本能寺の変1582 第97話 13上総介信長 2富田聖徳寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第97話 13上総介信長 2富田聖徳寺
三好義賢の下剋上。
同年(天文二十二年)、六月。
これは、四国阿波のこと。
三好義賢(実休)が守護細川持隆を殺害した。
三好氏は、守護代。
その家臣である。
すなわち、下剋上。
家臣が主君を討った。
義賢は、三好長慶のすぐ下の弟である。
四国に御座しける細川讃岐守殿は、
三好豊前守(義賢)を婿としてもって、成しけるが、
長慶は、細川晴元と対立していた。
晴元は、細川管領家(京兆家)の当主。
長慶の主君である。
晴元、かく成り行き給へば、萬づ行すえ、
六ヶ敷(難しき)や思ひけん、
義賢は、弟十河一存と相談した上で決行した。
豊前守、舎弟民部大夫と相談じ、
其の年、天文廿二年六月九日、生害奉りける、
三好氏にとって、細川持隆は、大恩ある人物だった。
此の人は、中にも、三好家え、代々御志をはこび給ひける、
其の上、冬康(之康=義賢)、已に、父子の契りを成し奉りけるに、
忽(たちま)ちに、此の企てありける、
情けなき次第なり、
義賢は、久米田の合戦で戦死する(永禄五年1562)。
されば、其の罰、則ち、あたり、
幾程なくて、和泉の久米田合戦に、月日も替わらぬ六月九日に、
同じ如くに、胸を突きぬかれて、冬康(義賢)、生害に及びける、
怨念の程こそ、恐ろしけれ、
(「足利季世記」)
これについては、後述する。
また、殺害の日について、「東寺過去帳」には、六月十七日とあり、
こちらが、有力視されている。
「史料綜覧」には、以下のようにある。
(六月)十七日、
阿波細川持隆、足利義栄を奉じて、京に入らんとし、
三好之康を誘ふ、
之康、応ぜず、
是日、持隆を殺す、
日本中に、下剋上が蔓延していた。
これが、光秀・信長の生きた時代である。
「風潮は、時代とともに変化する」
重視すべきである。
【参照】11光秀の年齢 6人間形成 78
光秀は、この様な時代に生まれた。
光秀の人格・人間性は、争乱と下剋上の中で形成された。
⇒ 次へつづく 第98話 13上総介信長 2富田聖徳寺
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?