円相図(2/4)
五蘊皆空(ごうんかいくう)という。五蘊は、色(物質的なもの/肉体) 、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、識(識別作用)の五つそれぞれが『皆空』、すべて空であるというのだ。
これによると人が習慣的に想い起こしている「世界」は、頭の中に仮に構築したものということになる。
2.『光万象を呑む』
《光》は智慧をたとえるものと思う。それは「五蘊」が「空」であることを体得した智慧のことではないだろうか。
そして《空性》を知り「わたし」が仮に構築した世界、つまり“あることそれ自体”から離れ、仮に構築した世界に住さない智慧ではないだろうか。
「わたし」は言葉であり、言葉である以上は概念にすぎない。「わたし」は“こうであろう”という思いなしが創りあげた“仮の住まい”で、確固とした実体はない。
「わたし」に実体がないというと、『頭の先からつま先までわたしですよ』『触れることができるこの体に実体が無いなんておかしいよ』と言われそうだが、《ワタシガイル》というのは、今ここにある“実体としてのそのまま”を「わたし」という概念と結びつけた結果で、いわゆる「本来的に」それではない。
赤ん坊が生まれた時から「わたし」ではなく、それは学習するもので、痴呆で言葉を失っても、そして「わたし」が認知できなくなっても、存在が消滅するわけではないことが例にならないだろうか。
ただ人間という生き物の都合として「わたし」を「わたし」とみなしている。
そしてそこに難しさがあるとすれば、《わたしがある》という思いなしが“所有”とそれに伴う“喪失”の苦しみを生むということだろう。
「わたし」が世界の中心かのように錯覚して振る舞うのは、虚妄や渇愛の原因になる。
ブッダその人の言葉を引いてみる。
五蘊が「わたし」を描き、それを『皆空』と諦観する智慧(光)が『万象』を曇りなく、また歪みなく“あらゆる事象”を照らしだす。これが『光万象を呑む』の意味するところではなかろうか。
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いま、まさに思うことは、「わたし」という固有性を実体でとらえる哲学を基盤とするのではなく、音を観る感性や、時(変化)を聞こうとする働きが響きあう『靱(うつほ)』なる身であることを知ることが、「わたし」という事象の結節点を照らすということだ。
稚拙な言い方になるかもしれないが、西洋の「知」は知るほどに「世界」の解像度を上げて見せてくれる精密な機械のようで、対する「五蘊皆空」のような「知」は、あくまで“肉眼”で見つめるものだと思う。
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