たつき監督 『けものフレンズ』の悲劇と、KADOKAWA的な プラットホームシステム
書評:大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)
本書を書店頭で見かけ、これは「『けものフレンズ』たつき監督降板問題」を考える上でヒントになるかも知れないと、当たりをつけて読んでみたところ、そのまんまの内容でした。
『けものフレンズ』への言及はまったく無いし、ほぼ間違いなく大塚英志は『けものフレンズ』を視ていませんが、それでも角川の四代(角川源義・春樹・歴彦・川上量生)にわたる「教養」というものへの考え方の変遷を追うことで、現在のKADOKAWAの企業としての考え方が浮き彫りにされています。
詳しく、本書を読んでもらうとして、本当に大雑把に言えば、今のKADOKAWAは、コンテンツそのものを育ててそれを提供する企業ではなく、コンテンツを産み出すシステムとしてのプラットホームを構築する会社であり、そのプラットホームの構築こそが、ネット革命以降の教養の本体だ、という考え方です。
つまり、中身や個人に依拠する作家性ではなく、作品をどんどんと産み出していくシステムが大切であり、そこに基本「無償提供される投稿」を管理運営することが、現代の教養システムだ、というような考え方ですね。
だから、このKADOKAWAの考え方からすれば、『けものフレンズ』という作品は、設定や世界観という形でプラットホームとして完結しており、あとは、たつき監督だろうと一般の素人だろうと、そのシステムの上に、自分の作品を投稿する存在に過ぎない、ということです。
大塚英志は、こうした考え方を、従来の「作家性」や「内面」を重んじる「人文知」に対して、「効率性」や「実用性」を重視する「工学的知」だと名付けています。
しかも「人文知」を吸収せずに排除することしか考えていない、ある意味で、極めて傲慢でレベルの低い「工学的知」であると、厳しく注文をつけています。
例えば、本書では、川上量生が宮崎駿を怒らせた事件などに言及して、「人文知」と「工学的知」の断絶具合をわかりやすく描いて見せたりして、この安易な「効率よく面白いものを産出できれば良し」とする、KADOKAWA的な「工学的知」の薄っぺらさを描いていますが、このような今のKADOKAWAの性格が、金儲けしか考えていない輩を必然的に招き入れることになっている、と指摘しています。
粗雑な「工学的知」は、効率のいい金儲けをしたがる人間を招き寄せやすいというのは、わかりやすいところでしょう。
ここで大塚英志が説明しているのは、KADOKAWAの今のビジネススタイルの基本です。
プラットホームを構築し、それを提供して解放し、オタクに自主的にコンテンツを提供させ、懐手にして作品が集まるのを待って、それを商品化する。
例えば、これはKADOKAWAではないけれど、わかりやすい同様のプラットホームサービスとしては、pixivなんかがある。
アマチュアに、コンテンツを「投稿」させて、それを公開することで広告収入を稼ぎ、さらに商品価値がありそうな作品や作家を囲い込んで商品化する。
これまでの出版社のように、集めて育てるという過程が無く、非常に効率的な商品開拓システムだと言えるでしょう。
もちろん、こうした場合、コンテンツを「投稿」するアマチュアたちは、自分の作品を広く公開してもらえるというメリットがあるから、多少の搾取は気にしません。ギブアンドテイクだということです。
しかし、ここでの関係は、投稿者の方が圧倒的に不利だという事実を見落としてはならない。特に才能のあるアマチュアであればあるほど、そうです。
才能のないアマチュアの投稿は「その他」として放置しておけばいいだけ。
特殊詐欺と同じで、100人に声をかけて1人が引っかかれば、それで大儲けできるシステムだからです。
このような考え方に立ったプラットホーム企業にとっては、昔のように「作家性を持つ個人の価値」というものは、当然のことながら軽視されます。
ゴミの中から掬い出した砂金は、掬い出した者の所有物であって、砂金に自己主張は認められないのは当然、という感覚だからです。
そして、このように見てくれば「『けものフレンズ』たつき監督降板問題」も、決して例外的なものではないということがハッキリしますし、KADOKAWA側に「悪意」などは特に無く、ただその「工学的知」に由来する「収益化システム」にしたがって、『けものフレンズ』というプラットホームで、たつき監督についても二次創作を許し、コンテンツを提供させただけ、くらいの感覚なのでしょう。
ここに、たつき監督の際立った「作家性」と、基本的に「作家性」の価値を認めない、KADOKAWA的なプラットホームシステムの対立があります。
KADOKAWAにしてみれば、プラットホームシステムの障害にしかならない「個性=作家性」などはいらない、と言うか、積極的に迷惑なだけなんですね。非効率極まりないものだから。
だから、たつき監督の排除は、『けものフレンズ』というプラットホームシステムから、凶悪なバグを排除したも同然なんだ、ということです。
彼らは、当たり前のことをしただけなのだから、そこに罪悪感などカケラもなく、反省などしないのは当然なのです。
では、KADOKAWAが実質的な「作者=原作者」である『けものフレンズ』というプラットホームシステムにおいて、たつき監督が生き残る道はあるでしょうか?
残念ながら、私は無いと思います。
プラットホームシステムというのは、効率よく商品を産出するシステムであり、そのためには「作家性」を消費し、時に、手に余れば排除することも辞さない、冷たいシステムです。
そんな感性を、宮崎駿や高畑勲は、川上量生の中に見て説教をしたのです。その「人文知」において。
ともあれ、この先も当分、こうした流れは変わらないでしょう。
人間を収奪するシステムは、完成しつつあるからです。
しかし、こうしたシステムが産み出す「教養」というものは、きっと「非人間的」なものに相違ないと思います。
だから、システムが人間性を収奪し、作家性を縊り殺す前に「人文知」は、こうした「冷たい方程式」に抵抗し、人間的にバージョンアップされたシステムの構築を目指すしかありません。
具体的な抵抗方法は、私にもはっきり見えてはいませんが、ただ私に言えることは、私たち自身が「システムに飼い慣らされた、養豚場の豚」になってはならない、ということだと思います。
たつき監督が今後目指すであろう方向も、そっちしかないんじゃないか。
たつき監督の才能は、養豚場の枠には収まりきらないものだからです。
※ 初出は、本年(2017年)11月30日付けの「mixi日記」である『「たつき監督降板問題」の本質としての、KADOKAWA的なプラットホームシステム』(アレクセイ名義)です。
再掲:2017年12月4日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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