丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(2)
「日本の思想史は時代の知性的構造や世界観の発展、あるいは知的関連をたどる研究が甚だ薄弱だった」と丸山はいう。
それは日本史を通じ思想全体の構造に深く根差した性質で、日本の思想の内部構造を立体的に解明する事が困難なのは、あらゆる時代の観念や思想に否応なく総合連関性を与え、すべての思想的立場が自己を歴史的に位置付けるような中核、あるいは座標軸にあたる思想的伝統が形成されなかったためだという。
多くの文学者や歴史家によって、近代日本人の意識や発想が、無常観やもののあわれや固有信仰の幽冥観や儒教的倫理観を背景に規定されるという指摘はあるが、それは過去が自覚的に対象化され、現在の中に“止揚”されるのではなく、ただ背後から現在に滑り込んでいるかのようなもので、伝統思想が伝統として蓄積されることはないようだ。
しかも本来、異質的なものまでが、過去との十全な対決なしに次々と摂取され、過去は過去として放置され自覚的に現在と向き合わずに意識の下に沈降し「忘却」されるので、人がびっくりした時に長い間使わなかった国訛りが急に口から飛び出すように、つまりは突如として「思い出」として噴出するという。丸山はそれを「(日本人の)無構造の伝統」と表現している。
何々即何々、あるいは何々一如という仏教哲学の俗流化したロジックも、異なったものを思想的に接合する「無限抱擁」と「精神的雑居性」の原理に援用されるばかりで、たとえば明治のキリスト教であれ、大正末期からのマルクス主義であれ、本然の精神的な革命の意味が喪失されたまま、安易に受容される。
このようなパターンを日本の“無思想な思想”だと丸山は指摘した。
「日本の思想」を厳しく洞察するのは、丸山が一人ひとりが独立した思想を持ち、異なる文化に向きあう勇気を示すことが民主主義実現に不可避な態度とみるからだろうし、国家(多数者)ではなく、市民(少数者)が民主化という“永遠の運動(未完成のプロセス)”にあることが理想とするからだろう。
民主主義を、軟弱な知的風土の上には根付かないもののようだ。
さて、中身は空虚なくせに、表面だけ上手におさめるというごまかしや、ごまかした時の“したり顔”は見ていて気持ちがよくない。
表面上の平穏はその実、利己的でよそ者を排除する不寛容さやどす黒いエゴイズムを隠匿し、今もそこここの村々(学校や会社)に蛇のようにまとわりついている。
空気を読んで(つまり妥協を優先させ)罪なき者の面をかぶればどうなるのか?
虚妄であった“国家権力の万能”を信じ旗を振り、言葉、運動、理念に再び国家権力の侵害を許さないだろうか?
叡智も勝利も進歩もなく、ただ荒涼とした瓦礫に繰り返し立ちつくすことに再びなりはしないだろうか?
思想的な反省はないがしろにできない。人と環境の不断の相互作用(関係性の想起)がどのような力学の上に成り立つのかは看過できない問題と思っている。
アプローチの方法は一通りではない。丸山の思想はいったい何を見せてくれていたのか。
次は丸山が「國體(こくたい)」をどう読み解いたかを追ってみる。
投げ込られたま小さな歯は、川下に押されていったことだろう。小さな歯が流れに逆らうことはない。
不可視となったの骨の一部は、その存在を、いまはどこにみとめることができるのだろうか。