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竹本健治の〈天才貧乏〉 : 『狐火の辻』

書評:竹本健治『狐火の辻』(KADOKAWA)

竹本健治は天才作家である。一一と、こう書いても、竹本健治の本領を知らない人は、竹本ファンの大袈裟な提灯レビューの言葉だと思うかもしれない。しかし、そうではない。

実際、竹本健治の本領が発揮された作品、例えば『匣の中の失楽』『ウロボロスの偽書』『涙香迷宮』あるいは『トランプ殺人事件』『クレシェンド』『かくも水深き不在』『閉じ箱』などを読んでみると良い。それらの作品を「面白い」と思うかどうかは、読者の趣味や能力(読解力)の問題があるから一概には決めつけられないが、ともあれ、それらが「規格はずれ」の作品であるということくらいは実感できるはずだ(それらを読まずして、竹本健治を語るなかれ)。

そして、こうした作品の「規格はずれ」っぷり(破格さ)は、凡人が努力してなし得るようなレベルのものではなかった。だからこそ、それは稀有なものとして素晴らしいと言えるし、一部の読み巧者からは絶賛を送られたのだが、その反面、平均的なミステリ読者からは「何が良いのか、さっぱりわからん」という類いの、感情的な反発までひき起したりもして、竹本ファンの間では、竹本健治という作家は、つくづく「天才貧乏」だ、などと評されたりもした。
もちろん、その意味するところは「天稟が無い」ということではなく、「(天稟が)凄すぎて、一般の理解を得にくい」という意味である。

こうした特徴を、最も典型的に示した作品が、近年の記念碑的傑作『涙香迷宮』で、この作品は、竹本健治の天才無くしては書けなかった歴史的傑作であり、力量のある多くのミステリ作家が瞠目し、惜しみない賛辞を送り、その結果として「本格ミステリ大賞」を受賞したものの、一般の読者ウケは必ずしも良くなかった。

イマドキの一般読者ウケとは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、「キャラクター(登場人物)のわかりやすい魅力」と「アッと驚くドンデン返し」だと言ってもいいだろう。
前者の「キャラクターのわかりやすい魅力」の問題とは、要は、ラノベ的な「キャラクター中心のエンタメ小説」に(のみ)馴染んだ読者層には、「登場人物を駒として使う小説」というものが理解できず我慢ならない、ということだ。言い変えれば、小説には、いろんな形式があって、その中には、キャラクターの(わかりやすい)魅力に重きを措かずに、登場人物を、作品の「効率的なパーツ」あるいは、あえて「駒」として構成することで、作品の狙いを際立たせる、といったものもあるのだが、そうしたものに馴染みのない読者には、それが「期待を裏切る」ものと感じられてしまう。そうした読者には、例えば「楽しませるのではなく、考えさせる(思考を強いることで楽しませる)小説」というものが理解できないのである。
一方「アッと驚くドンデン返し」について言えば、これは、ミステリの古典をあるていど読んでいる読者には「あの一発芸的なトリックの、凡庸な変奏でしかない(二番煎じ〜百番煎じ)」というような(創作効率の良い)作品も、そうした「教養」を持たない読者には、わかりやすく「斬新」に感じられてしまう、というような問題である。

私は、『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件: 表現の不自由と日本』(岡本有佳、アライ=ヒロユキ編)という本のレビュー「〈不愉快〉という思考放棄」において、同様の問題について、次のように論じた。

『本書でも何度か指摘されているとおり「芸術というのは、楽しい、美しいものばかりではない(つまり、芸術作品は娯楽・商品ではない)」という、初歩的な理解の「一般的な欠如」の問題である。

「芸術」というものに、まともに接してきた人間ならば、これはもう「初歩の初歩」にすぎない話なのだが、しかし、多くの人は、実際のところ「芸術」作品に、ほとんど接していない。だからこそ、「芸術」が何たるかを知らないのだ。
もちろん、こう書くと、いくらかの人は「私だって、美術館に行ったこともあれば、テレビの美術番組を楽しんでいる」と言うかもしれないが、美術館へ行ったりテレビの美術番組を見るだけなら「猿でも出来る」のだ。つまり、何にも考えてなくても「見る(網膜に映す)」だけ「知っている(中味や意味ではなく、存在を知っているだけ)」なら「犬猫」にも可能なのである。

「芸術」作品を「芸術」として鑑賞するとは、鑑賞する側(鑑賞者)に、それ相応の「知的な構え=鑑賞態度」が無ければ、その作品が「芸術性」を秘めていても、その鑑賞者の目には、その「芸術性」は金輪際、開示されはしないのだ。
言い変えれば(これも「芸術」鑑賞者には「常識に類する話」だが)「芸術とは、作品と鑑賞者の接触面において、初めて成立する相互行為」であって、例えば、鑑賞者が「猿や犬猫のたぐい」であれば、そこには「芸術」性は存在しないのである。

このように、「芸術」というものは、「知的な応答」において初めて成立するものであって、「雛鳥が大口を開けて闇雲にピーピー鳴いていれば、親鳥がその口に餌を入れてくれる」という類いの行為ではない。
したがって、作家から提示された作品(=問題提起)に対し、鑑賞者の側では、そこに「自分の力で、意味を見いだしにいく知的構え」が是非とも必要なのであり、こうした相互関係が成立して初めて、「芸術鑑賞」という行為は成立するし、そこに初めて「芸術鑑賞者」が発生するのである。』

つまり、竹本健治の「天才貧乏」とは、要は、一般には「エンタメ=大衆娯楽小説」だと理解されている「ミステリ」というジャンルに属する作家でありながら、その本領を発揮すればするほど、「エンタメ=大衆娯楽小説」ではなく、「芸術」に近づいてしまうという「不幸な属性」の謂いなのである。

そして、そうした観点からすれば、本書『狐火の辻』は、竹本健治の作品のなかでは、比較的肩の力を抜いた作品であり、「何が書かれているのか、さっぱりわからん」という苦情の出るような作品にはなっておらず、その意味で、一般的な「推理小説好き」の読者にも楽しめる佳作に仕上がっている。
そのぶん、コアな竹本健治ファンにはいささか物足りなくもあるのだが、しかし、それでも「八幡の薮知らず」的な作品として、一般の読者には十分楽しめるものになっているのではないだろうか。いや、あるいは、それでも複雑すぎる(面倒臭い)と思われてしまうのだろうか?

初出:2020年2月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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