雑誌「暮しの手帖」は創刊当初、作家・学者・政治家・実業家・芸能人など、著名人の随筆を多数掲載していた。花森安治氏が培ってきた人脈の広さに圧倒される。歌手・笠置シヅ子氏も、寄稿者として名前を連ねている。 「えい子はえゝこ」笠置シヅ子氏の寄稿は、1952年発行の第16号に掲載された。題は「えい子はえゝこ」。ひとり娘の亀井ヱイ子さんを溺愛する様子が綴られている。 「親がなくとも子は育つ、の諺を痛切に感じます。」と書きつつ、仕事仕事と追われている日々だからこそ、休みの日は一秒
衆議院議員選挙が終わった。 私が投票権を持つ選挙区では、かねてから問題行動や発言が多く、信条的にも危ういところがありながら、町内会や老人親睦会など、高齢者から成る各種団体を中心とする岩盤支持層の上であぐらをかいていたベテラン政治家に、ようやく議員を遠慮していただくことができた。私が投じた票も、その目的に寄与できた。 しかし他の選挙区の結果を見ると、いわゆる”裏金”を激しく糾弾されている人、ほとんどの人が反対していることを強引に決定したあげく、それを”民主的”と勘違いして、
”なぎ子”の船旅 清少納言は子供のころ、父・清原元輔の周防守赴任に同行して、周防国府(山口県防府市)でおよそ4年間暮らしていたと伝わる。彼女は966年生まれ説が有力で、元輔が周防守を務めていた時期(974-978年)は8歳から12歳にあたる。現代の感覚ではまだ幼い年頃だが、昔の人は早熟ゆえ、都に戻るころは思春期の入口に達し、多感な時期を迎えはじめていたとも想像できる。もちろん「清少納言」の女房名がつくよりもはるかに前だが、子供の頃の名前はわかっていない。現代の小説やマンガ
今から、とてつもなくくだらないことを書く。 『心が風邪をひいた日』という音楽アルバムがある。 まだ、今でいうシティ・ポップのサウンドが完成する前の時代に作られた。今でも有名な「木綿のハンカチーフ」は、このアルバムに収録される曲のひとつとして書かれた。 少し変わったタイトルは、作詞家の松本隆さんがこのアルバムに書いた、別の詞の一節から取られている。青春期が終わり、社会人として第一歩を踏み出す時期を季節の変わり目になぞらえて、失恋の痛みを「心が風邪がひいた」と形容している。
まだ暑いが、10月も少しずつ進んでいる。 テレビで「あのニュース」が取り上げられる時期に入った。 ノーベル賞の受賞発表。 五輪などと同様に「日本人の受賞者はこれまでに何名」と、国威発揚式の報道をして(近年は「アメリカ国籍を取得した人も含め」とまで言っている。その人がなぜ米国人になったのかに、思いを馳せようともせずに)、著名作家が今年も選ばれなかったと、ファンが残念会を開くところまでがワンセット。ほとんど幕の内弁当である。 その味つけとして「受賞者の妻の談話」がある。 こ
北海道の道南方面には幾度も出かけているが、鉄道で行くとなぜかハプニングに遭遇しやすい。交通障害、盗難、ホテルの予約トラブル…まあ、いろいろあった。飛行機で行く時は毎回美しく清々しい旅にできるので、よほどこの地域の鉄道との相性がよろしくないのだろう。 寝台特急「北斗星1号」の個室を取った時。勤務時間の都合上上野からは乗車できないので、新幹線で仙台まで行き、先回りする形で待ち構えていたら、北斗星1号は大雨のため福島駅で抑止しているという旨のアナウンスが構内に響いた。急ぎ福島まで
私はYoutubeなどの動画サイトをあまり見る方ではないが、新作が公開されるたびに目を通すチャンネルがひとつある。「ゆきんこKUROKO」さんという方が作る、主に関西の大手私鉄で使われている鉄道車両や関西圏の駅を擬人化して、おしゃべりをさせるという趣向の動画である。 私鉄各社で長年培われてきた沿線イメージをバックボーンとしつつ、細かいところまで観察して、話の種を拾ってくる。時事ニュースも迅速に取り入れる。JR西日本で播但線の特急「はまかぜ」に使用されているキハ189系や、南
8月上旬、ひとり旅の帰りに飛行機に乗った。 時節柄か、家族連れの姿が多い。 長時間のフライトとなるので、シートベルト着用サイン消灯時は私も含め、お手洗いなどに立つ人の姿もみられた。客室乗務員から買い物をする人もいる。 乗り合わせている子供たちはとてもおとなしく、ネットでよく見かけるようなトラブルもなく、平和な機内だった。 気象情報を参考にしつつ、2週間前くらいに予約したので、3人掛けの真ん中の席しか残っていなかった。残っているだけでもありがたかったので、そのこと自体に不満
台風シーズンたけなわである。(2024年9月11日執筆) 9月1日は「防災の日」となっている。 8月は宮崎県沖で大きな地震が発生した。 天候が荒れてくると、気象庁の人が 「命を守る行動を取ってください」 と訴える、記者会見の模様が中継される。 特に荒れていない時も、しばらく地震がない時も、「首都圏ネットワーク」などのテレビ番組はしょっちゅう”防災対策コーナー”を設ける。 気象予報士や、若い記者たちが口を揃える。 「ひとりでも多くの人の命を守るにはどうすればよいか、私た
4.14%2024年8月、25年ぶりに伊良湖岬を訪れた。 恋路ヶ浜でバスを降りて、まず日出(ひい)の『椰子の実』詩碑に向かう。丘の上に建つリゾートホテルを目指す形で、クラクラするほどの直射日光が降り注ぐサイクリングロードを歩く。この道は25年前も歩いているはずだが、全くその記憶がないことに愕然とする。老化は忍び足で、私の心に近づいている。 途中アップダウンも多く、想像以上にしんどい。かなり歩いたのに、まだ着かないの?…と感じたのは、暑さのせいだけではなさそう。20分ほど
島崎藤村は行っていない『椰子の実』の歌は、今でも広く知られている。防災無線を用いた夕方のチャイムの曲として使っている自治体もいくつかあり、うらやましく思う。(私が住んでいる自治体の夕方チャイムは音割れするほどひどい音で、しみったれた曲をかける。うるさく押しつけがましく、毎日聞かされるたびに気分が沈む。かつては”サザエさん症候群”的抑鬱を引き起こすアレルゲンでもあった。) 『椰子の実』は現在、作家・島崎藤村(1872-1943)の代表作として位置づけられている。愛知県田原市
徒然なるままに検索していたら、『才女』という唱歌についての記事を見かけた。原曲はスコットランドの音楽家Alicia Scottが1838年に作曲した『Annie Laurie』(アニー・ローリー)である。 『アニー・ローリー』は、17~18世紀のスコットランドの詩人ウイリアム・アダムス(William Douglas、1672-1748)が、深く愛し合いながらも周囲の意向で別れざるを得なかった恋人アニーへの慕情をうたった詩である。死後90年ほど過ぎて曲がつくとどこか物悲しく
一年で最も疎ましい季節を迎えた。 年々ひどくなる暑さと湿気。 早朝5時前後に起きて、2時間ほどかけて食事と家事を済ませると、もう汗がにじみ出るほど気温が上がっている。昼前から午後は頭がぼんやりして、何もやる気がなくなる。物を書くのも、音楽に耳を傾けるのも、本に目を通すのも面倒になる。汗まみれになるのが嫌なので、外出は必要最小限にとどめる。眠くなったらすぐ横になるが、10分もしないうちに目が覚めてしまう。仕事から離れて、本当によかったと思う。 夜になってもモワッとする空気に
「言葉の乱れ」「日本語の乱れ」は、往古から時代を問わず嘆かれている。『枕草子』にも書かれている。それを書いた清少納言自身が、「生意気にも真名(漢字)など使って、嘆かわしいものだ」と、上世代から思われていただろう。 今回は、2011年の震災の頃までは見かけなかったが、ここ数年でやたらと増えてきた「どこか目障りな言葉」について、思いつくままに挙げていきたい。 1.「紐づける」 オンラインで、あるデータを他のデータと連携させることを「紐づける」と言い出したのは、ここ5~6年く
「長崎の鐘」の歌(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、1949年)は、今の世にどれほど知られているだろうか。何年か前に朝の連続テレビ小説で歌われていたから、その場面を思い起こす人もいるだろう。ある程度以上の年齢の人ならば、「思い出のメロディー」等のテレビ番組に出演していた藤山一郎氏が、祈りを捧げるような目で歌い上げていた姿を思い出せるかもしれない。 この歌は、長崎市浦上に投下された原子爆弾により重傷を負った長崎医科大学助教授(被爆当時)・医学博士(放射線医学)の永井隆氏(
7月30日は、大正天皇(明宮嘉仁親王)が即位した日(1912年)である。すなわち、2024年は「大正113年」である。 数年前まで、片隅に「大正〇〇年、昭和〇〇年」と記したカレンダーをよく見かけた。家でも使っていた。しかし、いつしか「大正」の書かれたカレンダーを見かけなくなった。 自分が子供の頃や学生時代に書いたものを見ると、年の表記はすべて「昭和」の年数を使っている。周囲の人が書いたものや、当時の新聞雑誌類や印刷物も、ほぼ同じである。 昭和は長く続いたし(日本の歴代元