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丸山眞男著『日本の思想』第一章を読む(1)

 歯を抜いた、いろいろ問題があるらしかった。歯には名がついており「親知らず」という。
 抜いた歯は数日ポケットにしのばせて持ち歩き、手のひらに置いては眺めたりさすったりした。

 今朝、その小さな歯を橋の上から大きな川に投げこんだ。川のなるだけ真ん中に届けよと力を込めたのだか、少し手前でたよりない飛沫をあげたのをみとめるだけだった。

 子らの乳歯を屋根に放り投げたときのように、何か願いごとでもと思ったがなにひとつ浮かばなかった。


 丸山眞男の『日本の思想』を読んだ。「社会学」がなにを射程とする学問か、どんなものでも「社会学です」といえばそうなるくらいにしか思っていなかった。

 “実感”にズレがあり、自分には噛み合わせの悪い学問という思い込みは、『日本の思想』という、戦後日本を代表する社会学者の一冊で一掃された。
 ときに「お前はいったい何ものなのか」と詰めよられるようでもあり、罵られるほどに圧倒されるのだった。

 丸山の思索は、戦後の焼け野原に立ちつくす葛藤から始まるかと思う。

 (文学者が)制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的な立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。
 そこでは、制度に対する反撥(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と軽蔑(ときにはコンプレックス)に胚胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反撥を「伝統化」した。

丸山眞男著『日本の思想』岩波新書(p60)

 これは第一章・四の『実感信仰の問題』と小見出しがつく文章からの抜粋で、まずここがグサリときた。

 この“実感信仰”の問題に先立ち、日本には二つの思考様式の対立、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着があり、日本の近代化の進行にしたがい、官僚的思考様式と庶民的思考様式がほとんど架橋しえない対立としてあらわれ「組織と人間」の日本的なパターンが形づくられたと丸山はみている。

 しかもそれは対立しながら同一人間の中に共存し、近代化の矛盾の中でさらに乖離し、もともと日本の「近代」に内在したものが両極化して、日本における「制度」と「精神」の構造連関が表現された形態だというのだ。

 そして、日本における社会科学の「伝統的」思考形態と、文学におけるそれ以上に伝統的な「実感」信仰の交わらない平行線の根はそこにあるらしい。


 丸山の語を借りるなら日本の近代化の「精神的雑居性」を自覚せず、「社会」というのは本来あいまいでどうとでも解釈がつくだろうと、所詮はうつろいゆく現象にすぎないのだとたかをくくり、「私」は小さな歯を大きな川に投げ込むだろうか。

 第一章・四の『実感信仰の問題』からページを川上へとさかのぼりつつ、日本の近代化をこの書から学びたいと思う。

『日本の思想』(岩波新書1961)の発行部数は2005年(平成17年)5月現在累計102万部。
 大学教員達から“学生必読の書”と評される他、この中に収められている『「である」ことと「する」こと』は高校の現代文の教科書にも採用されている。(Wikipediaより)

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