見出し画像

礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』 : 〈習俗〉は破壊されたままなのか

書評:礫川全次『日本人は本当に無宗教なのか』(平凡社新書)

著者の博覧強記ぶりには驚かされるし、それをことさらに見せびらかすという風が無く、むしろ悠揚迫らざるその物腰には、大学研究者のように「研究成果」に追い立てられることのない、在野知識人の面目躍如たるところがあって、いまどき珍しい魅力を放つ著述家であると、まずは高く評価したい。

しかし、別の方がすでに指摘しているとおり、著者の「日本人の無宗教性」に対するアプローチは『歴史民族学的』なものであり、どちらかと言えば宗教学的に「宗教」を見ている私とは、その点で、少々「立場」も違っているようだ。

著者は「日本人の無宗教性」を、次のように捉えている。

『核となっているような宗教があって、その周辺を、民間信仰、呪術、迷信、俗信等々の「習俗」が取り巻き、それらと宗教とが渾然一体となっているような宗教的環境があるとすれば、そうした宗教的環境そのものを、「ひとつの宗教」と呼ぶことはできないか。この場合、「習俗」は、宗教と共存関係にあるというよりは、むしろ、「宗教の一部」として位置づけられることになる。
 江戸期を通して安定していた宗教的環境が保たれてきたということは、言い換えれば、仏教(日本化した仏教)と、それを取り巻く習俗とが渾然一体となった「ひとつの宗教」が存在していたということではなかったのか。その「宗教」が、明治維新という変革の中で、息の根を断たれたということではなかったのか。』(P211)

つまり著者は、「宗教」というものを、現実に「生きている場」にあるものとして考えている。孤立した「宗教そのもの」が問題ではなく、「現にある宗教(形態)」こそが問題なのだ。
そう考えた場合、宗教が各種「習俗」と無縁でないのは自明であり、「宗教」とは常に「習俗」との関係で「一体的」に存在してきたものだと言うことができるだろう。
これが著者の言う「ひとつの宗教」なのだが、しかし、こうした「宗教」規定は、「宗教(そのもの)」と「メタ的宗教(もう一つの宗教)」を混同してしまうことにはならないだろうか。

著者の場合、「明治維新の宗教改革政策により、宗教と一体になっていた(宗教の補完物である)習俗が破壊されてしまったので、結果として日本では、宗教がほとんど自立できなくなってしまった。これが、現在の、日本人の無宗教、という事態なのではないか」という議論なのだが、しかし、私がひっかかるのは、著者が「従来の習俗」に、古典民俗学的に、執着し過ぎているのではないか、という点である。

つまり、たしかにそれまでの「習俗」は、明治維新の宗教改革によって大きく損なわれ、その結果として、日本人は「わかりやすい形式での宗教性」を持たなくなり、その自覚をも失ったのかも知れない。
しかし、「習俗」というものは、時代環境とともに変わっていくものであり、昔には無かった「習俗」が日々生み出され、「習俗が更新されていく」にしたがって、その「新しい習俗」と結びつく形で、「宗教」は今も、昔とは違った形で、生き残っているのではないか、ということだ。

例えば、テレビやネットというものの誕生と普及によって、私たちは確実に「新しい習俗」を形成しているだろう。それはあまりにも身近なものであり、そうと気づきにくいものではあるが、「習俗」とはもともと、同時代においては空気のようなものなのであり、「宗教」もその空気の中で生きているのである。
だから、「宗教」は、そうした、あまり意識されることのない「現代的習俗」のなかで今も生きており、その意味では、今の日本人も、昔と同様に「宗教」を持っていると言えるだろう。
そもそも、昔の多くの庶民は、その空気のような「習俗」のなかで「宗教」に生きていたのだから、「宗教を宗教として客観的に理解」する意識は、ほとんど無かったのではあるまいか。宗教もまた「習俗」や「生活習慣」と同様に「空気のようなもの」として、「生活の一部」でしかなかったのではあるまいか。

であれば、私たちは今も「宗教」を「生活の一部」として実践している、と考えた方が良いだろう。その蓋然性は、極めて高い。
例えば「アイドルへの投資(「お布施」などとも呼ばれる、アイドル関連グッズなどへの過剰な消費活動)」なども、「宗教」の一形態ではないだろうか。また、オリンピックやサッカーやラグビーなどへの熱狂も、あるいは、世界を席巻する「政治的ポピュリズム」における、保守派政党やリーダーへの熱狂や、そこに見られる「愛国心の高揚」なども、すべて「現代的宗教」の一種だとは言えないだろうか。

このように考えていけば、私たちの周囲には「現代習俗と結びつく形で、宗教が、今も変わらずに生き続けている」と言えるし、無論それは、日本とて例外ではない。
ただ、日本の場合は、キリスト教圏のような「宗教的厳格性」が、比較的薄かったために、そうした「習俗の隠れ蓑を着た宗教性」に関する感覚が鈍く、そこに「宗教」と見て取ることができないので、「無宗教」だと誤信しているだけ、なのではないか。

例えば、昭和40年(1965年)に三重県津市で市立体育館建設の際に行われた地鎮祭をめぐり、日本国憲法第20条に定められた政教分離原則に反するのではないかと争われた「津地鎮祭訴訟」(Wikipedia)では『憲法第二十条第三項により禁止される宗教的活動には当たらず、これに対する公金の支出も憲法第八十九条に違反するものではないとされた』(文部科学省HP)わけだが、これは「神道」を「宗教」ではなく「習俗」であるとする、日本特有の「政治的宗教観」でしかなく、キリスト教圏ではおよそ通用しないロジックであろう。
こういう、世界的には「宗教」にしか見えないものを、「習俗」だと考え(言い張)る傾向が、日本の場合は非常に強いのだから、現実にそれが「宗教」と呼ぶべきもの(各種の宗教的習俗=もうひとつの宗教)であっても「いや、それは宗教ではなく習俗だ」ということになり、だからこそ「日本人は(日本政府は・私は)無宗教だ」と考えられてしまっているだけだ、とも言えるのである。

このようなわけで、私は著者の「宗教と習俗は一体化して存在する」という意見には同意できるが、「したがって、明治維新によって習俗が破壊された結果、日本人は無宗教たらざるを得ないのではないか」という考え方には、同意できない。
その理由は前記のとおりで、「習俗はどんどんと更新されて今も存在し、宗教はそれらと結びついて、今も生きている」と考えるからである。

したがって、いま肝心なことは「今の習俗の中にひそむ宗教性」を洞察することであり、「人間とは、つねに宗教的(非理性的)である」ということを肝に銘ずることなのではないだろうか。

初出:2019年11月18日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○






この記事が参加している募集