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【H】「国家・銀行・自然」、マネーを巡る千年戦争—『21世紀の貨幣論』を読む(中)

昨日公開した記事にて引用が脱落していたので修正しました。


この記事は、フェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』の内容のエッセンスを、私の問題関心に即してまとめたものである。

今回は二回目の記事で、以下の初回の記事で私の問題関心について述べた。それはMMT派貨幣論が商品貨幣論を否定した後で「主権貨幣論」と「信用貨幣論」の二つの貨幣論を並列させているのはなぜかという問いだった。

次回、最終回では、本書から私が学んだことについて述べようと思う。

以下、今回の記事の目次である。


2、「国家・銀行・自然」、マネーを巡る千年戦争

さて、本書は冒頭で主流派経済学において通説的な地位にある「商品貨幣論」を否定する。商品貨幣論とは、物々交換の不便さを解消するために、交換される商品のうちの一つが貨幣の役割を果たすようになって、商品交換の普遍的な媒介となるという、マルクスの資本論冒頭に最もよく表現されているような理論である。そこでは貨幣はゴールドのような商品でありモノである。

それに本書が対置する貨幣の本質は以下のように規定される。

このもう一つの貨幣論の中心にあるもの、原始概念と言っていいものは、信用だ。マネーは、交換の手段ではなく、三つの基本要素でできた社会的技術である。基本要素の一つ目は、抽象的な価値単位を提供することである。二つ目は、会計のシステムだ。取引から発生する個人や組織の債権あるいは債務の残高を記録する仕組みのことである。そして三つ目は、譲渡性である。元債権者は債務者の債務を第三者に譲り渡して、別の債務の決済にあてることができる。

『21世紀の貨幣論』p40

貨幣の本質がそのようなものであるとして、問題は「だれがマネーを支配するか」(p98)である。

2-1、「国家」の屹立―中華帝国流の「主権貨幣論」

この問いに対して、歴史の早い時期に、それはもっとも信用され強制力もある「国家」であり「主権者」だと表立って答えたのが、いかにもらしいといえばらしいのだが、中国の思想家たちであり、具体的には春秋戦国時代に現れた『管子』であった。マネーとは主権者による主権貨幣、すなわち、ソブリン(=主権)マネーなのである。(p115-121)

『管子』では、「巧みに国家を治める君主は、貨幣を通用させる権限を握り、人民の命を司る食糧を支配する」とされ、「先王は貨幣を利用して富と財の確保を図り、それをもとにして人民の経済生活を制御し、天下を平安におさめたのである」とも説かれていたという。

具体的には、なんとも現代的なことに、貨幣量の調節で物価を操作できるという認識があったようだ。貨幣量の増加によってインフレを引き起こせば、民間の経済活動を円滑化したり、債権者から債務者への再分配をしたりすることができる。

この再分配でもっとも重要だったのが、新しい貨幣を鋳造したり、もともとの貨幣の質を下げて改鋳したりして貨幣量を増やすことによる、主権者以外から主権者への再分配であった。貨幣量の増加で主権者はより多くの貨幣を手にできるが、貨幣の価値は下がってインフレが生じ、主権者以外の貨幣の所有者の財産は目減りする。西洋のいわゆる「貨幣鋳造特権(シニョリッジ)」である。

中国でも、この特権が濫用されてインフレが生じ、それを収束させようとデフレ政策をとると、今度は経済停滞が生じて、人々の不満が爆発したという。そのなかで皇帝以外による貨幣発行を一時認めるものの、そういった貨幣発行者は信用を得るために政治的な力を求め、そうして実際に信用される貨幣を発行できるようになることで政治的な力を強めることとなり、ついには皇帝への反乱者となった。こうした教訓を経て、皇帝による貨幣の独占が中国思想の正統となったという。

これが紀元前2世紀のことというのだから、中国の歴史の深さはやはり驚くべきである。

さて、舞台を西洋に移す。西ローマ帝国の滅亡後には貨幣経済が衰退していた西欧だが、12世紀後半には再貨幣化が本格化した。そこで通用する貨幣を発行しえたのは「貨幣鋳造特権(シニョリッジ)」のシニョリッジという語が「封建領主(シニョール)」から来ていることから分かる通り、封建領主たちであった。

そして、徴税制度を整えることが十分にできていなかった領主たちは、収入源としてシニョリッジを乱用することになる。これは貨幣を持っている領主以外には財産が一気に目減りする災厄に他ならない。

14世紀にはニコル・オレームという知識人が、フランス国王に対して、これらの一般の資産家を代表するような形で、貨幣は主権者ではなく共同体のものであるとしてシニョリッジの濫用を諌める言説を展開したが、ついに効果をもたなかったのだという。(p135-142)

結局、領主や国王の「貨幣鋳造特権」に対抗するためには、国家のマネーとは別のプライベートマネーを利用することが必要だったのだ。それを可能にしたのが「銀行」の発明だった。

2-2、「銀行」の生成―私的な「信用」をマネーに変換する

本書によれば、第2節の冒頭で確認した通り、貨幣とは譲渡性のある借用証書だった。借用証書自体は誰でも発行できる。受け取ってもらえるかどうかは発行者の信用次第だ。

例えば、Aさんが私を信用していれば、「私はAさんにコレコレの借りがあるので、コレコレの期日までにアレソレをお返しする」という借用証書でもって、私はAさんに何か財やサービスを提供してもらうことができる。そして私がBさんにも信用されているのであれば、この借用証書を渡すことでAさんはBさんに何か財やサービスを提供してもらうことができるだろう。Bさんはそれを私のところに持ってきてお返しを貰えばいいと思うからだ。こうして借用証書は譲渡性を帯びることでマネーとして機能する。

問題は普通の個人が信用されている範囲は広くないことだ。私的な信用は通用範囲が狭い。大商会から発展した「銀行」が行ったことは、この問題を解決すること、そうして極々私的な信用を広く流通するマネーに変換することであった。

たとえば、先の例を続ければ、「銀行」は、私の支払い能力を審査したうえで私が発行した借用証書、つまり将来何かをお返しするという支払いの約束を受け取り、それと引き換えに銀行自身の支払い約束を渡す(p158-159)。銀行の前身は巨大な信用力を持つ大商人であるから、銀行の支払い約束は広く受け取られる。私は自分の支払い約束と引き換えに得た銀行の支払い約束でもって、私をよく知らないCさんに対しても支払いができ、Cさんから財やサービスを提供してもらうことができるのだ。Cさんも銀行なら信頼するからだ。

そして、銀行はこのように私からの支払い約束という「資産」と、Cさんへの支払い約束という「負債」を蓄積していく。後述するように、このいわばバランスシートのバランスが銀行にとっての命となる。

さて、この銀行の支払い約束が、今日、銀行預金と呼ばれているものである。銀行は支払い要求を受ければ、私たちが今日ATMで現金を引き出すように、最終的にはソブリンマネーを引き渡さなければならないが、銀行が信用されているなら、多くの人は銀行預金という銀行の支払い約束で満足する。つまり、私から銀行預金を受け取ったCさんも銀行にソブリンマネーでの支払いを求めることなく、自らの銀行預金を、今度はDさんへの支払いにあてる。それで経済活動が回っていくのだ。

こうして、ソブリンマネーから相対的に自立した銀行のマネー、バンクマネーが誕生するのである。この自立を明確に告げるのが「信用創造」だ。そこでは銀行は、後で返すと支払い約束をする私に対して、銀行の支払い約束である銀行預金を創造して交付する。そして、銀行は資産として私への債権をもち、負債として私の預金をもつ。

このとき銀行は自分が支払いを約束する分のソブリンマネーを持っている必要はない。銀行が広く信用されている限りで、銀行預金がたらい回しにされていくことで取引が展開されていき、ソブリンマネーを現金として引き出す機会は多くはないからである。

銀行にとって必要なことは、先に述べた資産と負債のバランスをコントロールして、自分が受けるソブリンマネーの支払いの範囲内に、自分がしなければならないソブリンマネーの支払いを抑えておくことだけなのだ。

銀行は、このコントロールの技法によって自分の支払い約束である銀行預金と同額のソブリンマネーを準備しておく必要がなくなる。ソブリンマネーは部分的に準備しておくだけで十分なのだ。誰もが銀行預金で満足してソブリンマネーの支払い要求を行使しないなら、極論、ソブリンマネーはほとんど必要がない。こうして、ソブリンマネーに完全には縛られることのない、バンクマネーが誕生することになる。

このようにして銀行は自らの信用によって、私的な信用をより一般的に流通可能な信用、すなわち、マネーへと変換するものとして始まったのであり、その銀行の信用のもとで部分準備による「信用創造」も可能になっているのである。

本書では、この私的な信用の拡張としてのバンクマネーを国家が警戒していたことが分かる興味深いエピソードが紹介されている。(p157)

すなわち、1321年にベネチア当局は、部分準備で済ませている銀行があることを突き止め、全預金者のソブリンマネーによる払い戻し請求に三日以内に対応できる体制を銀行に義務付けた。

同じ年、カタロニア当局は、銀行家が払い戻し要求に応じられなかった場合には、「公衆の面前で罵倒され、銀行の前で直ちに斬首される」ように命令を改正した。それで実際、1360年にはバルセロナの銀行家が処刑されることになったのである。

2-3、「国家 vs. 銀行」の抗争—「マネーの大和解」にむけて

こういうわけだから、国内銀行の状況は厳しかった。最終的にはソブリンマネーでの支払いを求められるし、それができないときには国家の厳しい規制が襲いかかってきた。

そんな銀行が本領を発揮したのが、国際決済だった。今風に言えば「国際金融資本」だ。金融資本は、ソブリンマネーの力が及ばない国際領域でこそ本領を発揮する。金融資本はそもそもの初めから「国際金融資本」だったというわけだ。

16世紀には国際決済のシステムが完成しており、そこではエキュ・ドゥ・マルクというソブリンマネーではない独自の通貨単位があって、それを通じて各ソブリンマネー間の為替取引が実現していた。

この国際的な為替取引を握ることで、銀行は国家に対する反撃に出る。「マネー権力者[=銀行]の利益に沿ってソブリンマネーが管理されなければ、ソブリンマネーを放棄すると威嚇したのである。形勢は完全に逆転した」(p163-164)。

著者のマーティン氏が、この点についてのもっとも優れた分析と評価するのがモンテスキューである。モンテスキュー曰く…。

為替相場は世界のすべての貨幣を比較して、それを適正に評価することを銀行家に教えた…為替相場が確立されたため、君公が貨幣を突然、大きく操作すること、少なくともそうした強権の発動を成功させることはできなくなった。

『21世紀の貨幣論』p169

為替相場を握り、君主の最高の特権としての「貨幣鋳造特権」を封印した銀行業は、君主の権力を制限する「立憲政治を求める聖戦のステルス兵器に姿を変えた」(p169)というわけである。

こうして国家と銀行の間に貨幣の標準をめぐる政治的な闘争があったわけだが、世界で最初の近代的な中央銀行と言われるイングランド銀行の創設は、この二つの権力の和解、「マネーの大和解」であり、近代的な貨幣制度の出発点となる。

出発点はイングランドの債務問題だった。もちろん、国家の債務が問題になるのは「貨幣鋳造特権」が封じられてしまっているからだろう。国王はこのイングランドの債務問題を解決したかった。

そこで採用された解決策が「官民パートナーシップ」(p177)型のイングランド銀行の設立だった。イングランド銀行の設計や運営は銀行家たちに任せられ、銀行券の発券という「貨幣鋳造特権」まで与えられた。その見返りにイングランド銀行から国王への融資が行われ、財政が再建されたのである。

このとき、プライベートな信用、プライベートマネーの拡張としてのバンクマネーがソブリンマネーの地位を獲得した。国王がイングランド銀行に信用を貸し、その見返りにイングランド銀行が国王にお金を貸すという互恵的な「マネーの大和解」が成立したのだ。

これが私の関心からいえば、MMTが商品貨幣論を否定した後で「主権貨幣論」と「信用貨幣論」を並立させていることの背景にある歴史ということになるだろう。

この国家と銀行との大和解のあとに「商品貨幣論」がこの貨幣の歴史、貨幣をめぐる闘争と和解の歴史、貨幣の「政治性」を隠蔽することになるわけだ。それは貨幣を全面的に「自然化」することによってである。

2-4、「自然」の勝利―ロックによる貨幣の「自然化=脱政治化」の政治性

イングランド銀行は1694年に設立されたが、その直後にイギリスでは硬貨についての問題が生じたという。

インフレが生じており、貨幣価値が下落し、同じことだが、硬貨に使われている銀の価値が上昇していたのである。その結果、硬貨の額面価値よりも、そこに含まれている銀の価値が高くなってしまっていた。硬貨を使って、そこに含まれるのと同じ量の銀が買えなくなってしまっていたのである。

こうなると硬貨は鋳潰されて銀として転売されるようになってしまい、硬貨が流通しなくなり、激しいデフレと経済活動の停滞が生じてしまう。こういう場合に伝統的に取られてきたのは、ある額面価値に対応する銀の重量を減らす対策だった。いいかえれば、ある銀の重量に対応する額面価値を上げる対策だった。

ここで起きているのはこういうことだ。たとえば、100円銀貨が銀1gで出来ているとする。だが、銀が値上がりし、1gで110円になってしまった。すると、みんなが銀貨を鋳潰して売ろうとする。対応策は1gでできている銀貨を110円以上の額面、たとえば、120円銀貨とするか、100円銀貨のままだが、そこに含まれる銀を0.8gにするかである。

これに真っ向から反対したのが、自由主義・立憲主義を打ち立てて後世に多大な影響を与えた哲学者であるジョン・ロックだった。ロックは、このような額面価値の変更を決して認めなかったのだ。それはいわゆる(銀)本位制の発想で、貨幣の額面価値を一定量の銀に固定しようとするものだ。ポンドと銀の重量の関係は可変ではない。「「ポンド」は銀の一定の重さを表す客観的な基準でしかなかった」(p190)。ロックにとって「貨幣の標準は[主権者が決定するものではなく]自然界にある事実だった」(p191)。

このロックの見解の背後にあったのが、ロックの自由主義だった。ロックの自由主義・立憲主義は国家以前の自然状態における一定の平和を前提にし、そこで人々が各々蓄積する財産を出発点にしていた。その財産の安全確保を完璧にするためにこそ、人々は国家の創設に合意するのであり、国家がそれに反するならば人々には抵抗権があるのである。

すなわち、国家とは財産確保の道具なのであって、その国家が貨幣価値を自在に変えてしまうなど論外である。それでは財産が守れない。「マネーの大和解が立憲政治に害を与えないようにするには、貨幣の標準を完全に固定して、君主や銀行家などから一切の干渉を受けないようにするしかなかった」(p200)というわけである。

このロックの意見が通り、貨幣の改鋳はなされず、デフレ不況が深刻化したのだが、それでもロックは勝利した。ロックに引き続いた主流派経済学は商品貨幣論を取り、実質的に貨幣の自然化を成し遂げた。現実の国家も銀や金に貨幣価値を固定する本位制を採用した。

この「自然化」の魔術によって、貨幣の価値をめぐる闘争、貨幣の価値の政治性は隠蔽されてしまった。この政治性が、ロックから300年、ニクソン・ショックによる金本位制の終焉から50年がたった今、再び明確に現れつつあるのが、21世紀の今日であり、本書『21世紀の貨幣論』も、その一つの現れに他ならない。

明日の記事では「貨幣論の究極は政治であり、政治の究極は貨幣論である―『21世紀の貨幣論』を読む(後)」と題して、私が本書から学んだことを結論的に簡潔に整理したい。

続きはこちらです。

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