書評:シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)
170ページほどの比較的薄目の本なので、正直なところ少し舐めていたのだが、濃厚かつとても素晴らしい本で、大いに啓蒙された。
本書に関して紹介しておきたいことは、大きく2点ある。
本書は、そのタイトルからも分かるとおり「99%の」人々のための「フェミニズム宣言(マニフェスト)」であり、その「綱領(platform)」である。要は、
「私たちは、たった1%の社会的エリートのためのフェミニズムではなく、その他99%の人々のためのフェミニズムであることを、ここに宣言して、その綱領を示す」
という内容のものである。
だが、本書を冒頭から読んでいくと、「私たちの〈99%のためのフェミニズム〉とは、このようなものであらねばならず、このように行動していく」ということが、短く区切って明確に語られて行くのだが、その考え方の「根拠」となるところが、少々わかりにくい。
「こう考えて、こうやる」というのはよく分かるのだが、「どうして、そのように考えるのか」という前段の「根拠」の部分が、「フェミニズム」や「社会主義」に詳しくない者にはわかりにくいし、「旧来の(マルクスなどの)社会主義思想」しか知らない者が読むと、「社会主義」と「フェミニズム」が結びつく「必然性」がよくわからないため、単に、「左派フェミニズム」の人たちによる、主流派フェミニズムに対する批判を含んだ、行動主義フェミニズムのアピールなのだろう、くらいにしか感じられない。
ところが、そうした理解がまったく不十分だというのは、最後に収録された、40ページにおよぶ長い「あとがき」を読むことで、はっきりと理解できるような構造になっている。
この長い「あとがき」において、著者らが「こう考えて、こうやる」と主張していることの「理論的根拠」が、やっと詳しく説明されて、「そういうことだったのか!」と、盲を開かれることになるのだ。
したがって、私のおすすめとしては、まず冒頭の「マニフェスト」を含む本文部分を二、三章読み、それでおおよその雰囲気を掴んだところで「あとがき」に飛び、それを読んでから、ふたたび本文に戻って続きを読めば良いと思う。そうすれば、その主張の「理論的根拠」が頭に入っているから、本文の「こう考えて、こうやる」と主張も、素直に「納得できる主張」として読むことができるようになるからである。
そんなわけで、このレビューでは、前記のとおり、
の2点について、この順に分けて説明したいと思う。
つまり、(1)の批判は、決して単なる北村紗衣への個人攻撃などではなく、北村紗衣に代表される「リーン・イン・フェミニズム」というものがどういうものなのかをまず知ってもらい、それがなぜ批判されなければならないものなのかという根拠としての(2)を説明する、という段取りとなっているのだ。
○ ○ ○
私は、これまでの「北村紗衣批判」関連レビューの中で、何度となく、北村紗衣のフェミニズムについて、次のように批判してきた。
私は、「部落差別」「在日朝鮮人差別」「沖縄米軍基地問題」といった「差別問題」について、長らく注目し論じてきた人間の一人として、当たり前の「疑問」を感じ、このような点を北村紗衣に問うたのである。
そして無論、「呉座勇一に対するオープンレター」問題と同様、北村紗衣は、自身に不都合な事実には「だんまり」で応じることしかしなかったのだ。
だが、本書『99%のためのフェミニズム宣言』を読んで、私の上のような批判が、北村紗衣やその仲間である東大教授のフェミニスト・清水晶子などの「弱点」を正しく突くものであったことを教えられた。
具体的どういうことなのかは、本書の冒頭の、以下の部分を読んでいただければ、たちまち理解できるだろう。
ここに示されているのは、「フェミニズム」と言っても色々あって、「資本主義の侍女でしかない、リーン・イン・フェミニズム」もあれば、それが依存する「不公正な世界の原理たる資本主義」に抵抗し、これを打倒しようとしている「99%のためのフェミニズム」もある、ということだ。
「リーン・イン・フェミニズム」とは、女性が「1%のエリート」の中で半数以上を占めることを目標としており、残りの「99%の人々(である男女)」のことを、本音では気になどしていない。
だから、こうした「リーン・イン・フェミニズム」は、現在の「格差社会」を生み出している「資本主義」を否定してはおらず、ただ、自分が「男性同様に、上位1%に入る」ことしか目指していない「エリート主義フェミニズム」なのだ。
またそのために、資本主義社会では原理的に「1%には入れない」ことが自明である「99%の女性たち」を、フェミニズムの名の下に煽動して、自身の「立身出世」のために利用するだけなのである。「私がこうなれたように、あなたたちもこうなれるのだ。だから、私を応援して」と、そう言って欺くのである。
「資本主義」というのは、他人が生産した価値を「搾取」するところに成立する社会体制なのだから、みんなが「1%の搾取する側」になれるわけではない。
「被搾取対象」が大多数を占めないかぎり、「1%のエリート(選民)」の存在はあり得ないのだ。
だから、「エリート(選民)」になりたいと望んでいる男女は、今の「資本主義」体制を否定したりはしない。あくまでも、その体制の中での「1%」を目指すのであり、その「1%」になって、「99%からの搾取」を喜んで肯定しているのが、「リーン・イン・フェミニズム」なのだ。
したがって、地方新聞社社主の娘として東京大学に入り、イギリスに留学して博士号を取得し、日本に帰ってから勤めた武蔵大学では、40歳にならず「テニュア(終身雇用補償)教授」になった北村紗衣は、どこからどう見ても、日本における「リーン・イン・フェミニスト」の代表選手である。
また、そんな北村紗衣が起こした、山内雁琳に対する「名誉毀損民事賠償」のスラップ裁判では、北村紗衣は8人もの弁護士による弁護団を組んで、弁護士一人を雇うのが精一杯だった、一介の大学講師でしかなかった山内雁琳側を責め立てた。
そして、これに抵抗するための裁判費用をカンパに求めようとした山内を「裁判で金儲けをしようとしている」と非難して、その職を奪ったばかりか、名誉毀損裁判の常識的賠償額とは一桁違う200数十万円をむしり取ったのが、金持ちエリートの北村紗衣である。
要は「資本の力」を活用して「立身出世」し、「札束の力」で論敵を葬ってきたと呼んでいいのが、フェミニスト北村紗衣の「リーン・イン・フェミニズム」なのである。
したがって、本書が主唱する「99%のためのフェミニズム」とは、そうした「リーン・イン・フェミニズム」が自明のものとして寄生している「資本主義」体制を打倒することを目指すものだ、という意味である。
言い換えれば、「資本主義」体制の下では、どんなにうまくやっても「経済格差は広がる一方」でしかなく、しかも「資本主義」は、「富の独占」のために「地球資源の独占」を進める結果、この地球環境を、決定的に損滅しようとさえしている。
だからこそ、私たち「99%に属する男女」は、それがどんなに困難なことであろうと、私たち自身の尊厳と、私たちの子供や子孫の尊厳ある生を守るために、「資本主義」体制を打倒しなければならない、一一というのが、本書の主張なのだ。
では、「99%のためのフェミニズム」が実現を目指す「社会体制」とは、どのようなものなのかといえば、それは「平等な社会主義体制」であり、要は「みんなが平等に生活を保証される社会」の実現である。
無論それは、決して容易なことではないのだけれど、しかし、それを少しでも実現していかなければ、「99%に属する男女」は、今後ますます「1%のエリート」のための食い物にされ、何のために生きているのかもわからない、「搾取されっぱなしの人生」を送った末に、その奴隷的生涯を終えなければならない、ということになってしまう。
そして、さらにその先には、地球環境の決定的な破壊による、人類の滅亡なのだ。
だから、そうした「みんなが平等に生活を保証される社会」の実現が簡単ではないことくらいはわかっているし、過去には同種の理想を掲げながら、それが真逆の「過酷な独裁体制」に転化した挙句に破綻したという歴史があることも重々承知している。
それでも、私たちは、だからと言って「資本主義しかない」と、そう思い込まされ、諦めさせられてはならないのだ。
理想を目指しつつ、その中で常に議論と反省を繰り返しながら進んでいくのが、目指されるべき「新たな社会主義運動」であり、その中核となるのが「99%のためのフェミニズム」なのである。
ドナルド・トランプに象徴されるような「保守派」の「男女差別的伝統主義」に対して、「リベラル・フェミニズム」は「男女が平等に活躍できる社会を目指すフェミニズム」を語っているかのように見える。
まるで「保守派とは真逆」な、「差別からの解放」を謳っているかのように見えるが、そうではない。
一一どちらも、「資本主義体制」つまり「1%のエリートと、その搾取対象たる99%のその他」によってのみ継続可能な「資本主義」体制を前提として肯定している点では、まったく同じなのだ。
両者は、「資本主義体制護持」のための補完勢力でしかなく、「保守派」というのは「リベラル・フェミニズム」の「引き立て役」でしかない。
男女平等を求める女性は、男女差別を伝統として認める「保守派」を敵視し、同じく「保守派」を敵視しているかのような「リベラル・フェミニズム」を味方だと思って、支持するだろう。「リベラル・フェミニズム」を支持していれば、男女の平等な社会が近づくように思っているだろう。一一だが、そうではない。
「リベラル・フェミニズム」とは「リーン・イン・フェミニスト」による「綺麗事のおためごかし」でしかなく、「平等な社会」を目指すものではあり得ない。
「リーン・イン・フェミニズム」たる「リベラル・フェミニズム」が目指すもの、その本音とは「1%のエリートと、その搾取対象たる99%のその他」によって構成される「資本主義体制」の護持なのだ。
エリートの仲間入りを目指し、それを果たした「リーン・イン・フェミニスト」たる「リベラル・フェミニスト」たちが、どうしてわざわざ「無能な大衆連中」と「同列化」されることになる「みんなが平等に生活を保証される社会」など望むだろうか。そうなれば、当然その分、自分たち(エリート)の生活水準は下がるのだから、そんなことを目指すはずがないのである。豪邸を捨ててアパート暮らしする気など、もとより彼(女)らには無いのである。
では、そうした「リベラル・フェミニズム」の「敵」と見なされている「保守派」とは、どういう存在なのかといえば、それは「リベラル・フェミニズム」に対する「敵役=悪役」を担う、言うなれば「引き立て役」なのだ。
世の中の流れは、基本的に「男女平等」「ジェンダー平等」に向かっている。しかしそれは、「すべての男女」や「すべてのジェンダー」が「平等に幸福になる」社会を目指すものではなく、「1%のエリート男女」によって搾取される対象として「平等」な「男女」であり「ジェンダー」に至るものでしかない。
どんな範疇に入ろうと、それが「搾取対象」であるのならば「なんら問題がない」。「平等だと認めてさえやれば、搾取対象のままであっても満足できるような愚かな大衆」には、形式上の「平等」を夢見させておき、「われわれ1%のエリートは、彼らから搾取する実を取ろう」というのである。
そして、その際に「悪役」になってくれるのが、わかりやすく反時代的な「保守派」である。
「保守派」が、わかりやすく「貧しい人たち」の支持を取り込んで、一定の力を持ったとしても、それで「資本主義体制」が転覆されるわけではない。
だから「リーン・イン・フェミニスト」も「エリート」のままだし、憎まれ役の「保守派」がいるからこそ、「リベラル・フェミニズム」は「あんな、反時代的な差別主義者(保守派)に騙されてはいけない。私たちは皆、平等であるべきだ!」などと「正義の味方」を気取ることもできるのである。
そうした意味で、「リベラル・フェミニズム」と「保守派」は、「資本主義体制護持のための補完勢力」なのである(日本で言えば、公明党と自民党みたいなものか)。
だから、上の(2つ目の)引用文の中で、
ということになるのである。
また、だからこそ、日本における「リーン・イン・フェミニスト」の代表格たる、「武蔵大学の教授」でフェミニストを自称する北村紗衣は、「部落差別」「在日朝鮮人差別」「沖縄米軍基地問題」になど、興味はないのだ。
なぜなら、それらは「資本主義体制」において必然的に生み出された「搾取対象」であり、そうしたものがすべて無くなってしまうことなど、「リーン・イン・フェミニスト」である北村紗衣は、毛ほども願ってはいないからである。
だから、私たち「99%の男女」は、「資本主義体制」に組み込まれた、その「御用思想」でしかない「リベラル・フェミニズム」に騙されてはならない。
「リーン・イン・フェミニスト」たちは、本当の意味での「平等」など求めていないし、「みんな(100%)のための平等」など、まったく望んではおらず、むしろ、それを妨害するために、「偽物の理想」としての「リベラル・フェミニズム」を振り撒いて、「資本主義の侍女」としての役目に邁進しているのである。
一一以上が、(1)の〈北村紗衣に代表される「リーン・イン・フェミニズム」の問題。〉についての説明だ。
○ ○ ○
では次に、(2)の問題たる〈なぜ「反資本主義」のためには「フェミニズム」が必要なのかの理論的根拠。〉についての説明をしよう。
経済学に詳しくはないので、大雑把で不正確な説明しかできないかもしれないが、そこはご容赦願いたい。
さて、カール・マルクスに始まる「反資本主義」としての「社会主義」経済論というのは、「労働における搾取」理論(剰余価値論)を中心に展開されてきた。
労働者がその労働によって産む「価値」の中から、少なからぬ「余剰(剰余)価値」を資本家が搾取する。そしてさらに、その「余剰価値」を新たな価値を生むための資産とすることで、「資本主義」経済を、発展的に回してきたのである。
言い換えれば、「資本主義」経済が、発展的に成長するためには、より多くの「搾取」が必要だということであり、言うなれば、資本家(経済エリート)は、労働者大衆から、可能なかぎり搾り取ってこそ、資本主義は目覚ましい発展を遂げることが可能だということである。だからこそ、労働者は「生かさず殺さず」なのだ。
つまり、搾り取りすぎて殺してしまっては、金儲けのための「労働力」が失われてしまうから、そこまでは、したくても出来ない。しかし、より効率的に搾り取る社会体制を構築できるならば、労働者に「余裕」を与える必要はなく、いかにギリギリまで搾り取るかが問題となるのだ。
例えば、労働力を国内だけで調達しているかぎりは、その労働力に対して支払われるべき対価は、一定のところで限界に達してしまう。しかし、外国から安い労働力を調達できるようになれば、それに合わせて、国内の労働力への対価支払い水準を下げることができて、その分が「儲け」になる。国内労働者は、これまで以上にその身を削ってでも頑張らないわけにはいかなくなるのである。
で、これは「外国から労働力を調達する」という譬え話だが、日本を含む多くの国では、現実には「生産ラインを外国に移して、安い労働力を確保することで、生産コストを下げる」ということになった。そうなって久しいのだが、これが「グローバル経済」の基本的な構図だ。
しかし、人間を含む「地球資源」は、基本的に「閉鎖系」であるから、「誰かが儲ければ、誰かが損をしている」ということになる。
もちろん、「太陽光線(エネルギー)」のように、外部から一方的に持ち込まれる「資源」もあるけれども、それも「消費」すれば「ゴミ」となって、地球という閉鎖系の中に溜まっていくだけだ。つまり、もともと地球にある資源は掘り尽くされてゴミに変わり、外からくる資源もゴミになる。
ここで問題となるのは、地球環境の「回復力」で、その範囲内での「消費」なのであれば、地球環境の「恒常性」は保てるわけなのだが、「資本主義」における加速度的な「拡大再生産」とその「過剰消費」においては、その「消費」を、地球の「恒常性」の範囲内にとどめておくことはできない。
したがって自ずと、不可逆的な「環境破壊」へ、そして「資本主義」が必然的にもたらす「人類の破滅」へと、まっしぐらに進んでいるというのが、今の私たちの世界なのである。
そして、そうしたことと「フェミニズム」がどう関係してくるのかというと、要は「女性差別」というものもまた「資本主義的な搾取」の重要な一形態であり、そうでありながら、マルクスの経済学では、「女性が無償で担わされた家庭内の(ケアの)問題=社会的再生産の問題」が、ほとんど意識・考慮されていなかった、ということなのである。
どうだろうか? 多少は難しいかもしれないが、私のそれまでの説明で、おおよその雰囲気くらいは掴めたのではないだろうか。
要は、これまでの「資本主義論」では、「家庭」を中心とした社会的な「再生産」を、「資本主義経済」の問題(そのもの)だとは考えておらず、そこまで含めて「賃金」を支払うべき対象だとは考えられていなかった、ということなのだ。
どこまで意識されていたかは別にして、「資本家」たちは、それは「労働とその対価」という問題とは完全に無関係な「私生活の問題=感情生活の問題」だと考えることによって、そこでの女たちの労働を「搾取」してきたのであり、私たちはそれに、まんまと騙されて(あるいは、乗せられて)きたのである。
今この「不平等」な「格差社会」を考える上で、私たちが重視しなければならないのは、これまで「家庭の問題」として、主として女性たちが「無償で担わされてきた労働」に対して、正当な対価としての賃金を、「資本家」たちに支払わせることなのだ。
だからこそ、その意味で「フェミニズム」は、「格差を生む資本主義」に対抗するための、中心思想のひとつとして重視されなければならない。それは、これまで見逃されてきた「資本主義の欺瞞」を暴いて、平等な社会を実現するための思想なのである。
しかし、そうした「平等な社会」が実現すれば、当然、資本主義経済社会におけるそれのような「急激な進歩発展」は見込めない。
だが、そんなものは所詮「1%のエリート」のためのもの(過剰な贅沢)でしかない。私たちはこれまで、その「おこぼれ」を、過大に「ありがたがらされてきた」だけなのだ(しかも、その過剰な贅沢によって、地球環境は毀損されている)。
本当は、もっともっと「平等に」豊かになる権利が、私たち労働者にはある。少なくとも「すべての人が平等に生活を保証される社会」を享受する権利を持っているのである。
だから、私たちは「本来、女性がケアワーク(=社会的再生産)の対価として得られるべき対価」を、平等に「分配」しなければならない。当然、男性が働いて得る対価も含めて、それらが平等に「再分配」される「非資本主義」的な社会体制を実現しなければならない。
それがなされないかぎり、女性ばかりではなく、「99%の人々(男女)」の誰もが、真の意味での「社会的平等」を享受することはできないのである。
この「99%のためのフェミニズム」とは、「すべての人の平等」を実現するための足がかりとして、決して無視し得ない思想的要諦なのである。
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ところで、私は以前、黒澤明監督の映画『天国と地獄』のレビューで、以下のように論じた。
こう論じた上で、北村紗衣による次の書評を引用した。
そして、この書評について、次のように論じた。
つまり、この段階では、私自身、女性差別の問題を「資本主義」の問題として捉えるということが出来ていなかったものの、この社会の問題を「男女差別」の問題に一元化する発想には、当たり前に異を唱えていた。
私たちが考えるべき差別は、単なる男女差別の問題でも、経済的貧富の問題でもないと。
問題の根底には、「他者からより多く搾取することで富を築き、そのことで必然的な貧富を産む資本主義システム」というものの問題があった、ということである。
このシステムを打倒しないかぎり、私たちはただ「幸せになりたいだけ」で努力しても、「どこかの誰かからの搾取」をしないではいられないのである。
その意味でも、私たちは「すべての人の幸福」のために、公平な「再分配」のなされる社会を目指さなくてはならないのだ。
たとえ、それがどんなに困難なことであろうとも、むざむざ、誰かの餌食にはならず、誰をも餌食にしないために。
(2025年1月15日)
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