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円相図(1/4)

心月孤円にして光万象を呑む
光境(さかい)を照らすにあらず
境また存するにあらず
光境ともに亡(ぼう)ず
またこれ何物ぞ

心月孤円 光呑万象
光非照境 境亦非存
光境倶亡 復是何物

 『正法眼蔵』の言葉だが、道元の思想に馴染んで知ったわけではない、きっかけは哲学者の西田幾多郎だった。
 『円相図』とよばれる書があり、それは西田の哲学を象徴すると言われ、その図に添えてあるのがこの言葉だった。

 少し考えてみたいと思った。しかし、考えれば考えるほどわからなくなった。腑に落ちる解釈ができない。
 何度かわかったような気になったが挫かれ、嫌になり、気を取り直してしがみついては弾き返された。
 だが、素通りできない何かがある。だからここで精一杯あがいてみたい。

1.『心月孤円にして』

 東洋思想家中村元は「空観」の歴史的起源とその成立を論じ、およそ次のようなことを言っている。

 空は例えて言うなら鏡のようなもので、鏡の中には何ものも存在しない。だからあらゆるものを映し出すことが可能である。空も鏡のようであり、全てを包容するものだ。空は何もないことであると同時に、存在の充実である。そしてあらゆる現象を成立せしめる基底である。

春秋社中村元選集第22巻「空の論理」
p239-240の一部を要約

 鏡は実体を映すのであり、実体が鏡の中にあるのではない。にもかかわらず、人は鏡の中の像を、意識が寄せ集め仮構した像を、固定化された実体(客観的状態)と見なしてしまう。

 『心月』とは、鏡つまり心の中に実体があると錯覚しないこと、そして妄執に囚われ像を歪める“曇り”を持たないことをいうのではないだろうか。

 《月》は“ありのまま”を映す鏡のような心の有様を比喩し、利己的な世界像からほどかれた《心》を示すのかもしれない。

 そして『孤円』とは、欠けるところのない美しい一円であり、月に見立てた心の様態で、完結したありのままを受け入れ《始まりと終わりのない形》として表現されるのではなかろうか。

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 句は『光万象を呑む』に続くが、それは空(くう)をどう手掛かりとするかが大切になるかもしれない。引き続き精一杯考えたい。

哲学者 西田幾多郎

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