ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 『巴里の空の下セーヌは流れる』 : 永遠なる「花の都」
映画評:ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『巴里の空の下セーヌは流れる』(1951年・フランス映画)
フランス映画の古典的名作である。
ちなみに、「巴里」とは、フランスの首都「パリ」のことだ。昔は、このような当て字表記をした。「獨逸(ドイツ)」とか「亜米利加(アメリカ)」などと同様である。
さて、本作には2つの主題歌「巴里の空の下」(作詞ジャン・ドルジャク、作曲ユベール・ジロオ)、「巴里の心臓」(作詞ルネ・ルーゾオ、作曲ジャン・ヴィーネ)があって、どちらも名曲だが、特に「巴里の空の下」の方は、少なくとも40歳以上の日本人なら誰でも耳にしたことはあるくらい有名で、かつて大ヒットしたシャンソン曲である。
例えば、フランス映画にもシャンソンにも縁なく生きてきた人でも、テレビやラジオを視たり聴いたりしてきた世代なら、この歌を歌った、エディット・ピアフ、イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴールといった名前くらいは耳にしたことがあるはず。
エディット・ピアフは、そのものズバリ『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』という伝記映画が作られたほど有名だし、イヴ・モンタンは俳優でもあったから、そちらで名前を耳にしたことがある人も多いだろう。シャルル・アズナヴールは、ご存知『機動戦士ガンダム』の登場人物シャア・アズナブルの名前の由来となった人である。
「巴里の空の下」を歌った日本人といえば、越路吹雪が有名であろう。また、舞台でエディット・ピアフを演じた美輪明宏も、当然この曲を歌っている。
そんなわけで、主題歌「巴里の空の下」は、とんでもなく有名な歴史的大ヒット曲の名作シャンソンであり、本作『巴里の空の下セーヌは流れる』も、主題歌の知名度には大きく遅れをとるものの、少なくともフランス映画やフランス文学に親しんだことがある人なら、知らない人はいないくらいの古典的名作映画だ。
で、私がこの映画を知ったのは、たぶん中井英夫の小説かエッセイにおいてである。
中井はフランス映画が好きなので、代表作であるミステリ小説『虚無への供物』の中にも、探偵役の一人としてシャンソン歌手の女性が登場して、シャンソンを語るシーンもあったはずだし、エッセイでも時折フランス映画やシャンソンに触れていたから、そうしたところで、私は本作のタイトルを、主題歌の「巴里の空の下」と混同しつつ、なんとなく記憶していたのではないかと思う。
で、今回、本作『巴里の空の下セーヌは流れる』を視ることにしたのは、中井英夫の著作としては例外的に、長らく未読のままにしてきた『月蝕領映画館』を、先日とうとう読んだからである。
この映画エッセイ集は、1981年当時の新作映画についてのものなので、それ以前の、ましてや戦前の古い作品については、あくまでも思い出語り的に言及されているに過ぎない。だから、本作についても特に詳しく語られていたわけではないのだが、古いフランス映画に話が及んでいたことから、そう言えば、「巴里の空の下」が主題歌の「あの映画」をまだ見てなかったなと思い出し、この機会に見ることにしたのである。
なお、下のジャン=リュック・ゴダールに関するレビューでは、未見であった本作に言及している。
ともあれ、何度も書いていることなのだが、私が映画を本格的に観るようになったのは、退職して暇ができた、ここ2年ほどのことに過ぎない。
暇ができたので、最初は、それまで見たことのなかった、マイナー系の映画やドキュメンタリー映画なんかを見始めたのだが、その流れで、それまで名前だけは聞いたことのあるタルコフスキーだの、ゴダールだのも見始めたのだ。
タルコフスキーは、SF小説の名作『ソラリス』(スタニスワフ・レム)を最初に映画化した人として知っていただけだし、ゴダールに至っては名前しか知らなかったが、「ヌーヴェル・バーグ」という言葉は耳にしたことがあったので、両者がつながった結果、ゴダールとはどんな映画作家なのだろうと興味を持ったのだ。
だが、タルコフスキーはそれなりに楽しめたものの、ゴダールの作品は、一部例外を除いて、大半は「意味不明」な、面白くもおかしくもない作品だった。
無論、娯楽作品でないというのは了解していたけれども、そうした芸術映画として見ても、どこが良いのかさっぱりわからないものが多かった。
しかも、そんな彼が映画マニアからは「神様」のように崇められているというのだから、私の場合はかえって「その正体を見極めてやろう」ということになり、ゴダール作品は無論、元は映画評論家だったという彼が若い頃に観たような映画まで見ようという気になったのである。
言うまでもないことだが、「ヌーヴェル・バーグ」とは、英語読みなら「ニュー・ウェーブ」であり、ならばその「新しさ」を理解するためには、それ以前の「古典的作品」を知らないのでは、話にならなかったからである。
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そこで本作『巴里の空の下セーヌは流れる』である。
これを撮ったのは、中井英夫の映画エッセイで何度もその名前が上がっており、中井が好きだったのであろう映画監督、ジュリアン・デュヴィヴィエである。
今では、その名を聞く機会も無いに等しいようだけれども、私はこの特徴的な名前を、中井英夫の文章で知っていたのだ。
「Wikipedia」によると、デュヴィヴィエは、次のような人物だ。
『古典フランス映画のビッグ5の1人』だというのだから、代表作くらいは観ておかないといけないだろう。それに何より、中井英夫の好きな映画監督だったのだから、その意味で私にとっては、他の4人にはない特別な意味を持つ。
また『日本では彼の作品が戦前から異常なほど人気があり、映画史研究家ジョルジュ・サドゥールによれば、「この監督は、東洋の一小国だけにおいて、熱烈な観客がいる」と言わしめているほどであった。現在では、フランス本国においても正当な評価を受けている。』というのも、非常に面白い。
これは私の想像するところだが、デュヴィヴィエの作品というのは、「戦前の日本人」が憧れた「花の都パリ」を、具体的に描いて伝える映画作家という側面があったのではないだろうか。
先の戦争に負けて以来、日本の若者文化は、占領国であるアメリカの色に染め上げられてしまったけれど、戦前において日本の文化を担った、知識人や芸術家たちにとっては、フランスこそが、最先端文化の国であったようだ。
同じヨーロッパでも、ドイツは「お硬い学問学術の国」であり、アメリカやロシア、イギリスなんてのは、国力はあっても、文化的には二等国の「田舎」扱いではなかったか。
そんなわけで、戦前の文化人が海外に留学するといえば、まずフランスであり、その「花の都」である憧れの巴里だったのではないだろうか。
そして、そんな人たちを代表するのが、まず、「藤田嗣治」であり「東郷青児」といった画家たちだったのではないか。一一というのが、あくまでも門外漢たる「私のイメージ」である。
ともあれ、そんなわけでもあろうか、戦前の日本人は、とにかく「フランス」に憧れた。
赤塚不二夫の漫画『おそ松くん』に登場する、出っ歯の「イヤミ」というキャラクターが嫌味なのは、何かといえば「おフランスでは」どうだとか言いたがる「フランスかぶれの気取ったやつ」だからであり、彼の特徴的な「おかっぱ頭」も、たぶん藤田嗣治の真似なのである。
したがって「伝統と最先端の文化を併せ持つ、世界的な文化都市」としてパリは、戦前の日本人の憧れであり、そのパリのイメージを、具体的に見せてくれるのが、デュヴィヴィエ監督の映画だったのではなかったろうか。
無論、本作『巴里の空の下セーヌは流れる』は、戦後の作品ではあるけれど、デュヴィヴィエ監督は戦前から活躍していた人だし、そもそも日本の戦後の知識人の多くは、「戦前」の空気を吸って育った人たちなので、中井英夫がそうであるように、彼らの多くにとっては、やはり「フランス」は憧れの文化都市であり続けたのではないだろうか。
まただからこそ、戦後の作品であるにもかかわらず、本作『巴里の空の下セーヌは流れる』は、主題歌が名曲であったということも無論あるけれども、「古き良き憧れの都パリ」を描いた作品として、戦前の良き時代への郷愁も含めて歓迎された作品だったのではないだろうか。
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本作『巴里の空の下セーヌは流れる』のあらすじは、次のようなものである。
見てのとおり、本作は、メインとなる登場人物が、いく人もいる。だが、いわゆる「群像劇」というのではない。
主な登場人物を整理すると、つぎのとおりである。
こういった人々の、それぞれに多少はドラマティックな個々の物語が描かれ、それが終盤で相互に絡んでゆき、最後は幸せを掴む人もいれば、不幸な死を迎えてしまう人もいる。
つまり、わかりやすく全員そろって幸福になったり、不幸になったりするわけではないのだ。
しかし、本作の興味深いところは、そうした運不運様々な人生模様を、言うなれば「等価なもの」と見るような「視点」で描いている点であろう。
そしてその視点とは、主題歌「巴里の心臓」をバックにパリの夜景を写したオープニングの、歌が終わった半ばから、饒舌に語る「ナレーション」の視点だといって良い。
観客にとっては、パリについて饒舌に語るこのナレーションは、ほとんど「監督」の、本作に向けた「視線」と同一に感じられるのだが、しかし、このオープニングで「今日もパリには陽が上り、その下での、人々の生活が始まる」みたいな、「パリの人々」に共感的とも思えるナレーションが、物語の最後では、パッピーエンドの物語もバッドエンドの物語も、ぜんぶ含めて「繰り返されていく、パリの人々の営み」であるといった感じで、朗らかなまでに「肯定的」に語られる。
だからそれは、「悲劇」に対しては、いささか「同情を欠いた、冷たい感想」のように感じられるのだけれども、そうした「当たり前に人情的ではない」ところに、対象から距離をおいた「フランスらしいエスプリ(精神性)」を感じる観客も少なくないはずなのだ。
したがって、すでに指摘されていることではあろうが、このナレーションは、たぶん「天使の視点」のそれとして語られており、彼が目を向けているのは、個々の人間ではなく、「花の都」たるパリそのものなのであろう。
そこに住む人間とは、言うなれば、パリの「細胞」みたいなものでしかなく、それは日々「新陳代謝」によって入れ替わるものであり、そうした個々の細胞がどんなかたちで入れ替わろうと、結局大した問題ではないし、むしろ「いろいろあって当然なのだ」といった、天使らしい「大所高所」に立った鳥瞰的な視点なのだと言えるだろう。
実際、「花の都パリ」だからといって、みんなが幸せになるわけではないのは分かりきった話であり、不幸や悲劇も全部ひっくるめてパリは「花の都」であり、「それでもセーヌは流れる」のである。
したがって、本作に「当たり前の人間ドラマ」を期待してはいけない。
本作の主人公は、あくまでも「パリ」であって、語り手の「天使」は、パリを語っているのだから、「枝葉末節」に囚われてはいけないのである。
そしてこうした、人情に縛られない「軽やかな視点」こそが、「人情非喜劇」が好きな日本人一般には理解不能でもあれば、一部知識人や文化人には「斬新なもの」と映ったのであろうことは、想像に難くない。この「人間に対するそっけなさ」こそが、本作の魅力であり、そこが理解できない者は、今の時代においてさえ、本作を理解することはできないのである。
(2024年2月18日)
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