![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156331753/rectangle_large_type_2_bdc7c18174f2cf4a0c2cf6dbad8dd422.png?width=1200)
本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性5 そ第151話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2(1)光秀の素性5 そ第151話①
はじめに ←目次 ←その一因 目次大 概説 目次中
2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
2(1)光秀の素性 5再興 そ第151話①
【参照】←◎第151話 ←第151話
【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
2争乱 そ第155話① そ第155話②
3下剋上 そ第156話① そ第156話② そ第157話① そ第157話②
そ第158話① そ第158話② そ第158話③ そ第158話④
そ第158話⑤ そ第158話⑥ そ第158話⑦ そ第158話⑧
そ第158話⑨ そ第158話⑩ そ第158話⑪
4没落 そ第200話① そ第200話② そ第200話③
そ第201話① そ第201話② そ第201話③ そ第201話④
そ第201話⑤
5再興 そ第151話① そ第151話②
明智の再興 越前称念寺
永禄元年1558~永禄十年1567
美濃は、斎藤道三死して、義龍・龍興の時代。
尾張は、織田信秀の没後、信長が台頭する時期。
光秀、三十五±四歳~四十四±四歳の頃。
光秀は、大永四年1524±四年ぐらいの生れと思う。
とすれば、この様な年齢になる。
【参照】そ第77話 そ小77 結論 テ第77話 ◎第77話 第77話
「当代記」には、六十七歳とある。
結論として。
下限は、五十五歳ぐらい。
上限は、六十三歳ぐらい。
光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
光秀は、越前に居住していた。
おそらく、称念寺の門前に (福井県坂井市丸岡町長崎19-17) 。
その根拠は、四つ有る。
1「美濃の争乱」に見る土岐氏と朝倉氏の関係。
そ第155話① 光秀と越前の繋がりは、ここに、その原点があった。
そ第155話② 土岐頼武に、嫡男頼純が生まれた。母は、孝景の妹。
そ第156話② 頼純の反撃が始まった。朝倉孝景が援軍を派した。
そ第157話② 光秀は、頼純の家臣。越前は、馴染みの深い国だった。
そ第158話④ 頼純は、道三に殺された。光秀は、越前へ逃げた。
2光秀が信長の越前侵攻作戦に深く関わっていたこと。
第159話 光秀は、信長の越前侵攻作戦に深く関わっていた。
信長は、越前を三度攻めた。
光秀は、その全てに、参陣した。
光秀は、その全てで、中心的な役割を担った。
3「服部七兵衛宛光秀書状」天正元年1573八月二十二日付。
第178話 服部七兵衛 竹身上の儀
第179話 前波吉継 光秀は、越前侵攻に欠くの出来ぬ人物だった。
4「遊行上人三十一祖京畿御修行記」天正八年1580正月二十四日条。
これが、決め手である。
惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、
濃州土岐一家牢人たりしか、
越前朝倉義景を頼み申され、
長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
→【重史025】
光秀の雌伏時代は、20年間つづいた。
すなわち、土岐頼純の死 天文十六年1547~永禄十年1567。
光秀、二十四±四歳~四十四±四歳の頃である。
長く、苦しい日々であった。 →そ第158話④
その前半部分は、闇の中。
確たる史料がない故、全く、わからない。
これが、その、後半部分である。
光秀と、六寮との交流状況等を考えれば、おそらく、そうなるのでは、
ないか。
光秀には、十分な時間があった。
ならば、兵法書等にも、目を通すこともできたと思う。
光秀は、兵法に通じていた。
また、己の人生を見直すこともあっただろう。
もう、若くはない年の頃である。
焦りも、あっただろう。
「このままで、朽ち果てて、堪るか」
そう、思っていたのかもしれない。
なお、福井市東大味には、光秀が居住していた、との伝承がある。
その時期については、わからない。
同所は、一乗谷の西、凡そ2km。
朝倉街道沿いの小集落である。
近くには、明治19年1886に建てられたという明智神社がある。
また、同、西蓮寺には、天正三年1575のものとされる柴田勝家・勝定
の制札が残されているという。
以上、参考までに。
⇒ 次へつづく