほとんど残っていないと感じられたのである。
したがって、このレビューも、きわめて書きづらい。なぜなら、解説者や他のレビュアーと同じことをわざわざ書く気はないし、私はそれをつまらないと考える人間だからだ。無論、面白かったとかつまらなかったで済ませるのも、そんなものレビューではないと思っている。そこで、川西政明とその読解を大筋で同じくはするものの、出来うるかぎり私の言葉で『田紳有楽』の「魅力」と、藤枝静男の「物足りなさ」について説明したい。
そうだ、私が感じた「つまらなさ」は、作品に対するものではなく、作者に対するものだった。端的に言うと、藤枝静男は「わかり易すぎた」のである。
他のレビュアーも紹介しているとおり、『田紳有楽』は、人を食った独特のユーモアのある、かなり不思議な作品だ。
この作品は、登場人物たちの「偽物」性と「いい加減さ」にあふれており、「執着を捨てた自由さ」や「開放感」に、その魅力と特徴があると言えるだろう。そもそも、この「へんてこりんな世界」自体が、小説の描く物語世界としてきわめて「自由」なもので、「普通ではない」のである。
しかしだ、そういう「執着を捨てた自由さ」や「開放感」には、どこか「隠された屈折」とか「曇り」がある。その「執着を捨てた自由さ」や「開放感」は、「捨てて得たもの」であり「天然生得」のそれではないようのだ。
それを端的に表すのが、いちおう主人公と言っても良いだろう「弥勒菩薩の化身で、今はエセ骨董屋をやっている初老の男」がつきまとわれる「老人性乾皮症による掻痒」である。端的に言えば、体のあちこちがかゆくなって掻きむしり、それができない「金玉」については、皮を引っぱって揉みしだいたりするのである。
弥勒菩薩の化身にしては、なんともさえない話だが、要は「本物」であろうと「偽物」であろうと、あるいは「所詮は当てにならない人生観」しか持たなかろうと、とにかく「それでもいいじゃない。この世はそんなものだし、そのくらいに思って適当に生きている方が幸せなんだよ」といった世界観であるにもかかわらず、それが「透徹した悟りや世界観」にまでは昇華されておらず、主人公には「地上的なノイズとしての掻痒」がつきまとうのである。
多くの読者は、この作品で語られた「執着を脱した適当な生き方の肯定性」に惹かれるのだろうが、しかし、この作品が現に描いてしまっているのは、そんなにわかりやすい「人生観」ではない。それには、そうした「悟り」を嘲笑うかのような「地上的で人間的、生物的な業」を象徴する「掻痒」がつきまとっているのである。
一一なぜ作者は、こんな「妙な屈折をふくむ悟り」を描いたのだろうか?
これが『田紳有楽』を読んだ段階での、私にとっての「魅力的な謎」であった。
ところが、この作品より前に書かれた、自伝的な要素の強い『空気頭』を読むことで、この謎はほぼ氷解してしまった。要は、「完璧主義者」に見えるほどの「潔癖性」である作者は、その一方で自身の「性欲の強さ」に振り回されて、悩み続けた人なのだ。
藤枝静男は、基本的に、非常に真面目な人である。だから、自身は当然として、周囲の者にも「完璧」を求めてしまう。要は「いい加減さ」「適当」「抜け落ち」「穴」といったものが我慢できない性分なのだ。そしてそれは、「主義」や「信念」といった意識的なものではなく、自分でもどうにもできない「持って生まれた性分」なのである。
そんな彼は、周囲に対しても、ついつらく当たったり、冷たい嫌悪を込めた視線を送ってたりして、周囲を傷つけてしまう。そして、そのことに、本人も過剰なまでに自覚的であり、だからこそ、自分の「許容性の無さという不完全さ」に、自己嫌悪と自責の念を持ってしまう。
また、血筋的な「性欲の強さ」に、不本意にも捕われてしまう。ただでさえ「性欲」というものは、人の「理性」を麻痺させ、その統御から逃れるものであるが故に、人は、特に男性は、性欲を満たした後で、ある種の「虚しさ」や「うとましさ」を感じることが少なくない。要は、自分が「いいように本能に操られる猿」だとしか思えなくて、情けなくなるのだ。
そして、普通の人でも、時に感じるこうした「虚しさ」を、その「潔癖性の完全指向」の故に、藤枝は人並み以上に感じざるを得ない。まして彼には「人並み以上の性欲」と同時に「結核を長く患って入退院をくりかえす、可哀相な妻」がいるのである。なのに自分は、性欲なんかに振り回されているのだから、自己評価は「情けない」という一言に尽きてしまうのである。
二部構成になっている『空気頭』の、自伝的な「第一部」では、妻のことや過去の愛人との関係などが語られる。一方、「ですます」体で書かれる「第二部」では、「糞尿を原料とした強壮剤の開発」にいそしむ「私」の姿が「戯画(フィクション)」的に描かれる(糞尿に惹かれるのは、潔癖性にありがちなマゾヒズムであろう)。
これは「私小説」を書きたいと願いながら〈「私」を書くことは、「私」の現実の言動や思考を「そのまま描く」ことでは実現し得ない。本当の「私」は、そうしたものの奥に否応なく隠されている〉と、そう感じていた著者による、言わば「二正面攻撃」だった。つまり、どっちの「私」も、「本当の私」であるし「私そのものではない私」だったのである。
こうして、「私そのものを描くこと=私小説」との葛藤に明け暮れた結果、認識上のものではあれ、ついに藤枝は『田紳有楽』の世界に至った。一種の「諦め」であり「開き直り」を選んだのだ。「もう適当でいいじゃないか。所詮この世に確たるものなどないのだから」といった境地に達したのである。
しかしまたそれは、世にいう「清貧の思想」とか「テキトーでいいじゃない」といった、他人への助言として発せられるほどの余裕を持ち、その意味で悟り済ましたような「思想」などではない。それはちょうど「空襲によって、家屋敷や家財一式を失ってしまった人」の「妙にさっぱりした気持ち」のようなものだと言えるだろう。そうした境地に至るしか、救われようもないから、否応なくそこに追いやられたような、そんな屈曲のある「解脱」の境地だった。
そして、こうした藤枝静男理解を、「解説」の川西政明や「作家案内」の勝又浩も、ほぼ共有しているようで、それらを読んで私が感じたのは「追認」に他ならなかった。だから「つまらなかった」のである。
これでは、他の藤枝作品の内容も、おおよそ想像推察できるではないか。彼が描くこととは、「性欲と自己嫌悪」「妻への申し訳なさ」「私を描きたいという執念」。そして、それらすべてからの「離脱への願望」という振幅の中にしか見いだせそうもない。
だから、たしかに『田紳有楽』は面白かったのだが、「もう藤枝静男は読まなくていいだろう」と、私はそう思ったのである。
初出:2020年9月9日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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