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【H】貨幣論の究極は政治であり、政治の究極は貨幣論である―『21世紀の貨幣論』を読む(後)


この記事はフェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』の読書記録の最終回である。

前編の記事では私の関心について語り、中編の記事でその関心の観点から見えた本書のエッセンスを紹介した。後編では、本書から私が学び取ったことを簡潔にまとめたい。

3、貨幣論の究極は政治であり、政治の究極は貨幣論である

私が本書から学んだことを整理しておく。

3-1、MMTにおける「主権貨幣論」と「信用貨幣論」の並列の背景

第一は、私の関心に対する答えである。私の関心は、もともとMMTにおける二つの貨幣論、「主権貨幣論」と「信用貨幣論」の並列の背景だった。それを本書は、商品貨幣論の支配以前にあった、貨幣の価値ないし標準をめぐる、国家と銀行の闘争と和解という仕方で明らかにしてくれた。

西洋中世において、貨幣は封建領主(シニョール)が発行するものであり、封建領主がその価値ないし標準を決定する権限を有した。それは主権者の発行するソブリンマネーだった。徴税権を確立できていなかった領主たちは「貨幣鋳造特権(シニョリッジ)」を乱用し、貨幣を増発して自らの収入を確保しつつ、貨幣量増大の帰結としてのインフレによって、他の資産保持者たちの資産を目減りさせた。「貨幣鋳造特権(シニョリッジ)」の発動は、領主以外から領主への再分配だった。

これに対抗したのが他の資産保持者たちだが、その対抗が有効な仕方で実現されたのは銀行の発達による。銀行は自らの信用によって、私的な信用を広範に通用するマネーに変換する機関であり、その機能によって国際為替の領域で支配権を確立した。この立場から、銀行は領主や国王の「貨幣鋳造特権(シニョリッジ)」の発動を牽制した。そんなことをしたら、領主や国王のソブリンマネーを放棄すると脅したのだ。

イングランド銀行の創設という「マネーの大和解」は、このように対抗してきた国家と銀行との和解であり、それによって国家と中央銀行の連携、ソブリンマネーとバンクマネーの協調が成立したこと、それがMMTにおける二つの貨幣論の並列の歴史的な背景なのである。

このマネーの大和解の成立の直後、自由主義・立憲主義の理論家であるジョン・ロックは、各人の財産を守るという自由主義・立憲主義の立場から、貨幣価値が国家や銀行によって左右されることを拒否し、金・銀などの貴金属商品こそが真の貨幣であり、貨幣価値を金や銀に固定すべきことを主張した。いわゆる、金や銀での本位制である。この主張が勝利することで、貨幣価値は、国や銀行に左右されない不変のもの、すなわち、自然なものとされた。この商品貨幣論が経済学の主流となったのである。

ロックの時代から300年、ニクソン・ショックによる金本位制の終わりから50年経って、商品貨幣論はもはや信頼を失いつつある。こうして貨幣価値の自然性の化けの皮が剥がれたところで、マネーの大和解の基本構造、主権貨幣と信用貨幣の併存状況が見えてきた。それを素直に表現しているのがMMTの貨幣論ということになるだろう。

3-2、「国家・銀行・自然」、マネーをめぐる三つ巴の戦いの現在地

学んだことの第二は、貨幣の価値ないし標準はそもそも歴史的に闘争の対象であり、したがって極めて政治的であることである。その政治性を消去する金・銀等の本位制による貨幣価値の自然化そのものが、その主導者ロックの主張に表れている通り、資産家たちの資産防衛という政治的な意図を持っていたわけだ。

この認識を通じて、国家が貨幣を決定するという「主権貨幣論」を表立って復権しようとするMMTに対する資産家陣営(?)からの批判の苛烈さ、あるいは「主権貨幣論」を「信用貨幣論」に優位させようとするPMT派の「国際金融資本」「銀行」への極めて攻撃的な姿勢、そういったものの背景が少しは理解できたように思うのである。

ロック的な「財産を持つ自由主義者」の末裔は、リバタリアンとして、国家に価値の左右されることのない資産であるゴールドやビットコインを称揚する。国際金融資本(?)や、そのイデオロギー的な影響下にある人々は「債権自警団」やら「通貨自警団」やらとして、貨幣価値を揺るがしかねない国家の拡張的な財政支出を牽制する。MMT派はゴールドやビットコインは租税のような義務的な支払いに裏付けられていないから貨幣でないと断じ、PMT派は国際金融資本を諸悪の根源として指弾する。

このすべてが貨幣とその価値が本来持っている徹底的な政治性の反映に他ならず、すでに千年近くの歴史を持つ「国家・銀行・自然」の三つ巴の戦いの最新の一場面に過ぎないようなのだ。

3-3、貨幣論の究極は政治であり、政治の究極は貨幣論である

このことは、この貨幣論の問題が単に理論的に正しい正しくないという問題ではなく、各人の死活的な利益に関わる政治的な問題でもあり、簡単な解決、純粋に知的な解決を許さないものだということを私たちに教えてくれるだろう。それは極限的な利害の対決の生じる場所なのだ。

貨幣論自体が単なる理論ではなく、貨幣論が最後に行き着く先は政治闘争なのであり、逆に、貨幣の価値こそが資源の分配という最高度に重要な政治問題の帰趨を決定するものであるかぎりで、政治の行き着くところは貨幣論なのである。

貨幣論の究極は政治であり、政治の究極は貨幣論である

このことを結論として、本書の読書を終えることとしたい。

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