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父と母に
どうも墓参りに行けそうにない。京都に住む。巡ったことのない寺はごまんとある。帰郷できなくとも先祖供養する場所にこと欠きはしない。
「神護寺」に行った。京都市右京区梅ヶ畑高雄町にあり、いま東京国立博物館で催されている「神護寺展」(7月17日〜9月8日)のお寺だ。
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気のいい駐車場の方が、高雄町の寺々を教えてくれた。しかし先祖供養の線香をあちこちに立てて回るのも「どうか」なので、大汗かいて神護寺の本堂だけ詣り、これを父と母に見立てて線香二本に手を合わせた。
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『だらしない人にならないように』と念じた。父母の苦しみと、その苦しみが絡みついた生い立ちを思う。苦しみは拭われることなく、また拭いもできない。ただだらしなく生きたくはない。
山門を出て、参道に“水溜り”があるのに気がついた。振り返り『思い返せば水溜りはどこにあったろうか、水面に何を映してきたろうか』と考えながら下った。
小3のとき蹴散らした水溜りがあり、冬には凍った水溜りがあった。尻もちついたり、飛びこえられるか試したり、ボールを追いかけ泥まみれにしたのもあった。
アスファルトの隅っこで、水溜りは通天閣の灰色の鉄骨を映し、どんよりした空に架かる歩道橋の真ん中の人を、オフィス街のサラリーマンの黒い傘の先っぽを映したろう。
うすく濁った水溜りはモノクロの記憶のカケラたちだ。そこにあって、どこにもあって、そしてまたこれからもどこかにある。
はいつくばって覗きこめば、その人の人生がゆらいで見えるかも知れない。
振り返る余裕ができたのはいいことか、幸福な思い出も、そうでなかった思い出も、いま一つ一つ踏みしめる石段と夏の空だ。立ちどまれば涼しい風さえ感じる。
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