頭の中の稚拙な図式
『ジョーカー2』はとても面白かったです。確かに酷評され、そして上がらない興行収入が示すとおり駄作だったのかもしれません。それを疑う余地は映画に散見されます。しかしタイミングが合い、私にはとても刺さりました。
何が面白かったのか、それは見終えた後に『これはもう映画の娯楽性をぶち壊しにかかったんやな』と思えたところです。
すべてではありませんが、映画は娯楽です。監督がいて演出家がいて、人格(キャラクター)を操る役者がいる。白い布に投じられるのは“影”です。
この映画は“影”が“影”であであることの成り立ちを破壊しにかかっていると感じました。
オープニングのチープなアニメーションは、とても珍奇なものですが、それは人格の分裂(フォリ・ア・ドゥ)を準備する仕掛けかもしれません、しかし私は『物語りは“影”だ、さぁ引き剥がしてお見せしましょう』という宣戦布告ととらえました。映画を観終えてからの感想ですが。
『なんでもいい、だからこんな茶番は終わらせようぜ』というセリフ化されないメッセージが、傘をカラフルな色に染めあげさせている。こうした演出の一つ一つが、映画の「娯楽」という実は薄いかもしれない仮面を引き剥す作業のようでした。
刑務所でのジョーカーの振る舞いは実に自由です。タバコを飲み、歌声サークルで異性と交流する。檻の窮屈さが感じられません。そういう演出です。
『刑務所の内と外と一体何が違う?』という問い掛けが、日々の労働に縛られ、定時に小さな部屋にもどり、休息して一日を終える私に折り返されてきます。
『映画じゃなくて街を見なよ、外はもっとcrazyだろ』
『お前はGotham Cityの囚われ人か』
ジョーカーはテレビカメラ(私)に銃を向けます。象徴とも言えるハリウッドスターを打ち殺します。そして、彼が「物語りを降りる」と宣言しうなだれた途端、裁判所の分厚い壁が爆破され、この映画の内と外との境界線が破壊されます。
娯楽映画の演出と手法で、娯楽映画を破壊する。虚構よりいっそう身につまされる《げんじつしゃかい》で閉塞感にあえぐ者にとって、この映画はまさに見るべきタイミングで出会えた作品だったと言えます。
これまで自分の目を楽しませ、心揺さぶられることもあった娯楽映画は、まったく価値のないガラクタの山となりました。
『どうせなら』と思うのです。マクドナルドでフライドポテトをたどたどしく揚げる元大統領や、違法だった大麻の合法化を約束して票集めを画策する副大統領が、闘いに勝つためにそこで働く人のプライドも顧みず、誰かを傷つける可能性に対しても手段を選ばない、その堂々とした節操のなさの方がよほどコメディだと。
さて、『ジョーカー2』で、電気店のショーウィンドゥをぶっ壊しテレビを盗み、彼を手に入れたレディー・ガガは、ジョーカーの子を宿すことになります。彼女はきっと“スマホ”を産み落とすことでしょう。
頭の中の稚拙な図式にしたがうなら、そしてもし『ジョーカー3』があるのなら、それはディズニーランドで限定公開されることを期待します。そこが一番ふさわしい場所ではないかと思うので…。